アマノジャック


 好きです。付き合ってください。


 そういわれたのも束の間のことで、告白した女学生が平手打ちをかまして帰っていくのを正一は呆然と見つめていた。自身が通う高校の校舎の真裏。日の落ちかけて走り去る少女が赤い太陽の中に消えていく。正一は何が何やらわからず、ひたすらにボーッと、それから自分の学生生活が今後どうなっていくのかをぼんやりと考えた。校内のこういうことは火よりも早く広まる。きっと酷いことになるだろう。その始まり。正一は自分が何をいったのか思い出した。


 頭を下げた少女。同級生で自分よりも背の小さく可愛らしい女の子。頭を後ろ一つに結んで、桃色の髪飾りが印象的な子。正一は彼女に多大な好意を持っていた。普段から話す仲じゃなく、また一緒に登下校したり部活が一緒なわけでもない。強いていうなら数回日直が重なっただけの女の子。でも、これはきっと憧れにも近いところがあるのだろう。彼女は学業成績、授業態度もいい(運動能力は低いが)賢い女性で、二、三言話すだけでも、そのはっきりとした話し声や背筋を伸ばした姿勢だけでも知性を——それから彼女の決して小さくない胸の膨らみを勘案しても——最上の女性だと断言できる。正一にとって彼女は限りなく魅力的な女性だった。それなのに、そんな女性に頭を下げさせているというのに。


「お断りです」と、顔を上げた少女に対して「前から嫌いでした」なんて真顔で告げていたのである。正一は初めの一言が口から放たれた瞬間に心の中で疑問符を生んだ。そして今の発言を自分の声を自分の耳で聞いて、尚更、正に耳を疑った。どうにも今朝見た記憶と大分違っていた。というのも今朝見ていた夢の中では、こんなことは起こらなかったからだ。


 その夢は妙に精細で現実的だった。毎朝のように学校へ行って、自分の下駄箱の中に手紙が入っていて。正一はベタでもドキマギした。薄い桃色で角の丸い封筒、それに下には「正一さんへ」と綺麗な達筆な字が綴られて——これが男子からの悪戯なら脱帽ものだろう——誰がどう見たって女子からのものだった。正一はその場で手紙を開封して誰かに見られることを恐れ、わざわざトイレの個室に籠って手紙を開ける。美麗な達筆が放課後に校舎裏の人気がない裏道に来るように指示していた。大事な話があるそうだ。大事な話。女子からの、大事な話。


 正一は決して普段そうはしないのにまるで感情を隠すように机に突っ伏して放課後を待った。きっと誰と何をしても顔がニヤついてしまうだろうから。冴えない一男子学生である正一にとって手紙で女子から呼び出しを貰うなんて初めての出来事だった。


 放課後のチャイムが鳴る。幸いなことに体育はなく、学友達は正一が眠いのだと思ってあまり話しかけようともしなかった。正一は部活に入っているわけではないから教室を抜けると廊下を早足に歩きながら深呼吸を繰り返す。吸って吐く呼吸の一つを出来るだけ長く行うことで未だ冷めやらぬ心臓を落ち着かせようとした。しかし、早々と前へ前へと進む足に、結局は校舎裏までバクバクと跳ねた鼓動のまま着くことになる。


 着いて、そして、目の前の女子学生に心臓が破裂することになった。


「あの、手紙で呼び出してすみませんでした」


 彼女はそう頭を下げた。可憐な唇は薄く赤く、丸い小顔に掻き上げて後ろ一つに纏めた黒い髪、目は丸く茶色い瞳で、背負った夕日と見間違いじゃなければ頬を赤く染めている。憧れの君。


 正一は生唾を飲み込んだ。彼女は鼻息を聞こえるくらい吸って吐いて、気合を込めてまた吐いて、一度ギュッと目を瞑ってから頭を下げ、少し声を大きくいうのだ。


「好きです。付き合ってください」


 正一の慟哭はより一層激しいものになった。正一にとっては願っても無いことであり、しかし、自分なんかがといつも尻込みをしていた人に先回りの告白をされたのだ。そもそも会話なんか数えるくらいにしかなく、接点は同じクラスであったことだけなのに。色々な考えが巡り巡って正一を駆け抜けていった——が。


 彼は下げた彼女の頭よりも下に手を差し出し、握手を求めつつこういう。


「僕も好きでした。お付き合い、お願いします」


 人生はバラ色だ。


 そう——こうだったこうだった。思い出す頃には彼女の平手打ちが自身の頬に飛んでいた。空気の破裂音が校舎裏に響いて、正一は何が起きたのか判らないと一瞬、目を白黒させた。そして、気がつけば、彼女は夕日に消えていたのである。正一の不安がもうじき訪れる夜闇の如く、心を這って迫ってくる。正一はその場に力無く座り込むと頭を抱え、額から勢いよく滲み出た汗が数滴、地面を濡らす。


 その時である。正一の背から黒いものが顔を出し、高らかに声を張り上げた。


「ああ、楽しい楽しい。もっと憑いていてやりたいが、しかし若人の生など如何様にも見飽きたものよ」


 正一にその声は聞こえなかった。いうと黒い小さな影は正一からぬるりと出て一目散に駆け出していく。全身が黒く、羽根のない体には小さく尻尾が生えていて、例えて猿のような、しかし額には角が一本伸びていてその顔はというと正一に瓜二つであった。告白を断ったのはこの顔で、この顔が正一に覆い被さって言葉を話したのである。黒い獣は高らかに笑って新たな贄を探して彷徨い出した。


 この獣の名は天邪鬼という。しばしば人生の転機や好機に割って入って思うことの反対を話させたりして引っ掻き回す嫌な妖怪だ。他にも言動にとどまらず、例えば精細な絵を描く天才の筆を濁らせて満足のいかない絵にしたり、社の運命を決するような重要な場面でわざと破滅の道を選ばせたりさせるが、しかしそれらは何も悪いことを起こすばかりでもない。もっとも、それは結果論に従っているだけといわれればそうなのだが。


 また天邪鬼とはその本来の姿を現すこと自体稀である。従ってこの少年のように天邪鬼が抜け出る瞬間しか、それまで誰に天邪鬼が憑いているのか判らないところも特徴である。


————————————————————



「なんだいこの絵は?」


 目の前の大きなバッテン印を指差して雅一は嘲るようにいった。立派な金の額縁に嵌った大きな一枚絵に墨で乱暴に引いたようなバツ。その下には写実的な街並みと青空に水平線の油絵が少しだけ見えている。額縁の下には「失敗作」という題名と作者の名前が書いてある。雅一はケラケラとせせら笑う。だらしなく上がった口から黄色い歯を出し、一重で釣り上がった目に眉毛は剃っていて伸びきった黒い髪を油で後ろに流している。ダメージジーンズに黒い革のジャンパー……。


 画廊には大抵身なりのいい人間がいるものだが、しかし、別にドレスコードがあるわけでもない。まるでふらっと入場無料の美術館にでも入っているような気軽さでもう一度「なんじゃこの絵」とまた笑った。


「お客様、こちらの絵がお気に召しましたか?」


 声のする方を向くとそれこそ身なりのいい背広を着た中年男性オーナーが如何にも営業用の笑みを浮かべて聞いてくる。営業トーク。店員から積極的に話しかけられるとよっぽどの買う気がない限りさっさと帰ってしまうもの。彼もそれが狙いで話しかけてきたんだろう。雅一は知った上であえて質問をする。


「えと、この絵、随分もったいない絵だと思いましてぇー」


 いうと、ウ、ホン。オーナーはわかりやすい咳払いをして答える。


「ああ、こちら、作者が今話題の島下御膳が描いた内の一枚で何でも傑作を仕上げていたんだそうですが致命的な失敗をしたとかでこうして墨でバツをつけたんですよ。それが破棄される予定だったところを私が頂いてきたんです」


 へえ。雅一は相槌を打ちながら全く買う気もないのに値段を尋ねてみる。するとオーナーはしたり顔で両手の指を合わせて九本立てる。「九——十万?」


「もう一桁上になります」


 雅一は失敗作でもそんな高額になるのか、と大きなバッテンを見上げた。自分のなら、例え動画投稿サイトにあえて失敗作を投稿したって一文にもなりゃしないだろう。つくづく人生って奴は理不尽だ。雅一はバッテンを見て考える。その時、画廊の入り口のベルが鳴る。オーナーはそれを聞いて雅一から離れ、そちらを振り向いていった。


「あ、いらっしゃいませ——」


 そして後悔した。うわ。画廊の入り口を見て早々、オーナーである田子橋は心の中で呟いた。


「ああ! 田子橋さん!」


 不幸にも画廊にはあの売約済みの絵を見つめるミュージュシャン崩れ見る目のない男と自分しかおらず、今入ってきた、よれた背広にくたびれた紅いネクタイ、年代物の天辺禿げの男と目が合ってしまう。男は自分を見つけるやいって、歳の所為か、はたまた今の状況の所為か判らない腰の曲がった姿勢で近づいてくる。まるでゾンビだ。その名は三沢。あれでも元社長で、かつてはここの顧客だった。が、今はかなり迷惑な押し売り屋だ。田子橋はそれでも繕った笑顔でいう。


「おや、三沢さん。何かご用ですかな?」


「先日お伝えした絵画の売却に関してなんですが……」


 ほらきた。


「三沢さん。電話でもお伝えしたではありませんか。見聞しましたところ、当店に見合ったものではなかったんです。ですので売却はできません」


「そんな! あなた様のお父様の代にこの画廊で購入したものなんですよ!」


 せめて当時の値段の二分の一くらいは……。縋り出した三沢の希望を砕くようにしかし、言い聞かせるようにやんわりと柔らかくいった。人前だから。


「三沢さん。いいですか。絵画というものは時価なんです。生鮮食品のように時期が過ぎれば価値は段々と無くなってしまうものなんです。あれらの絵の作者は今や一人として好事家の間ですら誰一人として話題にはしないんです。あれらの絵にはもう商品価値は一文もないものなんです。三沢さん。私も一介の商売人です。価値の無いものにお金は出せません」


 確かに。後方で聞いていた雅一は頷いた。いつの間にか視線が絵から田子橋と三沢に向いている。動画投稿だってそうだと彼は思う。初めは再生数が伸びても、そこからあとは尻すぼみ。それでいて一万にも届かない。そんなものに、全く価値はない。


「そんなことを言わずに! どうかどうか。お情けをかけてくださいませんか!」


 腰の下に自分よりも高年齢の男性が泣きついてくる。田子橋はこうなって初めて不快感を露わにする。うちにはどうして客ではなくもっと程度の低い輩しか来ないのだろう。親父がオーナーをしていた頃、ここは客でいっぱいだった。それでも、親父が亡くなる頃には今と同じような状況になっていたが。自分がこの画廊を継いだとき、置いてある絵や店の古臭い雰囲気を一新して流行り物を取り入れ、また絵画が見やすいように壁や天井を広く白くした。それで初めは客が来ていたのだが、ここの所はこんな奴らしか来なくなっていた。田子橋はその手の人間が大嫌いだ。あのミュージシャン崩れと話した時も彼が臭そうで距離を置いていたくらいである。この腰に纏わりつくジジイも嫌いだ。自身のミスで会社を傾かせ、それをどうすることもできなかった馬鹿な元社長。こいつもあの男も市場価値など一ミリだってありゃしない


「三沢さん。うちは慈善団体じゃ無いのです。もし、お金が欲しいなら、ここに置いてある絵画のようなものを持ってきてください。そうしたら考えますから」


 口調は優しく、しかし三沢を振りほどく手は力を込めて。画廊には例の失敗作の他、所謂現代アートの類が殆どを占めていた。抽象的で理解しない人の方が多い絵画。丸と三角と四角の連続体が色違いで塗られている絵(タイトルは「虹を掛けた世界」)は五百万もするし、わざわざベネチアで買い付けた。今やそんな絵が大量にある(そして一枚もここを出て行っていない)。他方、三沢の持ち込んだ絵は昔ながらの風景画が大半であり、それは今や百均の置物売り場で幾らでもあるような代物だった。


 三沢は組みつくのを止めると、しかし、膝をついてがっくりとうなだれたまま、誰とも視線を合わさずに、


「私は会社が大嫌いでした」


 絞るような声で言う。


 は? 田子橋は怪訝な顔をした。が、続く言葉達の異様な雰囲気にただ聞いていることを余儀無くされる。三沢はもう一度同じことをいって続けた。


「私は三代目なのです。戦前から続く商社でバブル期の荒波ですら乗り越えて見せました。その頃の経営は私の父だったのですが、その背中はいつもいつも大きくて。父はよく私にいっていました。「お前が三代目になるんだぞ」と。だから私はいっぱい勉強をして、国立大学にも入りました。脇目も振らずに勉強をして、良い成績で大学を卒業し、しかし、親父には叱られてばかりでした。思えばその頃からだったかもしれません。親父が癌で亡くなって私が経営になり、初めは順調でした。しかし、海外に手を出した頃、あのリーマンショックです。何度も何度も荒波を乗り越えてきた我が社……。きっと私の愛がなかったからなんです。私はあの日、疲れていましたし、午前中からそうでした。押してはいけない契約書を私は、私はしっかり読み上げたはずなのに……判子を押してしまって……」


 三沢の会社は地元に根を張った老舗雑貨店で会社の傾きを抑えるために商品の発注調整をしていた。そのため、普段の発注契約書と新規のものをより分けている最中に前者に判子を押して通してしまったのだ。後から気づいた時にはすでに機械生産故に止めることもできず採算が合わなくなって資金難に陥り、文字通り身銭を切ってる最中である。資金繰りは予想以上に難航し、ここへは資産として保有していた絵画の買取を他に散々断られて最後に縁故を頼ってきた。三沢は人生とは全く理不尽だとおいおい嘆く。


 田子橋はその嘆きに確かに哀れみを覚えた。しかし、それは自分のミスを起点にした、はっきりいって自業自得であるし、絵を買わせたのは自分の親父であって自分ではないから買い取る理由になるともいえないだろう。帰ってくれ。そう突き放そうとした矢先のことだった。


「俺も、自分がやってる音楽は嫌いです」


 その声に田子橋は素っ頓狂な表情で振り向く。大っ嫌いだ。もう一度いって雅一は続けた。


「俺は大学を出る前から音楽を作っているんです。自分の感性を信じて、自分の才能を信じて。でも全然なんです。跳ねもしなきゃ、話題にも上らない。最近だと音楽で売れるやつはみんな若いんです。十六とか十八とか。才能あるやつはすぐに掘り出される時代になった。それに、そういう奴らはもっと小さい頃からやって作曲の知識も技能も俺よりずっとある。俺はそもそも始めるのも遅かったんですよ。十九、大学の入りたてで初めて、最初は楽譜の読み方すら知らなかった。今は二十七。当時、無謀だって、友達は俺を馬鹿にする奴もいたし、もちろん、応援してくれる奴もいた。けどそいつらだって今は俺を、人生を棒に振った奴って思ってるでしょう。そいつらはみんな就職して社会人です。俺は俺を負け犬にした音楽が大嫌いなんですよ」


 あんたと似てるでしょう。三沢は年甲斐もなく泣いた顔を上げるとまだ若い青年を見た。嫌いだという彼の眼差しは、しかし、未だ真っ直ぐに思えた。

 

 田子橋はまたも同情の蓋を開けそうになる。だが、やっぱりそれは自分の選択ミスの所為であり、同情するとまではいえない。それにここを負け犬会場にされるのもいい加減にしてほしいという気持ちが湧いた。田子橋は二人が視界に入る位置まで来ると、咳払いをして二人の視線を集めてからいう。


「私はあなた方が大嫌いだ」


 二人は目を驚いて顔を見合わせると再度田子橋を見た。


「あなた方は決して、この画廊で金を使わないでしょう? それはもちろん。ここが高級な場所であなた方は買えないことが肌で分かっているからです。それでもここにくるあなた方の魂胆は分かっています。ここには羨望がある。例えばあなた」雅一を指差す。「あなたは売れないミュージシャンだ」


 雅一はすぐさま反論した。


「いや、作曲家です。音声ソフトに自分で作った歌を歌わせてる」


「ええ、でも鳴かず飛ばずなんでしょ?」これにはまあと答える。田子橋はほらね薄ら笑いを浮かべて「ここで絵を買う暇があったら曲を作ったらよろしいでしょうに」と続けた。


 雅一はこれに答えなかった。それが肯定だと思った田子橋は今度は人差し指を三沢に向けていう。


「それから三沢さん。あなたはこの場所をよく見るべきだ。ここはあなたが持つ古臭い無価値な絵を置いた画廊とは違うんです。最新の価値を見出し、最新のトレンドを置いた今の美術館なんです。何度もいうように、私は金貸しじゃないんだ。私が価値を感じない絵をあなたから買い取ってそんな資産価値もない売れない絵を一体どうしろというのです。燃やしてもいいというのならそうしましょう。それでいいのならね!」


「で、でもあの絵はあなたの父から……」


「だまらっしゃい!」


 田子橋は怒鳴り、三沢は驚いて縮こまった。田子橋は二人を交互に指差しながらいった。


「いいですか。そもそもこういった芸術品の価値など本来ありはしないんです。ただ流行っていたり、元々有名だったり、あなたがさっきおっしゃったように幼い頃からの研鑽があったり名のある人の目に止まればそれが価値になるんです。しかし、その価値も移り変わって、本物の美術館ぐらいにしか不変の価値というものは残らないんです。誰かが作ったものになんて本来何の価値もないんですよ」


 絵の技法に関する知識や技術そのものなんて二次的でしかない。だからこんなところにあなた方が来ても無駄なんだ。さあ、どうぞ出て行ってください。と指先を勢いよく玄関に向ける。田子橋の顔は真っ赤だった。が、直後にその顔がえっという驚きに変わり、口元に手をやる。思いがけず本音が出た。二人を見返す。二人は呆気に取られたと見え、しかしその目線は自分ではなく自分が指差した方向に向いていた。


「そりゃそうだ。でもあんたがいっているのは値段のことで実際の価値じゃない」


 声がそちらから聞こえてくる。田子橋は慄いて顔をそちらに向けた。身なりのいい男性がいた。長身で肉付きのいい体格をしており、短髪を整え、髭の跡もない張りのある健康的な肌に力強い目は強い自信を感じさせる。また背広も田子橋や三沢と違って高級な生地を使っていることは一目瞭然であり、ピカピカに磨かれた靴。きっと雨が降っても水を全て弾いてしまうだろう。溌剌とした金を持った客。田子橋は赤ら顔をすぐに引っ込めた。愛想笑いを浮かべようとするや、


「あ、正一さん。待ってました」


 雅一がそういって田子橋を押し退け年若いリッチの元へ行く。田子橋はギョッとした。


「ごめんよ。待たせたね。雅一くん」


 正一はそう返すと雅一と隣り合って並ぶ。正一の方が頭半分ほど大きい。しかし、顔が似ていたりはしないし、さん付けの雅一の方が正一より老けて見える。と、田子橋は雅一のいう正一という名前が気になって記憶を巡らせ——答えはすぐに出る。


「あ! 本日お買い上げ予定の正一様!」


 すみません。忘れておりました。深々深々と頭を下げ、顔を上げて、「ようこそ。画廊田子橋へ。どうぞ、お見知り置きを」と握手を求めて差し出す。正一はにこやかな笑顔を向けてその手を握り返し、


「こちらこそ。初対面ですが、僕はあなたのことが大嫌いになりました」


 そういうと空いた手で胸ポケットからある物を取り出した。見たところ棒状で先端はマイクの風除けのような、側面には再生停止早送り巻き戻し、それから録音ボタンがある。正一が再生ボタンを押すとさっき田子橋が芸術に価値がないことを宣言するセリフが、性能のいい録音機なのだろう、クリアに再生され始めた。田子橋の顔が一気に青ざめ、握った手は汗まみれになってその姿勢のまま貧血で倒れんばかりに冷や汗をかき始める。


「あの……あの、あの」どうにか声を絞り出す。「この発言は決して本気ではなくてですね」


 正一は停止ボタンを押して胸ポケットに録音機をしまった。


「いえ、何もあなたのいうことを否定するんじゃありません。あなたのいっていることは事実ですし、そういうものが実際に上がっている現実は覆せるもんじゃありません。ただ……」これから商談に入るのにお気を悪くされるのは嫌なのですがと前置く。「あなたの画廊のコンセプトと私個人の考える価値がどうにも合わないというだけです。それどころか美術に関わる人としてその発言は一般的に如何なものかと」


 ぐうの音もでない。田子橋はか細い声で謝ると「あの……どうかその録音を世間には」出さないで欲しいと訴える。自分が何をいったかでネットではどう扱われるかなど簡単に予想がつく。嫌だと言われればそれまでだが、しかし正一は笑顔で


「もちろん。これをどこかに言いふらしたりしませんよ。ただそうだな。今日買う予定の絵を大幅に値引いてくれませんか?」


 田子橋は目を見開いた。これは明確な脅しだ。でも対抗手段もない田子橋は唯々諾々と従うしかなかった。元値の九百万は半分の四百五十万になり、正一は金額を書いた小切手を二枚認めた。一枚は田子橋に、そしてもう一枚は項垂れていた三沢に。「私があなたの絵をお買い上げいたします」と小切手を渡し(三沢は泣いて喜んだ)、購入した絵は金の額縁ごと雅一が運ぶ。


 お買い上げありがとうございましたと最後の言葉を贈った田子橋はもう死にそうな顔をしていた。帰り道は正一、雅一、三沢とも帰る方向が一緒である。


「しかし、三沢さん。本当に良かったですよ。とても同情的になれました」


「本当にそうですよ。同情して俺まで自分のこと話しちゃいましたから」


 正一と雅一はそういう。三人は実は詐欺集団で……というわけではなく、雅一の語った境遇は三沢共々事実である。正一と雅一は大学時代の一年差の先輩後輩で雅一は正一の頼みで画廊に来ていた荷物持ちである。因みに正一は雅一が来てすぐに店に着いており、彼は正面玄関ではなく、前日に田子橋に指定されていた商談用の裏口から入っていた。誰も出ないので裏口を抜け、通常の店内入り口へ。すると丁度三沢が田子橋に縋りついた辺りだった。正一は録音機を常に持ち歩いている。失礼な記者やファンとのやり取りを録音するために。


 三沢は本当にありがとうございますと合わせた両手の間にしっかり小切手を挟んで拝み拝み、お礼をいった。


「私は本当は会社が大好きなんです。何せ親子三代、七十年近く続く会社ですから。あの時、あの膝をついた時私は会社が好きであると言おうと思ってました。でも何故か逆のことをいってしまったんです。不思議ですね」


「へえ、じゃあもし会社が好きっていってたら俺は何もいわなかったと思いますね。音楽が本当に嫌いなところがあるからいったんで」


 でも好きなとこもあるんすけどね。しみじみいう三沢の丸い頭頂部に三沢のもう一つの顔が笑っていたが、誰もそれには気が付かない。雅一はいうとよいしょと額縁を持ち直した。一方、正一はどこか懐かしげな顔をした。二人の前に出ると立ち止まる。


「そういえば、僕も昔そんなことがありました。僕は高校生の時に好きな女性に告白されましてね。とても嬉しくてオーケーしようとしたのに、断ってしまったんですよ」


「それで曲作ったらバズったんすもんね」


 雅一がそういった。正一はあの後、思いつく限りの虚しい高校生活を経て大学時代、その出来事を綴った曲を作製して投稿したところ、曲が何百万再生もされて、今や曲は有名楽曲の一つになり、正一自身は有名作曲家の一人になっていた。雅一が作曲家を目指そうと思ったのはこれの二匹目のどじょうを狙ったがためである。因みに正一の件の女の子とはそれっきりで、正一は別の女性と結婚している。


「そう。人生って理不尽で本当にわかんないね」


 正一はそう締めくくると前を向いて歩き出した——が。


「ああ、楽しかった。楽しかった。次はどんな人間を盗み見てやろうか。抗ってやろうか」


 不意にそんな声が聞こえて振り返った。するとこちらに背を抜けて走り去る黒い犬みたいな獣が見えて正一は目を擦る。


「どうかしたんすか?」


 雅一も正一の視線を追って後ろを振り向いたが、やはり何も見えないとすぐに正一を見た。一方、三沢は頭が軽くなった気がして、自分のツルツル頭を手で撫でた。後年、彼の会社はどうにか持ち直す。


「……見間違いだろう。なんでもない」


 正一はいうと前を向いて再び歩き出した。このことを一緒に歌にしましょうと雅一が提案したのはその後すぐのことで、二人名義の歌はそこそこ有名になったが、雅一の作曲が売れることは今後もなく、彼は正一のパートナー兼マネージャーになる。


 二人が作った曲のタイトルは正一が初めて作った曲のタイトルを捩っており、そのタイトルを「アマノジャックエコロジー」といった。



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