招かれざる客

「これは……、なかなか見事なものだな」


 岩穴の隧道を抜けたランサスとルートの目の間に広がったのは、竜ですら舞踏を踊れるのではないかという広大な空間と緑の森だった。岩山の中をくりぬいたかのようにきれいな半球状の空間は、頂点にぽっかりと穴が開いており、昼の陽光が挿し込んでいる。さらに、壁面には水晶と思しき結晶が無数に姿を見せており、穴から挿し込んだ陽光が乱反射して、岩山の半球空間を外のように明るいものとしていた。さらに、陽の光が十分であるためか、半球状の空間の一部が森のようになっており、瑞々しい空気が満ちている。森の向こう側の壁面から水が湧き出しているのも、閉塞感を覚えてもおかしくない世界を爽やかなものにしている一因だろう。

 ランサスたちが現れた岩穴の出口は、半球状の空間の中ほどだった。二人の眼下には、広大な空間と緑の森が広がっている。出口から先は壁面に沿って緩やかな坂道が続いており、明らかに人のための道が森の中へと繋がっていた。

 だが、ランサスはその坂道を降りる事無く、大きく息を吸い込んだ。


「御免!」


 ランサスとルートがここを訪れたのは、王国との新たな盟約を結ぶべく、竜を見つける為である。そして、ここが典礼書に示された竜の巣であるならば、わざわざ人の為の道を進んでも意味は無いとランサスは考えた。ここで竜に呼びかければ良いのである。


「御免!!」


 ランサスは高台から半球状の空間に向かって竜に呼びかけた。だがその声量は、少女のものとは思えないほど大きかった。喧騒に満ちた戦場であろうとも、末端の兵士にまで届くような大音声だ。

 何しろ、相手は建国史にも語られる伝説の竜である。人間の声など、普通に話していては、か細くて聞こえない。そう思ったランサスは、喉が潰れるのも構わないとばかりに大きな声を上げ続けた。


「竜殿! 居られるか! 御免!」


 しかし、ランサスの声に答えた者はいなかった。広大な空間には静謐が満ちており、森の中にいくらか動物の気配がするだけである。

 仕方なく、ランサスはルートを伴って坂道を降りて行った。森の向こう側には開けた空間が見える。ここが竜の巣であるのなら、竜の巨体が身体を横たえるのはそこであろうと思われたからである。


「……外れたかな?」

「たまたま外出中という事かもしれませんぞ。何しろ、我々は先触れも出しては居りませんからな」


 宮廷の作法として、報せも無く相手を訪問するという無作法はありえない。予め人をやったり、文を通じたりして相手と予定を合わせ、会談や茶会の場を設定するのが常識だ。何しろ、王族や貴族というものは公人としての立場がある。何をするにも一人という事は無く、市井の庶民のように、個人で気ままに動くなどという事は有り得ないのだ。

 庶民であれば、知人と酒を交わすのに、思い立ったその日に勝手に押しかけても許されるであろう。

 だが、王族や貴族は公私の別を問わず、あらゆる行動に本人以外の人間が関わってくる。他人を訪れるという事のみならず、食事や着替えですら一人という事は無いのだ。

 だが、さすがに相手は竜であって、王族でも貴族でもない。そんな相手に先触れを出すなど不可能である。宮廷作法など通じる相手ではない事は、世間知らずのじゃじゃ馬姫であっても分かるものだ。これは深刻になりがちなランサスを宥める為の、気の利いた臣下の軽口と言えた。

 森の中を、馬を進めながらルートが話しかける。


「本当に、ここが竜の巣なのですかな……」

「それは間違いあるまいよ。この広大な半球状の空間を見ただろう。壁から天井まで、図ったように綺麗な球状だ。これだけの大きさの空間を、人の手で正確に作るなど不可能であろうな。魔法を使ったにしても、人の手には余る」

「竜の手によるものだと?」

「手を使ったかどうかは分からないがな」


 臣下の軽口に冗談で返して、ランサスは馬を速めた。そして、森を抜ける。

 岩穴の出口から見えた広場と思しき場所は、窪地であった。何か巨大なものが失われた跡地のように見える。

 ランサスは火竜を何度か見た事があるのだが、探している竜が火竜と同じ程度の巨体であるのなら、身体を横たえるのにこの窪みはちょうど良さそうだ。


「ここが竜の寝床なら、待っていれば帰ってくるのかもしれないが……。御免!」


 答えなど返ってこない事は承知の上で、ランサスはもう一度声を張り上げた。


「だーれだ。さっきからデカい声で謝ってんのは?」

「うひゃっ!」


 誰もいないと思っていたところに、いきなり声をかけられたランサスは、思わず跳び上がってしまった。普段のランサスからは想像もできない少女らしい声を上げてしまい、反射的に口を押さえる。

 だが、ランサスが驚いたのは本当に一瞬であった。すぐさま少女は剣呑な表情に戻り、慣れた動作で腰の剣を抜き放つ。彼女が手にしているのは、女の身でも十分に扱える細剣だ。刀身はしなるように長い両刃、手を守る形で装飾的な甲がついている。柄は少し長めで、片手でも両手でも扱える形をしていた。

 細剣を慎重に構え、声の聞こえた方へと視線を投げる。


「誰だ!」

「人ん家に上がり込んで、誰だはねーだろ。あんたらこそ誰だ?」


 森の奥、壁に近いあたりからのっそりと現れたのは、三十代には満たないであろう青年であった。長髪はボサボサで無造作に束ねられている。着衣は薄汚れており、あまり清潔とは言えない風貌だ。

 しかし、羽織っている青い外套だけは、場違いに綺麗であった。それは、天井から差し込む陽の光に当たって、宝石を散りばめたかのような輝きを照り返している。もしもこのままの格好で王都を歩けば、治安を守る衛士に捕らわれてしまうだろう。分不相応な外套を纏うなど、盗んだに決まっていると言われて。

 竜の住むと言われる岩山に、いきなり現れた男。みすぼらしい風態に、不相応に価値の高そうな外套。一言で言って、胡散臭かった。

 だが、どんな怪しい格好をしていようと、ここに住んでいるというのなら、男の言う事の方が正しい。

 ランサスは男の姿に注視しながら、慎重な動作で細剣を鞘にしまった。男が不穏な態度を示した途端に斬り殺すぞという意志を込めて睨む。そして、自分の身分を名乗った。


「私はパテル王国の王女ランサス・ゼフィ・パテルという。この山に住む竜にお願いがあって罷り越した」

「へえ。男のなりをしているくせに妙に別嬪だと思ったら、王女殿下かい。大仰な挨拶、痛みいるぜ、お姫様」


 ランサスは、この男をますます怪しいと思った。

 この国に生きるものならば誰であれ、王家に対する畏敬の念を持っている。より正確には、国王夫妻にである。その理由は言うまでもなく、竜の加護にある。魔獣と外敵の脅威から、自らの力で国と民を守る国王と王妃。

 ランサスもいずれは王位と竜の加護を受け継ぐものとして、国民からは慕われていた。もちろん、国王の治世に反感を持っていたり、山賊などの類であったりすれば、その限りではない。だが、大抵の国民からは、王族としてごく自然に敬意を持たれているのだ。

 しかし、目の前の男からは、そういった王族に対する、この国の民衆が持つ一般的な敬意が感じられない。

 だが、政治的に反国王の思想を持つ者のようには見えないし、賊のようにもみえない。

 ただ、不遜なのである。

 そんな男が、竜の巣に住んでいるという。

 いくつもの意味で怪しかった。


「だけど残念ながら、ここに竜なんていねーよ」

「……どこへ?」

「さーてね。ここで竜を見たなんて話、相当前だろう? 俺がここに住み始めてから、竜なんて一度も見た事ねーしな」

「本当か?」

「うそ言ってどーすんだよ。長年ここに住んでるが、吠え声一つ聞いた事がねー」

「そうか……」


 いきなり問題が解決するなどと思っていた訳ではないが、勢い込んできたものの、はずれを引いてしまったらしいという事実は、少女の心に暗澹たるものをもたらした。


「竜になんか用だったのかい、姐さん?」

「私はあなたの姉ではない」

「……竜になんか用だったのかい、お前さん?」

「仮にも王族に、いきなりお前とか、不躾な男だな」

「喧嘩売ってんのか。ちゃんと敬称をつけてんだろうが。面倒くさい女だな。人ん家に来て、その傍若無人な物言い。どっちが無礼だよ」


 言われてみれば、確かに自分の方こそが不躾な態度だったようだ。

 どうも、ランサスは自分で思っていた以上に苛ついていたようである。竜を探すなど簡単な事ではないと分かっているつもりだったのだが、典礼書という手掛かりもある事だし、どこかで安易に考えていたのかもしれない。

 森をぐるりと見回し、大きく深呼吸して亡国の姫君は頭を下げた。


「不躾な態度を取ってすまない。王国の大事を抱えているのでな。いささか、心の余裕が無かったようだ」


 ランサスは改めて、ここが自分の家だと男が主張している事に意識を向けた。

 竜の巣に住む男。何者であろうか。


「ところで姫様、なんで君は一人なんだ? いや、従者がいるのは分かっているけど、そういう事じゃない。この国が滅んだ事は知ってるよ。君がこの国を再興しようとしている事も」

「なぜ知っている!」


 ランサスとルートが王都を脱出したのはほんの十日前の話だ。人の噂の脚は速いとは言え、こんな山の中で、国王夫妻の戦死、王都陥落、王女が行方不明などという情報が正確に伝わってくるとは考えにくい。


「なに、風の便りに聞いただけさ」

「風の便りだと? ふざけるな! ……いや待て、そうか、魔道士か、お前」


 風の便りなどというと韜晦に聞こえるが、要は風の魔法を使った情報の伝達手段を持っているのだろう。とはいえ、誰もが使えるものではなく、王都でも高位の宮廷魔道士級の力を持った者でなければ扱えない。

 方法自体は、情報を伝達できればいいわけなので、地水火風のどの属性の魔法でもやりようはある。その中で最も平易なのは、風の魔法を使った手段である。

 同じ長さの棒の片方を震わせると、近くにあるもう片方も震え出す事はよく知られている。共振と呼ばれる現象だが、これを利用して風の精霊に働きかけ、遥か遠くに離れた場所の声や音を聞くことが出来るのだ。

 こういうと簡単そうだが、遠隔地の精霊を使役したり、共振を起こすための魔道具を用意したりするのが難しい。特に、距離が遠ければ遠いほど難易度は増す。


「ご明察。と言っても、魔道士というより、研究者かな。俺はニューム・デルフィという。以後お見知り置きを、お姫様」


 右足を下げて腰を落とし、右の掌を胸に当てる。左手は握って腰の後ろに回し、右手を相手に向けて差し出す。

 害意はなく、心を相手に明け渡すという、上位者に対するパテル王国の宮廷作法である。

 ニューム・デルフィと名乗った男は、さっきまでのがさつな雰囲気から一転して、見事な宮廷での挨拶をしてのけた。

 腰の落とし具合、下げた右足の位置、胸に当てた掌を優雅に返す仕草。見様見真似ではない、一朝一夕で身につくものでもない、完璧な宮廷作法であった。


「……お前、何者だ?」

「言っただろ、研究者だよ。竜のね」

「なるほど……。それで、ここにいるというわけだな。……などと言うと思ったか。どうせ狩人崩れの類であろう。この竜の巣で、おこぼれみたいな屑素材を拾っていたのではないか?」

「おっと、人聞きが悪いな。確かに元狩人だけどね、竜の身体に捨てる部位無しだぜ。骨のかけらや脱皮した皮、卵の殻ですら魔力を帯びてるんだ。俺はそういう、竜狩りの連中が見逃しているものがないか、探すのが趣味なのさ。そこから何か新しい発見がないか、竜の生態はどんなものなのか、後はそうだな……、なぜ黒竜という突然変異が生まれたのか。そういう事を探し歩いている。竜の巣は、その拠点に相応しいだろう?」

「黒竜を調べるのが趣味、か。いささか変わってはいるが、変にもっともらしい理屈を並べるよりは信じられるな」

「そりゃ、どーも。話は戻るけど、なんで君は竜の巣に来るのに、従者一人だけなんだい?」

「……なぜ、六支国の助けを借りなかったのか、という事か?」

「そう。曲がりなりにも王女様なんだし、城を追われたお姫様なんだから、支国に助けを求めるのが普通じゃないか?」

「……」

「じゃじゃ馬だろうが、口より先に剣が出るって話だろうが、君という存在自体が国を取り戻す大義名分だ。支国が持ってる軍隊を動かすのに、十分な理由だろう?」

「まさに、それが理由だ」

「うん? 君がじゃじゃ馬だから?」

「違う! それじゃない! 私の伴侶となるなら、当然、将来的に竜の加護を得る事になる。だが、迂闊な奴にその座を与えるわけにはいかん!」

「なるほど、協力の見返りに王配の地位を安易に求められちゃ、困るのか」

「せめて、私より強い男でなければな」

「それじゃあ、俺が名乗りを上げようかな」

「ははつ! 今の話の意味が分かって言っているのか?!」

「今言った通りでしょ? 大丈夫だいじょうぶ。俺、強いからね」

「……とてもそうは見えんが、仮にお前が本当に強くても、そういう事じゃあない」

「得体の知れない男に、女王の夫の座は任せられない?」

「……分かってるじゃないか」

「それじゃあ、聞くけどさ。初代の国王と王妃って、何者?」

「……は? 竜と共に黒竜を滅ぼした、我が国の英雄だ。その後、パテル王国を興した」

「じゃあ、竜の加護を得た時、二人は何者だった?」

「それは……」


 そこまで言われて、ランサスはニュームの言いたい事を理解した。

 初代の国王も王妃も、黒竜を倒すまでは『得体の知れない』傭兵だったのだ。何者でも無かったのである。

 だが、二人が竜の加護を得たのは、まさにその何者でもない時なのだ。


「つまり……、竜の加護を得るのに、血筋や素性などは問われない、と言いたいのか?」

「その通り」

「それは、研究者としての考察か?」

「お、信じてくれるのかい?」

「全面的にではないが、一理ある。それでは試みに問うが……、何が必要なんだ?」

「さーてね。それは、君が竜を見つけるまでの間に考えておく事さ。言っておくけど、君は確かに竜の加護を得る資格はある。いや、あった。でもそれは、初代国王の子孫として受け継がれたものに過ぎない。そして、残念ながら、その仕組みは潰えた」

「……! いや、まだだ。王国に戻って戴冠式を行なえば、私は竜の加護を得られる!」

「その為にはエイフィッド王国の魔道士を倒し、隣国の連中を王都から追い出さないといけない。だがそれには、竜の加護が要る。矛盾だね。金庫の中へ、うっかりと金庫の鍵を仕舞ってしまうようなものだ。竜の加護を取り戻すために、竜の加護を手に入れる。君が今やっているのは、そういう事だろう?」

「……困難な事だというのは分かっている」

「いいや、分かっていないね。初代の国王夫婦が何者だったのか。それをもう一度じっくりと考えてみるといい。何しろ、君が行なうべきは、王位を継いで竜の加護をおこぼれのように貰う事ではなく、竜から加護を得る事なのだからね。君が、君自身が竜の加護を得るんだ」

「私が……?」


 これまでランサスの認識では、王位を継ぐ事と竜の加護を得る事は同義であった。だから、竜の加護を得る事が出来れば、王位と、そして王国を取り戻す事が出来るという思っていた。

 だが、それは間違いだったのだろうか。

 考えてみれば、神殿長がルートに伝言した「竜を探せ」というのは、代々受け継がれてきた竜の加護とは全く関係無く、ランサス自身が竜の加護を得よという事だったのかと思える。ルートも言っていたように、今は建国時と酷似した状況なのかもしれない。

 目の前の男は、本当に何者なのだろうか。

 研究者という自称は眉唾にしても、高度な魔法を操る魔道士であるのなら、王国や竜の加護に対する知識を持っているのも理解できる。理解できないのは、何故その様な男が在野にいて、しかも時宜良く竜の巣に居を構えているのかというところだ。


「姫様!」


 得体の知れない男に対して、さらに誰何の問いを投げかけようとしたランサスに、ルートは焦りを含んだ声で呼びかけた。

 だが、ランサスがそれに答えるよりも早く、森の中からさらに得体の知れない男たちが現れた。その数、およそ十人。この山に入る前に街道で見た男たちだ。


「お? おーほほほっ! 嘘みてーだ! こぉんな山の中にえらい男前な美人だぜ!」

「後をつけてきた甲斐があったなっ! ああん?!」

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