如月駅 Ep.5
「いったた」
擦りむいたかもしれない。バンドエイドは持っていたっけ。俺は差し出されたのが手だと思って、それを握る。硬い感触。俺の指は、その冷たい手触りを覚えていた。
「如月、使い方は分かるな」
「はい、一応」
「持っていろ、念のためだ」交番勤務の頃は、毎日持ち歩いていた人殺しの道具。すっかり忘れてしまった、命の重み。
空っぽのホルスターに銃を差し、立ち上がる。そこで列車の扉の位置と、ホームの三角印が重なっていることに気づいた。先輩が狙って停めたわけではないだろうし、こんな特殊な車両の扉が客車と同じ位置にあるとは思えない。ホームが列車に合わせているのだと、直感する。
「よし、行くぞ」行きたくなかったが、一人になるのが心細いので課長と黒川の後を追う。
踏切が列車に赤い光を投げる。それはイルミネーションみたいに洒落たものではなく、呪いの儀式を連想させた。遮断機は降りているが、しばらく開くことはないので、それを潜くぐって線路の反対側にある駅舎に向かう。影はまだ俺達に気付いていない。
駅舎とホームの境目に、パノプティコン刑務所の監視塔みたいな自動改札機が建っていた、青く光るカードリーダーが、新たな囚人を品定めするように俺達を睨めつける。
俺達は気付かれないように、そっと、彼の脇を通り抜けようとする。
『精算してください』しかし機械仕掛けの看守の目は、それを見逃すほど腐ってはいなかった。俺はテレビを叩いて直す世代ではないが、今回ばかりはこいつを殴りたくなる。
ピアノの演奏が止み、影が立ち上がる。最悪だ。課長がホルスターから銃を抜き、銃口を影へと向ける。カチッと音がして、安全装置が解除されたのが分かる。
振り返りった影が、悲鳴をあげる。それに恐怖して、俺も悲鳴をあげる。影の姿は女のようだった。黒い髪、黒いスーツ、黒いビジネススカート。不吉な闇を彼女は纏う。彼女の瞳に光はなく、表情にも生気がない。目の下にはフォッサマグナ断層みたいな隈くまが掘られている。
影は銃口に怯えたのか後ずさり、椅子に躓き、そのまま倒れる。鍵盤に打ち付けられた頭が、音を奏でる。恐怖が少し薄まった。
「あっ、この人……」落ち着いた頭で、彼女を観察する。その顔立ちに、見覚えがあった。記憶力はよい方ではないが、さっき見たものを忘れるほど悪くはない。彼女はまさしく、電車の中で忽然と消した女性その人だ。
「あの、すみません……」俺は、なるべく驚かせないように意識して、声を掛ける。
「はいっ?」彼女は上ずった声で返す。
「石田葉純さんですね」彼女は転んだままの姿勢で、盾を構えるように、鞄を胸元に抱える。彼女の瞳から涙と不信感が溢れる。
「なんで、それを……。私を殺しても、いいことないですよ……。お金もないですし、生命保険だって安い物にしか……」
「我々は怪異対策庁の者です。あなたを助けに来ました」彼女は強ばった頬が緩む。ちらちら動く丸い瞳が、戸惑いを伝える。
「はぁ」想定されていない出来事に遭遇して、感情が追いつかずに漏れたような声。
「歩けますか」課長が言う。拳銃はホルスターに戻っている。
「はい……」
「なら、車両のほうへお越しください。古いですけど、そちらの方が暖かいので」
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「どうぞ」黒川は、石田さんの小さな体に、毛布を巻く。
「ありがとうございます……」彼女は編み込まれたアクリル繊維の毛を、遠慮がちに撫でる。その指は小さく震えている。青白い表情を見る限り、震えは寒さのせいではなさそうだ。
「先ほどは申し訳ありませんでした」彼女が怯える理由は明白。銃を向けられて恐怖しない人間など、この世にいない。警察にも自衛隊にもいない。課長が頭を下げる。
彼女は何も言わず、少しだけ顎を引く。休日に親しくない大学の同期と会ってしまったときの、会釈みたいに、ほんの少しだけ。
「お腹すいたでしょう。缶詰もってきますね」黒川が出て行くと、不運な女性と男二人が取り残される。彼女の震えが収まってきていることを確認して、課長が尋ねる。
「どのくらい、ここに?」
「五時間くらいです。多分」彼女の言葉に息を呑む。監視カメラの撮影日は10月28日、今日は11月16日。彼女が行方不明になってから、二週間以上は経っているはずだ。
「他の人に出会いませんでしたか?」
「はい。ずっと一人です」
そして課長は、どうやってここに来たか、ここに来てから何をしていたか、危害を加えられることはなかったか聞く。
まだ怯えてはいるが、はっきり答える彼女を見て、他にも生存者がいるかもしれないと期待を抱く。同時に、『彼らを見捨てて恐怖から解放されたい』なんて罰当たりなことも考える。俺にとって、怪異は刃物を振りかざして抵抗する犯罪者より、恐ろしいものだった。
そんな邪よこしまな考えを悟られないように、俺は質問する。
「どうしてピアノを?」彼女は曖昧に笑うと、少しだけ視線を下げる。
「あまりに暇だったので……。下手くそでしたよね」
こんなとき、『そんなかとないですよ。お上手でしたよ』と言えれば、警視庁でも上手くやって行けたのだろうが、俺の口は勝手に動き、『ピアノが悪かったんですよ』と言う。
「それで踏切の音を聞き逃すなんて、本当、馬鹿ですよね」彼女は肩を落として、自嘲気味に嗤う姿。その乾いた声が、車内から水気を奪う。なんだか、気まずい。
『ガラガラガラ』と、戸が開いて、冷たい空気が流れ込む。エアコンの駆動が激しくなる。
入ってきたのは、三箱の巨大な段ボール、そして、それを抱える黒川だ。彼女は行儀が悪いことに、足で扉を閉める。
「すいません。缶詰、全部塩漬けのニシンシュールストレミングでした。しかも、賞味期限が過ぎてます。どうします?」ドンッ、と重たい音を立て、箱が床に落ちる。その衝撃で、ガムテープが剥がれ蓋ふたが開く。横向きに詰められたパッケージを泳ぐ魚の虚ろな目が、俺を見つめる。
「どうとは?」
「試してみます?」
「おい、やめろ!」課長の静止を聞かず、黒川は缶詰を開けた。鼻孔を刺し殺す悪臭が、車内に充満した。
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