如月駅 Ep.2

ところで、アルコールには利尿作用があるらしい。ホルモンや金属イオンが原因のようだが、その抑制方法については、どの記事を見ても言及がない。次のページに行こうと矢印をタップする。『ページが見つかりません』のダイアログ表示。もしや、と思って画面の右上に目を向ける。かろうじて立っていたアンテナの、最後の一本が折れていた。充電も心許なくなってきたので、スマホの電源を切る。


『トイレに行っている間に電車が来たら最悪だ』と今まで我慢してきたが、もう限界だ。組んだ足をほどいて、走り出す。ずっと座りっぱなしだったせいで尻が痛い。ついでに脹脛ふくらはぎも痺れてる。構内の踏切を渡り切って、反対側のホームに差し掛かる。ガラスが割れ、蔦が茂った駅舎の横。ホームと草地を隔てる柵の裏側に、小さな木造の小屋を見つけた。おそらく、あれが厠トイレだろう。ゲートのない自動改札機が、盗掘者から遺跡を護る番人のように出口への通路を塞ぐ。私は番人に通行手形ICカードをかざす。  


『もう一度触れてください』駅舎に響く、ピンポン、の警告音が響く。チャージ額は十分なはず。命令された通り、もう一度、カードを見せる。


『駅係員にお知らせください』受付窓はシャッターが降りており、人の気配はない。一体、どうしろというのだ。正確な料金が分からないが、事態は切迫している。申し訳ないと思いながら、料金箱に千円札を入れた。監視カメラに手を振り、無銭乗車ではないことをアピールして外に出る。そしてトイレに駆け込んだ。 


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ノルマを達成し焦燥感が消えると、不安が津波のように押し寄せてきた。防波堤が決壊し、油みたいに粘ついた動揺が心を侵食していく。私がしたことは犯罪ではないのだろうか。明日の今頃、私は自宅ではなく留置場にいるのではないか。メディアに顔が曝されて、卒業文集がメルカリに売られるのではないだろうか。不正乗車くらいで、そんなことになるわけない、と頭では分かっているのに悪い妄想が止まらない。落ち着くために顔を洗おう、と蛇口を開く。水が黄色く濁っていたので、すぐに逆向きに捻る。切れの悪い水滴が、洗面台に落ちる。


罅ひびだらけの鏡に、わたしの姿は映らない。だが、酷い顔をしていることは分かる。心配することなんて、何もない。料金は後で調べて、しっかり払えばいい。自身にそう言い聞かせて、臭気が充満する建物を出た。


真っ黒な世界に電話ボックスの白い光が浮かぶ。そのボンヤリとした煌きらめきは、笹船のように弱々しく、今にも闇に沈みそうだ。それを除いて、光源はない。駅前だというのに、コンビニどころか民家すら見つからない。乾いた花壇に植えられた『ようこそ如月へ』の看板だけが、かつて人が住んでいたことを示す。錆だらけの看板の隣には、三台分の駐車スペース。いずれも空席で、アスファルトの隙間から草が生えている。


それを見て、私はいい案を思いついた。電車が来ないなら車で帰ればよいのだ。私は現代のマリーアントワネットになった気分で、電話ボックスの扉を開ける。電話帳を引くつもりだったが、クラブや風俗の張り紙の中から、タクシー会社の電話番号を見つけた。100円玉を投入し、電話番号を打ち込む。ツーコールで繋がった。


「お電話ありがとうございます。遠鉄タクシーです」夜遅くまで働かされている電話相手を、不憫に思う。そして自分も似たようなものだと気付く。資本主義の奴隷、会社の畜産物。


「すみません。タクシーを一台お願いしたいんですが……」


「かしこまりました。出発地点と目的地をお教えください」料金はどのくらい掛かるだろう。それによって、給料日までの夕飯が変わってくる。


「出発は如月駅で、浜北までお願いします。できれば、運賃も教えてください」私は『分かりました』の一言を待った。しかし返事はいつまで経っても帰ってこず、空気が擦れ合うような、プツプツしたノイズだけが、耳に届く。


「もしもし、聞こえてますか?」沈黙は不安定な電波のせいだと思ったが、違うようだ。


「お迎えにはあがれません」彼のピシャリとした言い方は、さっきの無愛想な電車そのもの。よほど、私を乗せたくないらしい。


「えっと、どうして……」


「お迎えにはあがれませぇん」悲しく響く、ツー、ツー、ツーの電子音。拒まれる理由が全くもって分からない。走行距離は十分に違いないし、タクシーみたいな高級品、めったに使わないので要注意顧客リストブラックリストにも載ってないはずだ。的屋みたいに、タクシー会社にも『島』みたいなものがあるのだろうか。ずっと遠州鉄道に乗っていたので、県は跨いでいないはずだが。


無人の広場に、秋風が吹く。老木の枝から、乾いた葉が剥れて落ちる。冷たい風はわたしの髪を揺らし、腹を撫でていく。震える顎が静かな夜に、ガタガタ音を響かせる。朝のニュースが『今日は寒波が来る』と言っていたのを思い出す。確か、駅の待合室に石油ストーブがあったはず。性能は期待できないが、ないよりマシだろう。私は再び、古びた駅舎に入る。占いに行けば、交通難の相が出る自信があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る