如月駅 Ep.1
声が囁く。
鼓膜をすり抜け脳を溶かす甘い声。熱した鉄板に押し付けられたチョコレートのように蕩ける声。媚薬入のローションみたいな、ねっとり糸を引く艶めかしい声。それは心の隙間に染み入り、深い亀裂を埋めていく。
『君は偉い子だよ。不器用だけど、真面目な頑張り屋さん。今日も遅くまで働いてる』今日、犯した失敗が、顧客のクレームが、上司の叱責が頭をよぎる。
『でも、そんなに気負わなくて大丈夫。たまには休んでもいいんだ』今月、ノルマ未達なのは私だけ。一ヶ月前に入ってきた新人の子すら、達成している。要領の悪い私に、休む暇はない。
『よしよし、いい子だね。心配することなんてなにもない。君は生きているだけで価値があるんだから』髪の毛が擦れる音が、ぞわぞわする。溢れる不安に、白い靄がかかる。私はスマホの中の彼に、コメントと投げ銭を送る。給料日前に後悔するのは分かっているが、彼とのささやかな繋がりは今の私に必要なのだ。
カンコロ、カン
鋭い金属音が、私を現実に引き戻す。ASMR甘い言葉を聞くために新調したイヤホンを外す。肘掛けに置いたはずのストロング缶が消えており、小水のように広がる黄色いアルコールが靴を濡らす。レモンの香気が鼻を刺す。発作を起こした空き缶は、喚き散らししながら無人の列車を転がり、扉にぶつかって止まる。仕方がない。動画を停止し、スマホをハンカチとティッシュで一杯になったポケットに押し込む。酒で重たい体を起こして、よろよろ歩く。
吊り革が規則的に揺れる。不安定な蛍光灯が明滅を繰り返す。扉横の広告欄で、頭の後ろで手を組んだ女性が滑らかな脇を見せつける。『永久脱毛10万円!!』、男と無縁な私には関係ない。空き缶を拾い上げて、手近な席に座り直す。
トンネルに入ったようで、走行音が『ごうごう』と濁ったものに変わる。車窓から一切の灯りが消えた。そこで、ようやく気づく。職場から最寄り駅まで、トンネルなど無いことに。
癒しに没頭し過ぎていたのか、いつもより度数が高い酒を選んだせいなのか。心の中の、失敗したことリストが更新される。今、私はどこにいるのだろう。電光掲示板は駅名を表示せず、代わりに回数券の案内や自社アプリの紹介に夢中になっている。ならば文明の利器に頼ろうとスマホを開くが、トンネルの中なので圏外だ。ならば動画の続きでも聴こうとアプリを開く。電波が通じないのでこちらも動かない。
メトロノームのように振れる吊革を眺める。エアコンの生暖かい風に靡く、広告の活字を読む。窓の映す黒を見つめる。電車が空気を切る音に耳を立てる。そして人差し指にイヤホンコードを巻き付ける。音楽も映画もオンライン試聴しかしないので、私のスマホは空っぽだ。暇を潰せる機能は何一つない。
しばらく、ぼーっと座っていると鉄輪の足音が、枕木を踏むテンポのいい拍子に変わる。
トンネルを抜けたはずなのに、相変わらず外は真っ暗だ。スマホも圏外のままで、ロードマークがいつまでも、ぐるぐると回っている。もしかして、とんでもないところまで来てしまったのかもしれない。今日中に、家に帰れるのだろうか。酔いは完全に醒めた。
暴力的な慣性が、私の身体を引っ張る。ブレーキ音は屠殺される豚の断末魔みたいで『下手くそな運転だな』と思う。
「次は、き……らぎ。きさ……ぎ。お降りの……はご注意ください。ご注意ください……」アナウンスがくぐもっているのは設備のせいか滑舌のせいか。モーターの唸りが段々と小さくなり、やがて完全に消える。踏切の警告音がいやに響く。
列車の扉が、時間外残業に辟易とするOLみたいに大きな溜め息を吐いて、開く。段差を踏み越え、白線の内側に入る。すかさず『プシューッ』と犯罪者を斬首するギロチンの勢いで扉が閉まる。別れた際に、鍵をかけられた気分になる。
警笛も鳴らさず、短い車体が動き出す。故障のせいか、行先表示板の電球はまばらに点いており、文字の体を成していない。単眼のヘッドライトが闇に溶けていく。
踏切の赤が消えると、ホームは真っ暗になる。一応、細い街頭がコンクリートに刺さっているが、背が高すぎるせいで、光は地面まで届かない。
ギィ、ギィと歯軋りの音が聞こえる。掠れた『如月駅』の駅名標が風に揺れていた。次の駅は『八三駅』、前の駅は『片隅駅』。どちらにも聞き覚えはない。今にも千切れそうな看板の足元に、色あせた時刻表を見つける。でかでかとした『不定期』の3文字が、時の境界を無視して鎮座する。『お前、の存在価値ねぇじゃん』と心のなかでつっこんだところで、スマホが震えた。
『ページの準備ができました』
なんのことだろう、と考えて現在地から自宅までの経路を検索したのを思い出す。画面を引っ張って、更新する。
「なに、これ……」冷たい息と一緒に、動揺を吐き出す。
『経路は存在しません』
意味が分からなかった。『経路が見つかりません』なら、グーグル先生の情報収集力の問題だろう。だが、存在しないとはどういうことか。入って来れたのだから、出口もあるだろうに。再試行のボタンを押すが、表示は変わらない。役に立たない経路案内を下に退かして、現在地を表示させる。私をあらわす青いピンは、駅の赤い四角と重なっている。その周辺には黒色の線路、森の緑。それだけ。コンビニどころか民家の一件すらない。縮尺を小さくしても、地図の色に変化はない。
ダイヤ改定が反映されず時刻表が昔のまま、というのはよくある話だ。気長に待っていれば列車も来るはずだ。気をとり直し、私は湿ったベンチに腰を落とした。
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