千手の湖 Ep.12

他県から来た応援は既に引き上げ、ホテルに残るのは俺達だけになっていた。昨日まで人で溢れていたロビーは、湖の底に沈んだように静寂で満ちている。    


「お世話になりました」課長が言う。


『お世話になりました』遠足に来た児童のように、課員の声が揃う。


「こちらこそ、今までありがとうございました」支配人は洗練された所作で、頭を下げた。流れるような動きは、彼がこのホテルで過ごしてきた時間を表しているようで、胸が苦しくなる。


「こんな形での退治になってしまい、申し訳ありません」このホテルは今日、廃業を迎える。理由は明白。湖が荒野に変わってしまったからだ。強迫症患者が描いた絵画のごとく完璧だった絶景は、土色の絵の具で上塗りされている。


「今まで受け継いできたホテルを閉めるのは惜しいですが、仕方がないことです。私も年ですし、元々業績もよくありませんでした」自身を納得させるため、後からつけた理由なのだろう。老紳士の言葉には哀愁が染み込んでいる。彼は手招きして付いて来ること促すと、無人の土産物売り場に入った。


「残しておいても腐らせるだけです。好きな物を持って行ってください」


「ありがとうございます」早速、馬場先輩が地酒を手に取る。黒川は信玄餅に腕を伸ばす。俺はロールケーキ、クッキー、そしてレーズンサンドを確保した。 


「女子高生かよ」先輩が笑う。


「いいじゃないですか」ビニール袋を二枚もらって、菓子と雑貨を詰め込む。それは必要以上のどんぐりを溜め込んだリスの頬みたく、パンパンに膨らむ。流石に欲張り過ぎたかと思ったが、いくつもの段ボールを抱える先輩と黒川を見て、考えるのが馬鹿らしくなった。


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二人がせっせと段ボールを車に積み込む中、課長は点滅する非常灯の下で煙草を燻らせていた。白い煙が、空と混じり合う。


「どうぞ」俺はずっしり重いビニール袋を差し出す。課長の表情が怪訝なものに変わる。


「なんだ、これは」


「戦利品です」携帯灰皿に紙の燃えかすが落ちる。課長は寿命を残した葉巻を灰皿に突っ込み、空いた手で袋を受け取った。


「菓子ばかりだな」


「漬物の方がよかったですか」


「いや、これでいい」刑事時代の経験が生きているのだろうか。変なところで強がる上司の癖は、なんとなく把握できていた。


「お前は、何を貰ったんだ」


「これです。かっこいいと思いません?」俺は袋から赤いガラスが填め込まれた、剣のキーホルダーを取り出す。剣身に纏わり付く蛇は、鱗まで表現されている。


「俺の趣向は女子高校生かもしれないが、お前のは中学生だ。食い物はいいのか」


「甘味は苦手なんです」


「そうか」鳥の声を聞きながらぼんやりと、灰皿から流れる煙を見つめる。その面様が物欲しげに見えたのか、課長は胸ポケットから長細い箱を取り出した。


「吸うか」


「ありがとうございます」固辞するのも失礼だろう。唇で軽く煙草を挟む。課長のジッポーが、カキーンと音を立て開く。ミミズのような火花が散って、火が巻紙に燃え移る。細い煙が渦を巻く。俺は硬いシェイクを飲むように、思いっきり空気を吸い込んだ。


その刹那、呼吸困難に陥った。メンソールが喉を滅多刺しにする。ニコチンが肺を焼き尽くす。全ての呼吸器が侵入者を押し戻すため総動員される。彼らの試みは成功し、絡み取られた有害物質が痰や鼻水となって外へと排出される。糸を引く唾液が、地面と繋がった。


「ハイライトを一気に吸うやつがあるか」


「初めてなので勝手が分からなくて」口と鼻から煙が漏れる。煙突の噴煙というよりは、爆発した化学プラントのような煙だ。


「無理して付き合う必要はないんだぞ」


「格好をつけたかったので」課長は鼻で笑った。自分だって同じ穴の狢なのに。口内の苦みはすんなり引き、砂糖の甘さだけが後に残る。


「そういや、怪異の退治は代執行法に基づいて行われるのですよね」


「そうだ。急にどうした」


「なぜ山梨県に請求が行ったのですか?」


「個人、法人、地方自治体に関わらず、代執行の費用は所有者が支払う。今回の場合、湖を管理しているのは国ではなく山梨県だ」課長は昔の記憶を参照するように、しばし間を開ける。そして『だからな』と付け足す。


「お前もいらん山やら竹林やらを持っているなら、手放しておけ。税金と同じで強制徴用が認められている。破産しても逃れることはできん」課長の口ぶりは、まるで経験があるかのようだった。


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配属初日以来、一ヶ月ぶりの登庁。事務机の天板に、埃が薄く被さる。あと10分で始業時間だというのに、馬場さんも黒川も来ていない。


「おはようございます」


「おはよう」課長は相変わらずぶっきらぼうだが、交える言葉は着実に増えている。なかなか懐こうとしない猫と会話をしているようで、少し楽しい気分になる。


「知事、負けたんだってな」課長は新聞紙を二つに折った。ネズミを狙うように鋭い、しかしその実、特に感情は籠もっていない視線がこちらに向く。


「都知事選って去年あったばかりですよね」


「東京のじゃない。山梨だ」


「ああ」見たばかりの顔を思い出そうと、まぶたを閉じる。しかし記憶を呼び起こそうとすればするほど、輪郭はぼやけ、終いには溶け出して消えた。よくこれで警察官をやっていたなと思う。


「膨らんだ怪異対策費と、それを捻出するための増税が敗因のようだ。これで、執行に二の足を踏む自治体も増えるだろう」


「みんな、人の命より金の方が大事なんですかね」


「そう言ってやるな。医療設備や、生活支援。金さえあれば救えたはずの命なんていくらでもある。結局のところ、費用対効果の問題だ」新聞の端、分譲から溢れた変形地のようなスペースに『救急車、30分経っても到着せず。女児死亡』と見出しが建っている。小さい記事の隣で、ページ一面を使った広告が動物を殺処分から救うため、寄付を募る。三毛猫の死を悟ったような瞳にゾッとする。


「湖の跡はどうなるんでしょうか」俺は無意味な罪悪感に耐えられなくなり、話題を変えた。ページが捲れる。咎める視線が、グラビア嬢の影に隠れる。


「メガソーラーが建つようだが、相当買い叩かれているらしい。それも県民から反感を買っている」怪異が埋まる不吉な土地に家を並べるわけにはいないので、妥当な判断だと思う。


「ユネスコで熱弁振るって、精進湖の登録抹消を防いだことをもう少し評価してやってもいい気もするがな」湿った話題は終わりだ、とばかりに課長は手を打ち鳴らす。


「特別休暇は何をしていた」


「俺は実家に帰ってました。警察にいた頃は纏まった休みが取れなかったんで、三年振りですね」


「そうか。俺は……」巨像のごとき足音が建物を揺らす。扉が勢いよく開いた。

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