千手の泉 Ep.11
人を殴ることは犯罪だろうか。誰もが犯罪だと言うだろう。人を貶すことは犯罪だろうか。立件されることは稀だが、これも犯罪に違いない。なら、クラクションの爆音で頭を殴り、罵詈雑言をまくし立てる目の前の老人は犯罪者なのだろうか。
「聞いてるのか!」男の唾液が袖に飛ぶ。粘ついた液体を、ばれないようにズボンで拭う。
「はい。ですが通行止めなものは、通行止めなんです」小学生でも理解できるレベルの日本語だが、萎縮した脳には言語を処理できるほどのメモリ容量はないらしい。
「オウムかお前は。何度も聞いたわ!」なら、何度も同じことを言わせるなと言いたい。
「すみません。ですが、三時間もすれば規制も解除され……」
「ふざけんな。この先に家があるんだよ!」
「すみません」
「謝るくらいなら、通せ。この税金泥棒!」ちらり、と腕時計に目を遣る。『二時間経った』と言われても違和感はないが、長針は半回転しかしていない。交番勤務のときは、こんなクレーマーいなかったのに。ついこの間まで持っていた、警察バッチと逮捕権が愛おしい。俺の思いが通じたのか、タイミングよくパトカーが通りかかる。国家権力は左右両方の車線を塞ぐように、センターラインの上を走る。なぜ、そんな迷惑な走り方をしているのか。解答する前に、答えが現われた。
『建物が動いている』と言われても違和感がないくらい、その車は巨大だった。背丈は民家の屋根より高く、車体を支えるタイヤは全ての立体物を平面にできそうだ。浪漫と欲望が産み落としたような怪物は国家の暴力装置を踏みつぶさんと、パトカーを追いかける。
「なんだありゃ」
「早くどいてください」軽トラックは怯える兎のように細くエンジンを鳴らし、すれ違い用の待避所に入った。いっそのこと、潰されてくれればよかったのに。
先導するパトカーが通り過ぎる。いつもは誇らしげな赤色灯も、今日は投げやりに回る。後ろを走る巨大ダンプは、パソコンで図形を拡大するようにみるみる大きくなってゆく。長い年月をかけ車道に侵出した木の枝が、乾いた音を鳴らしてへし折れる。機械の鼓動が地面を伝って、俺の体を揺さぶる。六つ目のヘッドライトに睨まれ、身が竦む。
「とうとう来たか」本部と連絡を取っていたはずの課長は、いつの間にか隣に立っていた。彼は猛獣担当の飼育員のごとく慈愛に満ちた目で、怪物を眺める。できることなら、同じ目を人間にも向けて欲しい。
「何なのですか、あれは」
「980F-4。世界最大級の鉱山用ダンプカーだ」タイヤの黒が眼前を横切る。あれに踏まれれば、一瞬であの世行きだろう。中途半端に意識が残るより、よほど慈悲深い。
「これが、とっておきですか?」
「そうだ」
乾いた土は荷台の上に、地図に記されてもおかしくない規模の丘陵を作る。太いタイヤがアスファルトを柔らかな雪原を勘違いしたように、足跡を地面に残す。電光掲示板を携えた誘導車は窪みに足を取られ、ガクガク振動しながらついて行く。
「これが、遅れに遅れた理由の一つだ」課長は白線を跨ぐと、陥没したアスファルトを蹴った。楕円型の凹みは、視界の果てまで続いている。
「よく、許可が下りましたね」道路の値段は知らないが、きっと修繕に馬鹿げた費用がかかることだろう。
「知事と局長が調整してくれた。こいつのために、電線も切って貰ったようだ」ダンプはパトカーを置いて、この間まで湖だった埋め立て地に入る。ローラーで均したはずの土が潰れる。何本もの『腕』が侵入者を追い返そうと伸びる。しかし災害に等しい怪物を前に、為す術なく踏み潰されてゆく。
ダンプの荷台が傾く。砂丘の輪郭が歪み、勇んだ岩が転がり落ちる。十分な運動エネルギーを得た石つぶては腕を食いちぎり、湖へ飛び込んだ。重機関銃を浴びせたように、小さな水しぶきが現われては消える。荷台が上がりきったそのとき、とうとう丘陵が崩れた。揺らめく腕は、人工の土石流に流され溺れる。湖が完全に陸地となる。善戦を続けていた『腕』の最後は、実にあっけないものだった。
ベルトにぶら下がる無線機が鳴る。そのおどけた声音には、聞き覚えがあった。
『こちら対策庁二課、馬場。対象の沈黙を確認。対象の沈黙を確認』
俺は思わず拍手した。捜査本部が解散するときの慣習だ。森の静寂に乾いた音がいやに響く。なんだか虚しくなってきて、手を叩くのを止める。不運なことに、そのタイミングで課長は手を打ち始める。俺も止まっていた手を再起動させる。拍子こそ合わなかったが、なんだかんだでいい上司だと思った。
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「こちらが、怪異掃討に掛かった費用です」課長は几帳面に折られた一枚の紙を、老人に手渡す。
「桁が二桁ほど、間違っていませんか」知事は胸ポケットから老眼鏡を取り出す。そして紙を近づけたり、離したりして、少しでもゼロの数を減らそうと格闘する。
「残念ながら、これで合っています」請求書には港湾使用料、雇用した民間職員の人件費、車のレンタル代、燃料代、弾薬代、土砂代が並ぶ。費用の総計がチラリと見えた。ビルが建ちそうな値段だ。
「もちろん、見積もりは複数社から貰いましたよね」
「速度を最優先としました」知事は机に突っ伏した。そして皺だらけの指で頭を掻く。白い髪が抜け落ちる。課長は呻く知事から目を離し、体ごと県警本部長に向き直る。
「ご協力、ありがとうございました」
「交通整理を少し手伝わせただけだ」
「人手不足の怪異対策庁にとって、労働力は金より貴重です」本部長は緑茶が注がれたティーカップに口をつける。ビー玉ほどの喉仏が上下に動く。食器が擦れる高い音が響く。
「君達には、感謝している」
「ありがとうございます」事件が解決したことへの安堵、身内の仇を自身で討つことができなかった無念、自身の無力さからくる自己嫌悪。本部長の顔は、様々な感情でごっちゃになっている。この一言を捻り出すのに、どれほどの葛藤があったのか。一警官でしかなかったこの身には、推察できない。
「では、我々は失礼します」課長はドアノブを回した。表で待っていた秘書が茫然自失となった主を見つけ、金切り声で喚きわ立てた。
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