千手の湖 Ep.8
ホテルの前には、人集りができていた。女性が一人、男達に囲まれ立っている。絶世というより、人に不快感を与えないことに特化した無機質な美人だ。彼女は身動きどころか、瞬き一つしない。ありふれた水色の上着とやけに短いミニスカートだけ見れば、陳列されたマネキンと区別がつかなかっただろう。だが、袖に巻かれた『報道』の腕章と、握しめられたマイクが彼女の意思の強さを囁いている。
「ほら、被れ」俺の胸に、丸い物体が投げつけられる。反射的にそれを受け取る。投手は馬場先輩で、球はヘルメットだった。
「危険なことでも、始まるんですか?」
「雰囲気だ」
「はい?」とりあえず、頭に装着する。プラ製の兜は思ったより軽く、頼りになりそうでない。
カメラが数台、獲物を見つけたハイエナのように向かってくる。黒いレンズが獲物を見据え、フラッシュの光が牙を剝く。
「では、長官。お願いします」課長はメガホンを組織のトップに押しつける。
「君がやりたまえ」局長はそれを押し返す。
「こういうの、苦手なのですが」
「なら、いい機会じゃないか」課長の眉に皺ができる。そして、諦めたように拡声器を口につける。
「山梨県精進湖に対し、行政代執行法第二条、及び第七条により行政代執行を開始します」ダンプカーの荷台がせり上がり、土が湖に転げ落ちる。カメラのフラッシュがより暴力的な物に変わる。ついでに僕も、課長の有志をスマホのカメラに抑えておく。
「長日新聞の近藤です。世界遺産を破壊することについて、どう思われますか」
「観光業で生計を立てておられる方々に一言、お願いします」闘争本能を剥き出しにした記者達が、課長にマイクを向ける。
「長官!」課長は救いを求めるように叫ぶ。怪異より、人間の方が対処に困るらしい。
「正式な手続きは踏まれている。何が問題なのか、説明してくれるかね」長官の口調は、出来の悪い生徒を持った教師に似ていた。
「観光に対する経済的損失について……」
「それは人命より優先すべきことか?」記者はモゴモゴと口を動かすだけで、そこから言葉は生まれない。
「ここは、質疑応答の場ではない。我々の職務を邪魔するというのであれば、退場していただくことになる」局長は記者の一人一人に目を合わせる。睨み返す者と目を伏せる者がいたが、口答えする者はいなかった。
「ご協力感謝する」それだけ言い残すと、局長はホテルに戻る。彼女の背は、勝ち誇っているかのように黒かった。
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夜雨の森は、熱を出した日の悪夢のように闇と同化している。ヘッドライトは夢を引き裂き、眠れる木々を叩き起こす。お返しとばかりに、睡眠不足で苛立つ柳の群れが枝葉を振り、蓄えた水滴をフロントガラスに叩きつける。怒ったワイパーが雨粒を拭い去る。不毛な闘いが延々と続く。
「大型免許は持ってるか?」課長はハンドルを僅かに傾ける。バックミラーで彼の表情を伺おうとするが、暗くて何も見えない。
「普通免許もないです」
「取っておいた方がいい。これから、不便になる」
「取ろうとしたけど、落ちたんです。実技で四回」溜息が聞こえた。それが諦めなのか、驚愕なのかは分からない。
「気が変わった。お前が運転する車には乗りたくない」
「俺もそう思います」森を抜けると雨がいっそう激しくなる。画質の悪い雨滴のスクリーンに、光の筋が映る。光源は月でも、民家の窓から溢れる灯りでもない。もっと人工的で、暴力的な光だ。路肩に円筒の群れを見つけて、それが探照灯の光なのだと分かった。投げられる光線は雨を貫通し、湖に落ちる。
前方にテールランプが出現し、ダンプカーは停止する。湖はすぐそこだが、土砂の投入地点は対岸で少し距離がある。対向車線を空のダンプが通過する。渋滞が5m、短くなった。
「なにか聞きますか」反応はない。だが話すべきことも、間を持たせるための会話の種も尽きている。俺はラジオの摘まみに手を掛けた。天気予報、スポーツ実況、映画紹介、昭和民謡を経て、天気予報に戻ってくる。もう一つ、ダイアルを進め、周波数をサッカー中継に合わせる。映像がないので、どういう状況かさっぱり分からない。
「お前、サッカー好きなのか」
「いえ、特に」
「そうか」試合を行っているのは、聞いたこともないチームだった。おそらく、J2かJ3リーグだ。実況は酷くつまらなかったが、静寂よりはましだった。パスを繋ぎそこねたり、シュートを外したり、足が折れた演技をしながら試合は進み、0対0のまま終了のブザーが鳴った。これから延長戦というところで、課長はラジオの電源を切る。
「そろそろだ」言葉に呼応するように、ぼんやりした誘導灯の光が車間に割り込んだ。前を走るダンプは雨幕の向こうへ消える。行く手を遮る誘導員の隣には三角コーンが並び、それらは黒と黄のプラスチック棒で接続されている。その風体は、人間界ともう一つの世界を分離する結界のようだ。雨音はいっそう強くなり、誘導灯の光が明滅を繰り返す。そして、儚い灯りは完全に消えた。
「行くぞ」重い車体はゆっくりと加速を始める。結界を跨いだ瞬間、空気が冴えた。粘性を帯びた重い空気が肺胞を塞ぐぎ、電流のように張り詰めた緊張が肌を痺れさせる。これらの変化は、気分の問題だけではないような気がする。
巻き上げられた土と水が、サイドガラスを汚す。茶色い水滴の軌跡が、ひっかき跡のように見える。景色は目まぐるしく移ろい、右と左が入れ替わる。半回転したダンプは、車尻を湖に向けたまま後退する。雨音のせいで、バックの警告音は聞こえない。ミラーにはライトに照らされた陸地と、黒い水面が浮かぶ。
『コツ、コツ、コツ……』雨が作る無秩序な狂想曲の中に規則的な音が三回、響く。気のせいだろうと無視していると、もう三回音がした。どこかで聞いたことがある音だと記憶を巡らせ、それがノック音だと気付く。
「どうしました?」俺はロックを解除して、扉を開けた。
「馬鹿、やめろ!」外に身を乗り出した瞬間、体が引っ張られる。俺の手を、足を、首を、頭をナニカが掴んだのだ。皮膚に爪が食い込み、気道に熱が走り、体温が強奪される。振りほどこうと抵抗するが、『手』はピクリとも動かない。血管を駆ける血球が詰まり、脳が酸素不足を訴える。救いを求め、課長を見た。彼は俺に拳銃を向けていた。そして、何の躊躇もなく引き金を引く。合計五回。弾丸の熱が通り過ぎる。
「きゃぁぁぁ!」久しぶりに出た声は、悲鳴だった。纏わり付いていた手腕は消え、支えをなくした体が地面に墜落する。
「怪我はないな」
「死ぬかと思いました」体を起こし、タイヤに背を預けて座る。課長は俺の襟を掴み、助手席に引っ張り上げる。俺は自分の席に戻ってくると、用心深いOLのように鍵を掛けた。
「扉を開けるなと言っただろう」
「すみません」
「こっちの心臓にも悪い。上司の話はちゃんと聞け」課長が言い渡した、たった一つの忠告。それすら守れなかったことに、自己嫌悪を覚えた。
「はい」エンジンの鼓動が激しくなる。荷台で塞がれていたバックミラーに、光が入る。
「あの……」
「どうした。言いたいことがあるなら、はっきり言え」野太い声は暴力的で、人を萎縮させる力があった。しかし、それは不機嫌さから来るのではなく、元々そういう声なのだと、ようやく分かってきた。
「ありがとうございます」
「俺はお前の上司だ。礼を言われる筋合いはない」
「それと、もう一つなんですが……。俺にはないんですか」
「何がだ」
「拳銃です」人間相手なら空手や柔道、もしくは警棒でなんとかなる。しかし、怪異を相手に正拳突きをする気分にはなれない。
「訓練頻度は?」
「年一回です」
「味方に当てない自信があるか?」
「いえ」
「なら、やめとけ」サイドミラーに何か映った気がした。その正体を識別する前に、鏡は流入して来た土の茶色で塗りつぶされた。
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