千手の泉 Ep.7
「生贄って何の話です?」日常会話で使わない言葉のランキングがあれば、上位入賞が狙える物騒な単語だ。課長は何も答えず、路肩に停まるトラックの閂を外す。鉄扉が開く。
「こいつらだ」荷台の内部は、檻で埋め尽くされていた。子供靴の笛みたいな音が、何層にも重なる。課長は一台、ケージを降ろす。被さった布が剥がれ落ちる。檻の中にあったのは、園児が握った雪玉のような白綿の塊。絡まった毛の隙間から、尖った鼻と、体に見合わぬ巨大な耳がはみ出ている。
「ネズミですか?」
「犬に見えるか?」
「いえ」ネズミは環境の変化、もしくは課長の強面に身を震わせる。馬場さんと黒川が二つずつ、檻を受け取る。
「お前の分だ」檻は21グラムの魂すら感じさせないほど、軽かった。ネズミは初めて出会う世界に好奇心を刺激されたのか、檻の中を駆け巡る。彼のキラキラした瞳と目が合った。ネズミは、甲高い声で囀る。
「行くぞ」
俺達は雑木林に足を踏み入れる。しばらく進むと、苔むした地面から生えるカメラを見つけた。昨日、タヌキを写したカメラだ。課長は、檻を石の上に降ろすと、ケージの扉を開けた。しかし、ネズミは怯えて外に出ようとしない。課長は檻を揺らし、叩き、最終的にひっくり返す。ネズミは爪を格子に引っかけ、必死に抵抗していたが、やがて力尽き放り出される。
「行け」課長が命じる。ジムバッチが足りないのか、彼は動かない。
「行け!」語気が荒くなる。ネズミは逃げるようにして、湖に向かって走り出す。たまに立ち止まって、こちらを振り向くが、課長が威嚇するとまた走る。彼がカメラを通り過ぎた、そのときだ。突然、白い腕が現われ、鼠を掴んだ。力加減を間違えたのか、生贄が弾ける。土が血で染まる。
体の中で、温かいものが逆流するのが分かった。胃に閉じ込められていた昼食が、外に飛び出す。鼻を突く悪臭が広がり、肺は浅い呼吸を繰り返す。視界が揺れたと思ったら、景色が反転した。同僚達が俺を見下ろす。
「刑事だったんだろ。死体を見るたび、吐いていたのか?」俺は手の力を借り、上半身を起こす。三半規管はまだ踊り狂っている。課長が背中を撫でてくれた。少し、呼吸が落ち着いてきた。
「だから飛ばされたんです」正確に言えば、飛ばされた理由の一つでしかない。
「後は、俺と馬場でやる。黒川、こいつをホテルまで運んでやれ。会議までに体調を整えておけよ」まだやれる、と言いたかったがやめた。邪魔にしかならないことは、自分が一番知っている。
課長と先輩は茂みに消えた。ティッシュを忘れたので、ハンカチで口元を拭う。
「黒川さんはこういうの、大丈夫なんですか」内臓が散らばる光景を対面しても、彼女の人懐っこそうな顔に変化はない。
「訓練で食べたことがありますので」その光景を、鮮明に想像してしまう。再び、吐き気がこみ上げてきた。
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幸いなことに、会議が始まる前には体調は戻っていた。俺と黒川は、空いた椅子に腰掛ける。ずらりと並ぶパイプ椅子のほとんどは、黒のスーツで埋まっていた。俺達の向かいには、長官と各県怪から派遣された部隊の課長が肩を並べる。背後のスクリーンには、精進湖周辺の地図が投影されている。不意に、レーザーポインターの赤点が現われた。長官はマイクを握り、立ち上がる。
「まずは、応援に駆けつけてくれたことに対し礼を言う。早速だが、本題に入らせてもらおう。今回の執行対象はこいつだ」スライドが切り替わり、白い腕が現われる。握られた手から、ネズミの尻尾がはみ出している。
「この怪異は何本もの腕を操り、動物を湖に引き込む習性がある。勿論、人間も狩りの対象だ。現に、こいつは既に五十人以上の人間を食っている」波紋のように、ざわめきが広がる。そして局長の咳払いで、儚く消える。
「確かに油断ならない相手だが、必要以上に恐怖を感じるべきでもない。腕の長さは最大で12メートル。執行方法は至ってシンプルだ。怪異が住む、もしくは怪異そのものである湖を埋める。土砂を満載したダンプカーは、民間会社の手により精進湖キャンプ場に順次到着する手筈だ。君達はこれから湖に土砂を捨て、土を積み込み、また捨てる。それを繰り返す。質問は……、ないな」長官は部屋を端から端まで見渡すと、満足げに頷いた。
「ここからは、歴戦のベテランに話をしてもらおう」長官が課長にマイクを手渡す。
「注意事項はいくつかあるが、最も重要なことだけを言う。車の鍵を閉め、絶対に何があっても、扉を開けるな。以上だ」それだけ言うとマイクを返す。短すぎないか。
「それでは各課は行程表に従い行動を始めろ。解散」職員が一斉に起立する。俺は親を追いかけるアヒルのような気持ちで、課長の下に戻った。
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