千手の湖 Ep.6

翌日、俺達は再び山梨県庁を訪れていた。怪異についての報告とその対処法を提案するためだ。前者はつつがなく進行したが、問題は後者だった。課長が示した怪異の退治方法。それはあまりにも、常軌を逸脱していた。


「待ってください。そんなの無茶苦茶だ」


「しかし、必要なことです」


「いくら何でも湖を埋め立てるなんて……。何を考えているのですか」俺も知事と同意見だった。しかし課長は食い下がる。


「我々が怪異について知っていることは、決して多くありません。しかし、少ない知見から分かることもあります。過去、怪異による事件が自然と止まった例はないのです」


「この県は観光で成り立っているのですよ」


「この件を放置すれば、犠牲者は増えるばかりです。風評被害は県全体に及ぶでしょう」高速道路の途中、遊園地があったのを思い出す。日本で五本の指に入る巨大施設だが、平日であることを差し引いても人は少なかった。


「例えば、水を抜くのはどうです?それなら、まだ」


「水の受け入れ先に心当たりがおありで?」知事はそれについては何も言わず、議題を変える。


「富士山とそれを奉る寺社仏閣、そして富士五湖は世界遺産です。登録が解除されたら、どう責任を取るつもりです?勝村君も、君も何か言ってやりなさい」


本部長の皺が増える。額に血管が浮き出る。どんな罵詈雑言が飛び出すか、と耳のまぶたを閉じる準備をした。しかし彼が放ったのは、意外な言葉だった。


「私は、この事案は彼らに任せることが最善だと考えております」


「どうした、君まで」知事はガトリンガンを食った鳩のように、目を大きくする。


「先の二次災害と同じ轍を踏むだけです。私としては地獄の釜に、これ以上部下を送りたくはありません」


「それを何とかするのが、君達の仕事ではないのかね?」


「警察の仕事は犯罪者を捕らえ、社会の秩序を守ることです。我々には、怪異に対抗できる装備はありません」


勝村は階級章の星が輝くスーツを脱ぎ、背もたれに掛ける。県警本部長が、一人の個人になる。


「知事の懸念は理解できます。富士山のおかげで生活が成り立っている、という県民は何万といるでしょう。しかし富士山は何百年も昔から、信仰の対象でした。百年の歴史すらないよそ者が何を言おうと、その美しさは変わりません」


「分かった。精進湖の行政代執行を要請する」これから押し寄せる苦労に辟易としているのだろうか。知事の声は、枯れ木のようにしゃがれている。


「迅速なご決断、感謝します」課長は二人に一礼すると、知事室を後にした。


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ホテルの駐車場は、車で埋め尽くされていた。そのどれもが、影のように黒く、怪異対策庁の車両なのだと分かる。そこに新たな車両が一台が加わる。センチュリーだ。気品ある艶めかしい曲線に、黒がよく似合っている。


扉が開き、壮年の女性が姿を現す。銀髪は短く切りそろえられていて、鼻にべっこう眼鏡が掛かっている。UVカットが入っているのか、向こう側の瞳は見えない。スーツだけではなく、ネクタイも黒なので、喪に服しているみたいだった。


「杉野課長、久しぶりだな」彼女は静かながらも、威厳に満ちた声を出す。


「ご無沙汰しております。長官自らおいでなさるとは、思いませんでした」長官と聞いて、警視庁長官のハゲ面を頭に浮かべる。それは前の職場だと思い出して、彼を脳味噌から追い出す。


「関東管区の全支局から人をかき集めたんだ。私が行かねば、顔が立たんよ」


「指揮も長官が?」


「形式上はな。実際の指揮は君がとってくれ」


「私は課長ですよ」


「そうだ。問題でも?」 


「指揮官が課長では、他県の職員から反感を買うでしょう」警察も自衛隊も階級が物を言う社会だ。それらが合わさってできた怪異対策庁も例外ではないのだろうと、勝手に推測する。そして早速、その予想が外れだと分かる。


「顔が立たんというのは自治体との調整についての話だ。どうやら、君は自らの能力を低く見積もりすぎる癖があるようだな。怪異対策二課。現場にその実績を知らん者がいたら、にわかだろう。いらぬ心配せずとも、素直に言うことを聞いてくれるさ」俺は『にわか』なので知らないが、課長は縦社会をひっくり返せるくらいに凄いということだけは分かった。


「昨日、君が送ってくれた計画書には目を通した。要求された物資の手配は済んでいる。あとはそれらの到着を待ち、実行するだけだ」


「了解しました」


「特別会議は三時からだ。まぁ、頑張りたまえ。尻は持ってやる」長官は課長の肩を叩き、ホテルに入る。そして自動扉が閉まる寸前に振り向く。


「ああ、そうだ。生贄は既に届いているはずだ。有効に使え」




「ありがとうございます」今度こそ、彼女は建物の奥に消える。彼女の車のように黒い背中は、まるで死神のようだった。

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