千手の泉 Ep.5

俺は車のシートに座っていた。装甲車ではない。ただの乗用車だ。フロントガラスの向こうには、暗鬱な森がどこまでも広がっている。なぜ、こんな場所にいるのだろう。思い出そうとするが、二日酔いみたいに頭が痛む。頭痛の原因はすぐに分かった。後部座席に七輪が座っているのだ。火皿で炭が燃え、火花と煤を車内にばらまく。外に出ようと扉のレバーを引くが、固まったまま動かない。腰を落とし、力の限りそれ引っ張る。鈍い音がして、プラスチックが折れる。車体と扉の境目を塞ぐガムテープに気づく。それ剥がそうとするが、端辺が見つからない。仕方なく爪でテープを掻きむしるが、いくつか傷を作っただけで徒労に終わる。脱出の手立てがないかと、引き出しを漁った。グローブボックスの奥に、脱出用の赤いハンマーが転がっているのを見つけた。すかさず、拾おうとするがそれは指の隙間から滑り落ちる。指が震え、思うように動かなくなり、完全に停止する。次に肘が、足が動かなくなり、目を動かすこともできなくなってしまった。世界から音と光が消えた。


「起きろ、交代の時間だ」目の前にあるのは見慣ぬ天井と、会ったばかりだというのに、すっかり見慣れた上司。目覚まし時計の音量は、鳥が囀るようにささやかだ。


「悪い夢でも見たか」俺はやけに重い体を起こす。シーツと寝間着は、汗でぐっしょり濡れている。


「練炭自殺の夢でした」


「気にしすぎだ。どんな場所でも、どんな時代も人は死ぬ」課長は既にスーツ姿だった。秒針は規則正しく時を刻む。俺も早く着替えねばと立ち上がるが、足に痛みが走り、そのまま前へと転ぶ。床が柔らかいのがせめてもの救いだ。


「大丈夫か」


「アンメルツ、ありますか」


「ないが、モルヒネならあるぞ」


「遠慮しておきます」あの温泉は、筋肉痛に効果があるはずだった。


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畳張りの宴会場。その主役を飾るのは、ドジョウすくいでも、手品でもなく、壁一面のモニターだ。監視カメラの画像に囲まれ座る二人は、ディストピアの管理者に見える。  


「五分オーバーですよ」馬場さんの口ぶりは苛立ちより、からかいに近い。


「すまない。飯と睡眠に入ってくれ」彼は課長に報告書を手渡す。B4用紙に『異常なし』の4文字だけが記入されている。


「お腹すきましたね」黒川が言う。


「そんなことより、温泉だろ。一緒に入るか?痛っ、痛い、お前、先輩になんてこと!」襖が閉まり、喧噪と静寂が区分けされる。どうして、あの二人は打ち解けるのがこんなにも早いのだろうか。コツがあるなら教えて欲しい。


「俺は右半分のモニターだ。お前は左半分を頼む」


「はい」刑事時代、監視カメラを調べたことがあった。想像以上に集中力と神経を使ったのを覚えている。だから、たった二人で数十台の画面を監視するなど無茶だと思ったが、杞憂だった。コンビニや駅とは違い、画面に全く動きがないので監視が楽なのだ。ぼんやりモニターの灯りを見ていると、疑問が浮かんだ。


「怪異って、カメラに映るんですか」


「映る。少なくとも、俺が今まで相手したやつらはな」今さらながらも、意外に思った。インチキ臭い心霊写真にも、本物が混ざっていたりするのだろうか。


「音は出力されてるのか」一瞬、何の話か分からなかったが、カメラの音声しかないと気付く。マウスでミキサーを開いた。音量ゲージは真ん中らへんにある。


「されています。音量、上げますか」


「いや、いい。ちょっと便所に行ってくる。一人でできるか」


「はい」


課長との会話はあまり弾まなかったが、彼がいなくなると途端に静かになった気がした。コンピューターとエアコンの駆動音が嫌に響く。モニターは飽きることなく黒を映し出す。井戸よりも、深海よりも深い黒だ。昔、彼女に無理矢理見させられた映画を思い出した。テレビの中から女の霊が這い出し視聴者を呪い殺す、というものだ。この一件が原因で別れたが、そのトラウマは脳裏に深く刻まれている。目の前の機械が、恐ろしい物に見えてきた。首筋を冷や汗が伝う。エアコンの温度を上げようと、リモコンを手にしたそのときだ。一つの画面が大きく揺れた。一瞬だが、何者かの影がくっきり映った。


俺はあらん限りの力で叫んだ。甲高い悲鳴は恐怖心を呼び起こし、自らの三半規管を混乱させる。  


「何事だ!」


「課長!」俺は反射的に、目の前の人影に抱きついた。温かみに触れたからか、体の震えが小さくなってゆく。課長がハンカチで涙を拭ってくれた。ぼやけた視界が鮮明になる。


「画面が急に」揺れた、と言い切る前に再び物体が現われた。画面の中に佇むそれは見る物に恐怖や不快感を与えるものではない。むしろ逆だ。暑そうな毛と、つぶらな瞳が庇護欲すら感じさせる。


「タヌキがどうかしたのか」


「いえ、何でもないです。すみません」タヌキは鼻でカメラを小突く。画面が揺れる。課長はそれだけで何が起きたか理解したようだ。


「いや、それでいい。一番まずいことは、何かが起こっても連絡を怠ることだ。どんな些細なことでも異常があれば、知らせろ。」


「はい」


襖が開く。黒川と運転手が眠そうに目をこすっている。  


「あれが幽霊の断末魔ですか?始めて聞きました」黒川が聞いた。わざわざ来てもらったことに、申し訳ない気持ちになる。


「ちょっとした勘違いだ。問題ない」


「で、なんで二人は抱き合ってるんです?」そう言われて、俺が課長を抱きしめていることに気付いた。トイレを切り上げて直行してくれたからだろう。課長のベルトは緩んでいる。


「はっはーん。俺達と一緒の関係ってことですね」運転手は腕を黒川の肩に回す。即座に払いのけられる。


「問題無い、お前達は寝てろ」


「へーい、寝てきます。色んな意味で」黒川のボディーブローが炸裂する。運転手は体をくの字に曲げて、畳に倒れる。ゴエゴエと、ウシガエルの鳴く音がする。


「そろそろ、訴えますよ」


「それは、こっちの台詞だ。本気で殴りやがって」


「まだ二割です」黒川は見せつけるように、拳を握った。指の第二関節に、赤黒い傷跡がある。その言葉が嘘ではないと、直感的に分かる。


「どっちにしろ、やりすぎだぞ。隊長もなんとか言ってくださいよ」


「よくやった、黒川」


「ありがとうございます」彼女の敬礼は、今日見たなかで一番きれいだ。彼女は咳き込む先輩の襟元を掴み、畳の上を滑らせる。


『キャウーン』悲鳴が響く。課員の視線が、一斉にこちらに向く。


「俺じゃないですよ」もしやと思って、パソコンの音量を上げてみる。悲痛な叫びが一層、大きくなった。


「課長、あれ!」黒川はモニターの一つを指差す。その中で、タヌキが宙を舞っていた。彼の手を、足を、尻尾を、体を、顔面を、ゴムのように歪んだ『手』が鷲掴みにする。関節が逆に曲がり、眼球に指が食い込む。悲鳴はより痛々しいものへと変わる。


「課長!」不健康どころではない、不吉な白い手。画面越しでも、その冷たさが伝わる。




「間違えない。怪異だ」課長が言った。悲鳴は止んだ。

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