千手の湖 Ep.4

地面に杭を打つ。確かな手応えとともに、先端がめり込む。押しても引いても動かないことを確認し、それにカメラを取り付ける。


「設置、完了しました」課長は手に持った地図に、バツをつける。徐々に増えていった赤い印は、いまや湖を一周している。


「よし、撤収だ」手に持ったままの木槌を、リュックサックに納める。機材でパンパンに膨れていたそれは、割れた風船のように萎んでいる。自衛官には常人には見えない道が見えるのだろうか。隊長は草木を押しのけ、雑木林に入る。置いて行かれないように、彼を追う。


森は浅く、車道に出るまで一分と掛からなかった。視界が開け、断片的にしか見えなかった風景が全貌を現す。世界遺産の一角を占める、ということもあり精進湖は美しかった。ゼラチンで固めたような水面に、空と富士山が映り込む。澄んだ水が、太陽を浴びて輝く。その奥底に、何かが潜んでいるようには思えない。


「静かですね」俺と課長は、ガード伝いに路肩を歩く。足音以外は街の喧騒も、自動車の排気音もない、完全な無音だ。


「観光客がいないからな」対岸にキャンプ場とボート小屋が見えた。オンシーズンだというのに広い駐車場には車は一台もなく、ボートは桟橋に縛り付けられている。


「怪異のせい、ですかね」


「怪異というより、それが作り出した噂のせいだろう。根も葉もない噂ですら、広がるのに一日と掛からない。今回は根がある」


しばらく歩くと、ホテルの赤い屋根が見えて来る。その手前には、場違いな装甲車が停車している。


「この人数で、貸し切りなんて贅沢すぎませんか」怪異対策庁の予算は潤沢だとは聞いていたが、課長決済でホテル丸々一棟を借りられるほどとは思っていなかった。 


「そうでもないぞ。怪異を退治してくれるなら、と支配人が破格で貸してくれた。行方不明事件のせいでかなり客足が減っているんだろう。うちには野営設備がないし、県の防災センターはここから遠すぎる。これから来る応援のことを考えれば丁度いい」


「応援が必要な自体になると?」


「ああ」


「理由を伺っても」


「勘だ」先輩刑事達の勘が裁判でひっくり返るのを見てきたので、その言葉は信じられなかった。


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自動ドアを潜ると、そこは天国だった。ごうごう音を立てるエアコンが、熱と頭痛を吹き飛ばす。流れっぱなしのテレビの前で、黒川と運転手がジュース片手に談笑している。二人の膝には土産袋が座っており、テーブルの上に包装紙が散乱していた。破壊光線のごとき日差しの中、肉体労働に従事してきたこの身には、彼らが苛立ちすら感じさせるほどに羨ましかった。


「モニターの設置、終わりました。バッチリ映ってます」装甲車を運転いていた人(馬場さん)は咀嚼しながら、口を開く。隙間から白い塊が顔を覗かせる。


「ご苦労だ」


「課長、饅頭いかがっすか」


「ああ」課長は意外にも素直に、アンコ玉を受け取る。一噛みするたび頬が膨らむが、表情に変化は起こらない。 


「お前も食え」


「ありがとうございます」早速、それを口に含む。わざわざ言及する必要もない、普通の饅頭だった。     


「私にはないんですか?」黒川はグローブのように厚い手の平を差し出す。豆が潰れた跡に痛々しさはなく、たくましさを覚える。


「お前は、自分で買った分があるだろ」


「もう、全部食べました」運転手はやれやれ、といった風に菓子を乗せる。俺が貰ったものと同じはずなのに、大きな手との対比でえらく小さく見えた。


「ありがとうございます」


「早速だが、監視を始めてくれ。引き継ぎは午後九時だ」


「了解」運転手と黒川は、違うやり方で敬礼をする。黒川の手中にあったはずの物体は、目を離したすきに消えていた。


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明るいうちに入る風呂は、なぜか背徳めいた感情を呼び起こす。だが、目の前に広がる光景の前では、それは些末な問題でしかない。グラデーションとなった夕空に、富士の影がくっきり浮かぶ。 樹海の向こうで輝く富士は、なぜこの山が信仰の対象になったのかを見る人に理解させる。僅かに溶け残った雪が、赤い筋を作る。それはツリーを飾る電飾のように見えた。


温泉の水位が上昇し、欅の枠からお湯が溢れる。景色を独り占めすることはできないらしい。


「初日から出動とは運がないな」服の上から見ると、課長の体は顔の厳つさに比べて不釣り合いなように小さく見えた。しかし実際に目にすると、その印象は半回転する。決して巨大ではない、しかし引き締まった筋肉は、ボディービルダーのそれとも、警官のそれとも違う。トレーニングではなく使い込まれた末、発達したような体だった。自身の胸筋と腹筋に目を落とす。いかにも、『競技用』といった筋肉だった。


「どうだ、初仕事は」


「正直、分かりません。実感が湧かないんです」


「自分の目で怪異を見るまではそうだろう」課長は手で皿を作り、肩に湯を掛ける。俺も真似する。サラリとした湯が体に染み込み、筋肉痛が流れ出る。


「歓迎、されているようには見えませんでしたね」


「何の話だ」


「県庁での話です」本部長の苦虫をかみつぶしたような顔を思い出す。


「職域が被るからな。それに今回は警察からも犠牲者が出ている。やつらの面子への執着は、お前の方が詳しいんじゃないのか」昨日まで勤めていた職場の、ブラック企業顔負けな団結力を思い出す。結局、俺は馴染めなかったが。


「そうですね。反論の余地がありません。でも、『もっと早くに要請していてくれれば』と、つい思ってしまいます」二次災害だけでも抑えられていれば、犠牲者リストは半分の薄さになっているはずだ。


「後からなら、何とでも言える。失踪が怪異によるものか、ただの事故なのか判別は難しい」


「課長はどうやって判別されておられるのですか」


「自分が一日掛けて、何を設置したのか忘れたのか?」課長がそう言ったとき、空から光が消えたような気がした。逆さ富士が波紋で消え、黒く塗りつぶされた樹海に夕日が沈む。太陽の残滓である紫の光が地平線に筋を作り、カラスが追い立てられるようにして飛び立つ。インクを垂らしたように、空が黒で占拠される。その全てが、不吉の前兆のようだった。風呂に入っているはずなのに、体が震える。枕草子はこの光景に美しさを見出したというが、俺には一生掛けても理解できないだろう。


「先にあがらせていただきます」俺は立ち上がって、タオルを手に取る。夏にしては冷たい風が、上半身を撫でた。


「せっかくの絶景だ。もったいないぞ」


「のぼせてきたので」


「そうか」


「すいません」


「なら、先に寝ていろ。朝まで交代はないからな」


「はい」カラスの声が響く。それはあまりにもしゃがれていて、救いを求める声か断末魔か、判別がつかなかった。

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