千手の湖 Ep.9
「おはようございます」
「ああ、おはよう」カーテンを開けると、ギラギラした夏の朝日が部屋に差し込む。俺はガラス戸を引き、ベランダに出る。爽やかな朝の風が頬を撫でた。新鮮な冷水で、顔を洗った気分だ。柵の向こうに朝日を浴び、活力を漲らせた富士がそびえ立つ。僅かに筋のように残った雪は完全に消え、山は緑一色になっていた。
視線を落とすと、濁った湖があった。湖は富士の手鏡としての役割を捨て、充血した目の赤を映し出す。赤が怪異の怒りなのか、苦しみなのかは分からないが、その原因は分かりきっている。湖の埋め立てが始まり、もう半月。湖の面積は日に日に小さくなっていき、今や十分の一にまで縮んでいる。湖も湖で抵抗した。具体的には、俺にやったように扉をノックしたり、『オーライ、オーライ』と車を誘導したりした。そのせいで一台、ダンプが湖に落ちたが2000馬力は伊達ではない。その車両は難なく自力で脱出した。それらの情報は即座に各隊と共有され、注意喚起がなされた。罠のレパートリーは無尽蔵にあるわけではないらしく、二週目に入ると被害は0になった。荷台を下げ忘れ、トンネルに引っかかった事故をカウントしなければだが。
湖から這い出した手が、侵入者を拒もうと『手』を伸ばす。しかし、手はダンプの巨像の突進に弾き飛ばされ、巨大なタイヤで踏み潰され、濁流のごとく押し寄せる土に埋められる。
『手』に襲われた翌日は怖くて布団から出られなかったが、流石にもう慣れた。見るだけで動脈から圧力を奪い、魂の大事な部分に冷気を当てられる気分になる手など、なんら怖くない。そう、怖くなんてない。
風に当たりすぎて、寒くなってきた。ベランダの扉を勢いよく閉める。
「どうした、朝から顔色悪いぞ」鍵を回して、ロックも掛ける。
「低血圧なんです」
「コーヒー飲むか」
「紅茶でお願いします」
「贅沢なやつだ」電気ケトルのスイッチが戻る。課長はカップに湯を注ぎ、自分のコーヒーにミルクと砂糖を三つずつ入れた。昨日より、砂糖が一つ増えている。最初の一週間はコーヒーに何も入れず、その後は少しずつミルクと砂糖が増えていった。格好をつけたかったのだろう。課長の人間らしい一面が見ることができて、少し嬉しい。
「このペースで行けば、作業は明後日には終わる。もう一踏ん張りだ」
「十六連勤なんて、何かの法律に引っかかりませんか」
「俺達に労働基準法は適用されん。何の問題もない」事件で長丁場になるときでも、十連勤が最大だった。若者と呼べる範囲から片足がはみ出ている身には過酷だ。
「そろそろ行くか」
「はい」行程表を鞄に詰め、部屋を出る。オートロックの閉まる音が廊下に響く。自分の耳が信頼できず、ドアノブを引いた。レバーは途中で止まる。
「ストーカーでも気にしているのか」
「そんなところです」
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湖畔の駐車場は、ダンプで埋め尽くされていた。定番の黄色、落ち着きある緑、毒々しいピンク。色とりどりの車両が並ぶ。それらのボンネットにはサービスエリアの観光バスのように、数字が貼り付けられている。
「23番、あれですね」俺は目的の車両を見つける。そのダンプカーは特殊個体だった。バンパーはハプスブルクの顎みたいに迫り出し、車体の各所から生えた電球はまるで寄生生物だ。荷台には見返り美人が描かれ、神輿のような天井を背負っている。『夜露死苦』と書かれた扉が開き、二つの影が降りてくる。
「おっ、課長、お疲れ様っす」
「お疲れ様です」人影は黒川と馬場先輩だった。なぜか二人とも、いかついダンプがよく似合う。特に馬場先輩の方は、頭に巻いたタオルのせいで本職に見える。
「進捗はどうです?」先輩は課長に聞いた。そう見えないだけで、本当は疲労が溜まっているのかもしれない。
「9割といったところだ」
「そっちじゃなくて、お二人のですよ」
「何の話だ」
「男二人で、一緒の部屋に泊まって、何も起こらないわけないじゃないですか」課長は言葉の意味を咀嚼しているようだ。
「えっ、お二人ってそうなんですか?」話に黒川が割り込む。先輩のおちゃらけた声音とは違う。純粋で雑念のない声だ。そこで、意味を飲み込んだ課長が声を荒らげる。
「違う、違う、違う。断じて違う。ふざけるのもいい加減にしろ!」
「へーい」課長は奪うようにして鍵を受け取り、運転席に乗り込んだ。俺は本当の伴侶みたいに、助手席に腰を下ろす。窓の外で先輩が大きく手を振り、黒川は初めて行為の存在を知った中学生のように顔を赤らめている。課長は流れるような手つきでギアを切り替えた。運転させてばかりなことに罪悪感がして、もう一回、免許を受けてみようと思った。
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