第4話 わたしはやっていない(1)

 翌朝早く、『雑草』は、朝食の給仕を言いつけられ、食堂に立っていた。


 中庭を見渡す場所に、食堂はあった。

 大きなガラス窓から明るい光が差し込んでいる。


 たっぷりとしたカーテンはすでに巻き上げられ、新鮮な花が花瓶に生けられていた。


 食堂に据えられているのは、8人ほどが座って食事を取れる、長いダイニングテーブル。

 そこにニニスとビアンカの2人が座っている。


 ニニスとビアンカの前には、すでに果物のプレートと、卵料理とソーセージ、ジャガイモの付け合わせを載せたプレートが置かれていた。


 ワゴンの上には、温かな野菜のポタージュの入ったフタ付きのボウルと、冷めないように清潔なフキンに包まれ、カゴに入れられたパンが見える。


 温かな料理の匂いに、めまいがするようだ。

 少女のお腹が小さく、くう、と音を立てた。


 それでも、少女はレードルを握ると、こぼさないように気をつけながら、ポタージュをスープ皿によそった。


 無事に2人にポタージュを出すと、ビアンカが口を開いた。


「パンをちょうだい、『雑草』」

「かしこまりました、お嬢様」


 少女はトングで丸みのあるパンをつかむと、ビアンカの前にあるパン皿に注意深く載せる。

 ビアンカは満足そうにパンを手に取り、そして。


 ぽとり、と無造作に床に落とした。

 少女は驚いて目を見開いてビアンカを見つめた。


 ビアンカは少女を見ることもなく言った。


「早く片付けなさい、『雑草』。つまみ食いをしたら許さないわよ」

「は、はい、ただいま……」


 少女は慌てて床に膝を着いて、パンに手を伸ばした。

 つかもうとして、一瞬、手が震える。

 昨日の食事は、夜に食べた固いパンと、薄いスープだけだった。

 今朝は何も食べていない。


(このパンを今、ポケットに入れられたら……!!)


 少女が床の上のパンをじっと見つめていると、いつの間にか食堂に入ってきたメイドの手で、パンはすぐに取り上げられ、これみよがしにゴミ箱へと捨てられた。


 呆然として床から顔を上げた少女に、ビアンカは不満そうに首を振ってみせる。


「グズグズしないでよ、『雑草』。本当にあんたは役に立たないんだから」


 少女はうなだれた。謝罪の言葉を言うしかない。


「……申し訳ございません、お嬢様」


 目が潤み、見つめていた床がぼやけて見える。

 鼻の奥がつん、として、声が震える。


 それでも、少女は言った。

 それだけが、彼女ができることだからーー。


 * * *


 いつものようにニニスの部屋を掃除して、それから屋敷内の掃除に取り掛かっている時に、少女は家政婦長に呼ばれた。


「ビアンカお嬢様がお呼びよ。今日は奥様のお部屋に商人を呼んでいるから、お手伝いをしてあげて」


「かしこまりました」


 少女は掃除道具を片付けて、ニニスの部屋に向かう。


 ニニスとビアンカは月に何度か、出入りの商人を屋敷に呼んで買い物をするが、その手伝いは必ずしも楽なものではなかった。


(試着のお手伝いをしたり、買ったものを整理したり、それ自体は難しくないのだけれど)


 少女はそっとため息をつく。

 ノックをしてニニスの部屋に入ると、テーブルの上からソファの上まで、所狭しと広げられた小物と、色とりどりの果物のように色鮮やかな宝石が並んでいた。


「『雑草』、呼ばれるまで、あんたは壁際に立ってなさい。邪魔をしたら許さないわよ」


 少女の方を振り向きもせず、ビアンカが言い放った。


「はい、お嬢様」


 少女はそろりと移動して、言われたとおり、壁の前に立つ。


 ニニスのお気に入りの商人が、次々に煌びやかな宝飾品をテーブルの上に広げていく。


(……わたしが悔しがると思って、ビアンカはわざと部屋に呼んだのね)



 買い物を見せつける必要なんてないのに、と少女は思った。

 豪華な宝石も、可愛らしいバッグも、少女には何の意味もないのだから。

 そんなものよりも。


(お腹がすいたなぁ。あのパン、食べられたら、よかったのに……)


 少女が考えているのは、朝食の席での、床に落とされたパンだった。

 いつも空腹を抱えている少女には、床に落ちたパンの方が、宝石よりよほど大切なのだった。


 その時、それまで商人と話し込んでいたニニスが、すっと立ち上がると、ずらりと並べられた宝飾品の中から、赤い宝石の付いた小さなブローチを取った。


 その様子を見ていた少女は、一瞬、ニニスとビアンカの視線が交わって、離れたように、思った。


 何か違和感を感じた、次の瞬間だった。

 ニニスは無言で少女に近づくと、笑顔で少女の右手にブローチを握らせる。


「何を……?」


 少女が困惑してニニスを見上げると、ニニスは、ニヤリと笑った。

 赤い紅を差した唇が、ひゅっと弧を描いた。


「『雑草』、何てことをしているの? ブローチを盗むなんて、許されないことよ! さあ、返しなさい!!」


 ニニスの大声に、少女の顔が一気に青ざめる。

 部屋にいる人々の目が、一斉に少女に向かった。


「あ……」


 小さな手に握らされたブローチを、少女は見つめた。


(「申し訳ございません、奥様」、じゃない!」)


 さすがの少女にも、ニニスの悪意は明らかだった。

 罪を認めては、いけない。

 だって、わたしは何もやっていないのだから。


 少女の体が震え始めた。

 いつか、こんな場面にいたことがあるような気がする。


(怖い、怖い。でも……こ、声を上げなければ、認めたことになってしまう)


 少女はじりっと、壁沿いに動いて、ニニスから離れた。


『わたしはやっていません』


 ただ、そう言えばいい。

 しかし、震える少女の口から、言葉を出すことはできなかった。


 少女は絶望した表情をすると、ブローチを放り出すようにしてテーブルに置き、後ろを見ることなく、サロンを飛び出した。


「『雑草』、待ちなさいっ!!!」


 怒りに満ちたニニスの声が聞こえた。

 それでも、少女は走り続けた。

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