第1章 沈黙の杖

第1章1話 成長と停滞

 古来、人間ひとは、様々なものを発明してきた。

 大昔には、他の動物たちが忌避きひした火を使って煮炊きをして。言葉を話して、意思疎通をはかり。文字を生み出して、遠い過去と未来をつないだ。


 ……が、その恩恵にあずかれない者もいる。


 交易町リビドにある商人ギルドの事務室で、メルは眉根を寄せていた。セミロングの髪を掻き上げながら、帳簿の束とにらめっこする。



「うぅ……むむむ」



 …………読めない。


 数字の読み方は、あらかた教わった。見ているのは数字の羅列なのだから、正体不明の新出単語などはない。帳簿をつけたパルメラの筆致は流れるように美しく、文字の形が判読できないのでもない……はずだ。



「ろく? きゅう? うーん……でも、やっぱり──」


「メルー。ここの数字、また間違えてる」


「ひゃいっ!?」



 突然の呼びかけに声が裏返る。見れば、別の帳簿をもってきた少年がきょとんとしていた。同い年の商人見習いの少年──ピエール。



「ほら、ここ。けたが違ってる」


「ご、ごめんなさい……」


「それから、ここと、ここと……ここな。印つけといたから」


「あぅぅぅ」



 メルは、勉強が苦手だ。


 奴隷として過ごしてきた十四年間、読み書きを教わる機会もなく過ごしてきたためか、全然身につかない。こうして商人ギルドの手伝いをするようになったものの、同い年のピエールに添削てんさくしてもらってやっと、という有様だ。むしろピエールの仕事を増やしているだけなのも、わかっている。


 文字の読み書きさえままならないメルでは、足手まといだとわかっている。


 商人としての仕事の合間にパルメラが文字を教えてくれるのも、ピエールが間違いを添削してくれるのも、ギルドの手伝いという名目で、メルに読み書きを教えてくれるためなのだ。


 役に立ちたい。……役に立てない。


 理想と現実の乖離ギャップがメルをイラ立たせる。らしくないため息が出た。



「ごめんね。ピエールの仕事増やしてばっかで……」


「いや、オレはいいんだけどさ……ちょっと休憩したら? 大分、煮詰まってるだろ」


「う、ううん。私だけ休むなんて……」



 とんでもない、と手を振るメルに、ピエールが言った。



「さっき、上にアスターさん来てたよ」


「え……」


「パルメラさんと仕事の話みたい。お茶もってったら?」



 メルは、ガバッと立ち上がった。



「う、うんっ。そうする。──あ、ピエール」


「?」


「……ありがとう」



 パタパタと給湯室に駆けていくメルを見送って──

 ピエールは頬を赤らめて、ぽり……と掻いた。



  ☆☆



「……っ」



 お茶のお盆をもって階段をのぼるとき、足首がズキリと痛んだ。


 見下ろした足首には、奴隷だった頃の名残で足枷あしかせがはまっている。両脚をつないでいた鎖は半ばから断たれて、両脚に巻き付けてあるから、動くのに不自由はない。


 ……が、時々、足枷の部分が痛むようになっていた。

 別に、鋼鉄製の足枷が縮んだわけではない。メルの方が成長しているのだ。


 そのことを、メルはアスターに言えないでいた。

 なんとなく、言ったら気にしそうで……。



(……大丈夫。たまに、ちょっぴり、痛くなるだけ)



 ……うん。

 呼吸を整えて、商談室のドアをノックしようとした──そのとき、パルメラの声が耳に飛び込んできた。



「──なぁ。メルちゃんの足枷、なんとかならへんの?」



 ノックしようとしたドアが少しだけ開いている。そこから声が漏れて、部屋の中の会話が聞こえているのだった。

 メルの動揺が伝わって、手元のお茶の水面が波紋を描いた。



(……も、もしかしてバレてる? 足枷がきついって思ってること……!)



 そっとのぞきこむと、少しだけ開いた隙間すきまから、布地を幾重にも巻いたサリーを着たパルメラの姿が見えた。手前にいる金髪の後ろ姿はアスターだ。


 パルメラの問いかけに、アスターは少し間を開けてこたえた。蒼氷アイスブルーの瞳にけげんそうな光を浮かべたのが、声の調子でわかった。



「なんとか……って?」


「いつまでも足枷つけたまんまじゃ、あんまりや。アスターが正式に保護者になったんやし、いつまでも奴隷みたいにしとくわけにいかんやろ」



 ──奴隷、みたいに……。

 その言葉に、人知れず胸騒ぎがした。


 もともとメルは、主人のために魂送たまおくりをする奴隷だった。


 この世界にはびこる亡者どもにとどめを刺す唯一の手段──本来なら、聖堂に所属する正規の巫女が行うその踊りと歌を仕込まれ、実際には、商人である主人たちが逃げ延びるために犠牲になって死んでいく不遇な子どもたち。メルも荒野に取り残されて、人知れず死んでいくはずだった。


 助けてくれたのが、アスターだ。


 それからも、アスターは何かにつけてメルを気にかけてくれた。

 リバーズの町では気のいい職人にメルの足枷の鎖を断ってもらい、カルドラの聖堂長を証人に立てて、メルの保護者になる証文まで書いてくれた。



『私、人間じゃないもん』



 ──そう言うメルに、何度でも、言い聞かせてくれた。

 おまえは人間だ、と。

 けれど……。

 そう言われるたびに、メルの胸はざわりとうずく。

 子どもの頃から、足枷の重みがあるのが当たり前だった。

 鎖でつながれ、主人の顔色をうかがい、暴力におびえる日々だった。

 でも──

 自分の足で立つ、心もとなさに比べたら。



「下手に足枷をとれば、奴隷の逃亡幇助ほうじょになる。俺もなんとかしてやりたいが……」


「メルちゃん連れて他の国に出るのは、どうなん? 奴隷制度のない国なら……」


「……いや。どのみち国境で引っかかる。偽の身分証でも造ればいいのかもしれんが……」



 足枷が見えれば一発だからな……とぼやくアスターに、パルメラも黒髪を掻き上げた。



「せやなぁ。どうしたもんか……。うちも情報網をさらってみるわ。大陸中の商人が集まるし、何かしら抜け道があるかもしれん」


「……助かる」


「──あ、あの……っ」



 室内で話していたパルメラとアスターが振り返る。

 メルはたまらず、部屋に駆け込んだ。



「私、このままでいいっ」


「メルちゃん……」


「足枷つけたままでいいからっ」


「そない言うても……なぁ?」



 パルメラが困ったように、アスターを見る。



「──メル」



 びくり、と条件反射にメルはおびえる。

 その様子に、アスターがため息をついた。



「おまえはもう奴隷じゃない。……そんなもの、いつまでもつけている必要はない」



 剣で斬り付けるような厳しい口調に、メルはうつむいて唇を噛んだ。

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