今、バスが来た。バスの底の影と光。互いの領域をせしめあう様子は、崖の上で奈落におちまいと、火花を飛ばす2人の剣士さながらだった。そして、光は瞬間的に討たれた。僕と老人と女性が乗ると、バスはまた浮上し、弾力のある飛行を始めた。撓わとなった目下の木々の葉は、水溜まりの心地がした。老人と女性は、僕とは反対側に座っている。このバスに乗るのは、久々だった。指で窓を擦っても汚れは殆ど無かった。僕は右斜め前方に座る女性と時々目を合わせながら、外の景色を見ていた。暫く揺られていると、老人の話し声が聞こえてきた。


 「私はね、未来が今までのように、単なる設計図ではなく、現在から独立して、意志を持つ、狂暴な生きもののように思うことがあるのですよ。そう思わないでか?君は…。」


彼はそう言い終えると、僕の方を見詰めた。なぜ僕にそんなことを訊いたのか、分からなかった。なんと返せば良いか戸惑ったが、口を小さくぱくぱくとさせた後、呼吸音だけが共鳴するのを聴きながら、考え込んだ。


「僕も偶に悲しくなります。」

僕はそれだけ言った。


「人間はいつの時代も、悲しくなるものなんですかね…。」

老人は言った。


その後は、暫くの間、バスの中に沈黙が続いた。


 僕は右裾の指紋認証をするための模様に人差し指をかざし、ホログラムを起動させ、目を少し上に向けた。そしてフォルダーから本を選び、読み始めた。僕はSoseki Natsume の「And Then」を選んだ。斜め前に座る女性は、先程から外を眺めていた。ただ、じーっと…。文字の隙間から、時折覘く彼女の姿は、ドラクロワの絵画を彷彿とさせた。暫くしてバスは止まった。老人はどうやら此処で降りるらしい、帽子をかぶり、それでは、と一言呟いて、下車した。僕はまた小説の文字に目をやった。すると、先程まで銅像の如く動かなかった女性が、僕に言った。


「彼は毎日、あんな感じなの…。」


「…そんなんですね…。」

僕は少し戸惑い、そう応えた。彼女の声は、優しかった。ただ雰囲気とは、少し違い、風をきるような声だった。


「彼はねえ、半年前に奥さんを病で亡くしているの…。それから、いつもああなの…。」と彼女は言った。


「そんなんですね…。」


「悲しくなるの?」


「偶に何とも言えない気持ちになるんです…。」


「そう言えば、あなたはこれから何処に行くの?」


「CGAです…。」


「そうなんだ…。それは、いいわ!」


気付かなかったが、バスは次のバス停の近くまで来ているらしく、ゆっくりと高度を下げていた。


「そろそろ、降りる準備をしないと…。」

彼女は、荷物をまとめ始めた。まとめ終える頃には、バスはバス停に着いていた。


「それじゃあ!」

彼女はそう言い、バスを降りた。


 僕の下では、討たれた光が、影を討とうと、じっと待ち構えているに違いない。バスが浮上すると共に、剣を振るう勢いが増していく。その感覚が、目には見えないが、足下から感じられた。美術館に行くには、次のバス停で降りれば良かった。


 バス停に停車した。僕はバスから降り、3分ほど歩いた。暫くして、目の前には、白と青の壁が高々と聳えていた。ここが、カリフォルニア美術館である。美術館の入り口には、揺れる鏡が置かれていた。鏡の前に立つと、まるで液体のように鏡がうねる。僕はその鏡を後にし、入り口へと向かった。




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