第5話

 長いこと歩いた気がするのに、なかなか閲覧室を抜けない。

 不思議に思いながら、ロミーナは目の前の背中を見上げた。彼は本当に悪魔なのだろうか? 顔を見るなと灯りを拒否したせいで、ロミーナもまた相手の顔を見そびれている。

 悪魔なのだろうか?


「道がループしていませんか?」

「ループしているとすれば、君がこの先に辿りつきたくないんだろう」

「そういうのやめてください! 切実におなかがすいているんです!」


 焼き菓子を食べたい気持ちは嘘ではない。真に迫っている。安易に否定しないでほしい。


「俺も正直ここがどこだかよくわからないから、もういいか。食べておきなさい」


 立ち止まった自称悪魔は振り返ることなく、大きな手のひらに布包みをのせて差し出してきた。


「食べていいんですか?」

「このまま館内で遭難する恐れもある。空腹で遭難はまずい。最悪の状況でも、腹が膨れていればマシな気持ちで死ねる」

「悪魔だ……。きっとこのお菓子を食べたら、私は死ぬんですね」

「とか言いながらしっかり受け取ってるな。それで良い」


 悪魔から物をもらったら何か過大な請求でもされるのでは、と思ったが空腹には勝てず。ロミーナはいそいそと包みを受け取った。

 ずしりと重い。


「そのへん座れそうだな」


 悪魔がカンテラを持ち上げて、ひとりがけソファを照らす。ロミーナがそこに向かって座ると、悪魔も少し離れた位置に椅子と小テーブルを見つけたようで、カンテラを置いた。淡い光は、かろうじて手元まで届く。

 開いた包みの中には、種々の焼き菓子が入っていた。


「ストゥールデル、トルタ・バロッツィ、カネストレッリ、トルチリオーネ」

「お貴族様のお菓子はわからないわ。食べ物よね?」

「悪魔の食べ物だよ。全部毒入りだ。どうぞ召し上がれ」


 迂闊な一言のせいで、自分が平民出身の学生とバレたのでは、と思いつつロミーナはひとつ手に取る。円のような形をしているが、つながっていない。まるでとぐろを巻いているような形だと思ったら、膨らんだ部分に目を模したとおぼしきゼリーが埋め込まれていた。


「へび!?」

「ああ、トルチリオーネを最初に掴んだのか。善良なうなぎと、悪魔的なへびのシンボル」

「さすが悪魔のお菓子だけある。さてどんな毒が」


 ひとくち食べると、思った以上に美味しい。そこから、ロミーナはまたたくまにすべてのお菓子を平らげてしまった。

 空腹が満たされ、生き返った心地になる。


「お腹いっぱい……。もうここで死のう」

「えっ、死ぬのか!?」


 暗闇の向こうで、悪魔が驚いた気配。

 ロミーナは苦笑いをしながら答えた。


「いま、私すごい面倒な岐路に立ってるの。自分を殺すか、死にながら生きるのか」

「どっちにしろ死ぬ」

「そう。自分を殺して絵を続けても、絵を辞めても、死んでしまう。悪魔の毒で死んでしまいたい」


 つい素直に話してしまった。「そうか」と相槌を打たれただけでそれ以上会話は続かなかった。相手があまり自分に興味がないのを良いことに、ロミーナはさらに打ち明けてみることにした。どうせ顔も知らない相手なのだ。


「私、絵描きの卵のつもりだったんです。だけど、超有名な先生にめっためたにされてしまって。絵を、物理的に、ですね。どうすれば良かったのか、いまでもわからないんです」


「先生が君に嫉妬したんじゃないのか。若い才能をここで潰しておこう、みたいな」


「そこまで自惚れることはできません。先生が嫉妬するほどの、一目瞭然の実力なんていまの自分にあるとは思えないです」


「じゃあ、絵をめためたにするのが、先生の純粋な善意からなる指導だと?」


「先生の心の中のことまでは、わかりません。もしかしたら、芸術にものすごく愚直なひとで、こうすると良くなるって思ったら、止まらないひとなのかもって思いました。その場ではそう思えなくて憎しみしかなかったですし、この先理解できたとしても、私が受け止められるかは別ですが。暴力的な指導はいけません」


「わからないものは後回しにしてしまえば良い。ただ、俺が思うに、手を止めるのはあまり良くない。手が止まると思考もすべて止まる。前に進むきっかけを失う」


「つまり、辛くても苦しくても馬車馬のように前に進めと……」


「慣用句に物申して悪いけど、馬は繊細な生き物だ。馬車馬は適切な食事と睡眠を確保されている。がむしゃらに頑張りたいときこそ、休息は欠かせない」


 悪魔は、ロミーナより落ち着いていて、物知りだった。どことなく年長者の気配があった。

 そのあと、少しだけやりとりをした。


 だが、いつの間にか眠りに落ちていたロミーナが、朝自分の部屋のベッドで目を覚ましたときには、あの場で悪魔と何を話したかだいたいぜんぶ忘れていた。

 夢だったのかとも思ったが、口の中にはほんのりと甘い焼き菓子の味が残っていた。

 そして、抱き抱えられて学生寮に運ばれている間に、ロミーナはうっすら目を覚ました記憶もある。

 そのとき、見てしまったのだ。悪魔の顔を。

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