第2話

 謹慎処分につき、教室への立ち入りが禁止とされたロミーナは、ここ数日図書館で時間を潰していた。


 学院は、王侯貴族のご子息、ご令嬢の学び舎だけのことはあって、どこもかしこも設備がすばらしい。

 図書館は校舎とは別棟として独立しており、貴族の城館のように威風堂々とした佇まいである。内部も充実しており、図書館としての機能を有する一角以外に、一学年程度の人数ならば余裕でパーティーの開ける大広間ホールや演奏会用の広間サルーンまである。

 蔵書も充実しているのだが、なぜか普段からここはひとがあまり寄り付かない。ロミーナにとっては、ひとけのない図書館は実に都合の良い居場所だった。


 図書館のメインである書架と閲覧室は、まるで教会の身廊のような作りをしている。

 高い天井の下、長机が並び、左右に石造りの列柱がずらりと立っていて、その奥に分野ごとに分類された書架がひしめいているのだ。採光の工夫はされているが、本への配慮から、日中でも薄暗い。


 謹慎中のロミーナは、ただ日がな一日、閲覧用の長机の隅に座り、本を開いたままぼんやりとしていた。


(おなかすいた……)


 気力はなく本に興味が向かないまま、ロミーナは椅子の背に頭をのせて、高い天井を見上げる。

 乾いた地域の雲ひとつ無い空を思わせる、鮮烈な青。

 薄暗く、静まり返ったその場所から見上げていると、段々と天地が逆さまになって自分がその空へと墜落していくような幻想が立ち現れる。ロミーナは、そっと瞼を閉ざした。


 謹慎の理由は、授業での乱闘。

 きっかけは、天才画家ポーラが、ロミーナの絵を真っ赤に染めたことだ。


 赤の絵の具に浸された絵筆を、止める間もなく振り下ろしたポーラ。

 悲鳴すら上げることもできず、固まったロミーナにちらりと視線を流して言い放った。


「この男性、輪郭が良くないわ。もう少し顎のラインを足した方が鮮明になる。それから、この髪型もあなたの伝えたいことを伝えるには不適切。髪はもっと短くて良い。体の一部が硬質化して石になり、風化していく様子を表現したいのなら宝石の輝きは不必要。植物は、忘れられた遺跡が苔むして緑と花に沈んでいく様子かしら。だとしたら、こんな可愛い花でなくていい」


 あ、あ、あ、と声にならない声を上げるロミーナの前で、ポーラは次々と絵に赤い線を加えていった。

 ロミーナの手足は、ガクガクと震え出していた。だが、自分の絵がすべて赤く塗り潰される前にハッと我に返って、ポーラの手に掴みかかった。


「やめてください!」


 手首を掴まれたポーラは、色の付いた粉で美しく縁取られた瞳を細めてロミーナを見つめ、不機嫌もあらわに冷たく吐き捨てた。


「それは、わたくしの指導を受けたくないという意味? 出て行く?」


「そんなことは言ってません! ただ、その絵はもうすぐ完成で……、先生だってさっき、美しいと言ったではないですか! それなのに、これでは」


 そこでロミーナは絶句をした。赤く染まった絵を、自分の目でもう一度見ることはできなかった。顔を動かさぬよう、せめてポーラから目をそらさぬようにその冷たく整った美貌を見つめて、切々と訴えかけた。

 ポーラはひどく忌々しそうに「離しなさい」と言って、掴まれた手を振った。筆の先からぴっと赤い絵の具が飛んでまた絵に着地し、ロミーナの指から力が抜けた。

 飛沫汚れをかえりみることもなく、ポーラは眉をひそめてロミーナを睨みつけた。


「あなた、特待生のロミーナ・コケッティね。平民なのに、才能を認められてこの学院に迎え入れられたと聞いているけど、わたくしに対するその反抗的な目はいったいどういうことかしら」


 ロミーナは、ポーラがいまにもその筆をふりかざして、自分の顔にバツを描き入れてくるのではないかと思った。それくらいに、赤い絵筆は恐怖の対象になっていたが、勇気を振り絞って告げた。


「自分の絵に他人の筆が入るだなんて、絵描きであれば誰だってびっくりします!」


「あなたより優れた絵描きであるわたくしの筆が入るのであっても? 名誉なことだと思わなくて?」


 自分が口にした言葉がおかしかったのか、ポーラは薄く笑った。その笑みがロミーナの怒りに火をつけた。


「たとえ先生の発想が私より優れていて、その指導によって絵が良くなるのだとしても、こ、こんなふうに赤く塗り潰されてしまっては、この絵はもう……」


「簡単なことよ。もう一度描けばいいの。そうね。あなたが何を描きたいのか、この絵を見てわたくしもわかったわ。こうしましょう、わたくしがいま簡単に下書きを描いてあげる。あなたはそれに色を塗るの。その絵は高く評価されるでしょう。つまり……、良い値がつくわ。絵が一枚でも売れれば、あなたは晴れて画家を名乗ることができる」


「お断りします! それはもう、私の絵ではありません!」


「遠慮しないで。あなたの名前で売って良いから。この程度の手柄はわたくし、自分の画業として興味がないもの」


 にこり、と完璧なまでに愛想の良い微笑みを向けられる。ロミーナはその瞬間、吐き気を覚えて手で口元をおさえた。

 その繊細過ぎる自分の反応を恥じながら、なおも言い返した。


「私もその絵には興味がありません。なぜならそれは、私の絵ではないからです!」


 ポーラはもはや、その顔に怒気を漂わせることすらなかった。物分りの悪い生徒に噛み砕いて説明する、という教師の顔で答えた。


「才能を認められて入学できたことで、自分が完璧であると勘違いしているのかしら。そんなわけないでしょう。あなたは、『これから伸びる才能』と期待されているだけであって『現時点で完成されている』という意味ではないの。おわかりかしら? そのあなたが『自分の絵』とやらを大切にして、わたくしの指導を受け入れないというのはどういうこと? 自分が、わたくしより優れているとでも?」


「先生、私、そんなこと一言も言ってません! 深読みしすぎです!」


「あら。あなた、口を開けばわたくしを責める言葉ばかり。傲慢さここに極まれりね。あなたのように謙虚さのかけらもなく、学ぶ意欲もなく、反発しかしない学生は、伸びしろというものがまったくないのよ。この先どんなに頑張っても、決して画家にはなれないでしょう」


 何を言っても、通じない。悪く解釈し直され、責められる。


(私は、ただ、自分の絵を赤く塗り潰されたくないという、それを言いたいだけで)


 しかし、発言するたびに言質をとられるとあっては、もはやロミーナは言い返すこともできない。言葉を飲み込めばのみ込むほど、どんどん自信がなくなってくる。

 指導を受け入れられない自分は、傲慢なのか? 未熟でしかない「自分の絵」にこだわるのは、才能への過信なのか?

 赤く塗り潰されても「ありがとうございました」と言うべきところなのか?


 言えなかったロミーナは、言葉による抵抗を諦め、ポーラに掴みかかった。殴ろうとしたわけではない。その手に握りしめられた絵筆を奪おうとしただけだ。これ以上絵を壊されたくなくて。


「やめて! 殴らないで!」


 ポーラが叫び、ロミーナは他の生徒たちによってポーラから引き剥がされ、床に押し倒された。誰かが背に馬乗りになるのを感じながら、ロミーナは顔を上げて、赤く塗られた絵を見た。


(こんなことをしても、絵はもう元通りには戻らないのに)


 がっくりと床に頭を垂れる。

 殴ろうとしたわけではない、という言い訳すら口にすることなく、ロミーナはそれからかれこれ10日間謹慎の身の上である。


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