第2話
日常の崩れる音がした。
まるで赤子が積み木を崩す様に呆気無く、情緒無く、無造作に。
草むらから飛び出したのは一匹の異形。猫の様な体で、顔もとには人間の面。サイズは動物園で見たライオン程もある。だが自然の生物ではないと直感した。そして、そのネコ科動物が人間の頭部を咥えているのでは無いという事も。
奴はその顔部分にあたるナニカを、悲痛にも似た表情に変えて、ゆっくりと口を開く。
「ダス、ケデ」
僕の近くにいた生徒達数人が悲鳴を上げた。
獣が発したのは間違いなく人間の言葉だった。だけれど、そこには何の意思も存在しない。言葉というよりは、ただの音だ。オウムが言葉をまねてもその意味までは知らない様に、奴もまた意味を知っているようには見えなかった。
状況が呑み込めず、何の感慨も生まれない。ただ、今しがた落とされた首の断面から湧きだす真っ赤な血液が噴水みたいで、綺麗で、その場に立ち尽くしていた。
馬鹿な冗談みたいな、下手なCGみたいな光景である。
僕は皆が嘔吐しているのに気が付いて、ようやく川路が死んだ事を思い出した。
「アンタ、笑うてるで」
そして、どういう訳か不覚にも己の中で滾る喜びと興奮の感情を自覚した。
「生きてる。俺」
快楽殺人者が殺人中にだけ生を実感したみたいなセリフが出たことに、自分でも驚いたが。
「楽園実験二十一っていうんがある。食料が無限で、病気や天敵もいない隔離された場所にネズミを放つだけの実験や」
姫小松は俺以上に訳の分からないことを口走り始めた。
「生命活動において何の支障も無い筈の空間に入れられたネズミも最初はええ。せやけどいずれ引きこもり、自傷をし、働かなくなり、我が子を殺し、共食いを始め、そしていずれは繁殖すらせずに絶滅するんやて」
そう言って彼女はシニカルに笑った。
「まるで現代社会の縮図屋と思わん?食料が飽和して、殆どの病気には対抗薬があって、自らを脅かす外敵など存在せえへん。
生物は多少なりとも生死に関わるストレスが無あらへんと、集団で異常行動を取るんやて。最近の現代人と来たら、やれ自傷やら、やれ自殺やら、やれオーバードーズやら。精神を来して異常な行動を取る事があるらしいけど。それは自然界では不自然で、きっとウチ等はこの世界で生きる生命体だという事を忘れてしまうからなんやろうなぁ」
だから、それがどうしたというのだろうか。
「今そんなことを言ってる場合かよ。逃げるぞ!!!」
「二十一っていうんはそれが丁度二十一回目の実験やったから。せやけど何度繰り返しても、二十一回中二十一回ともぜーんぶおんなじ結果をたどるんやて」
それがどうしたんだ。なんなんだこれは。この笑いは。芯から込み上げてくる喜びは!!
「つまりアンタ、うれしかったんや。自分が本当に生きている事を実感できて、自然界に生きる立った一匹の矮小な獣であることを再確認することが出来て」
風が吹いた。或いは気のせいだったかもしれないが。
しかし今後僕が以前と決定的に変化したタイミングを挙げるならば、今この瞬間の事を挙げるだろう。そして、それはきっと幸せな事だったと胸を張っていう事ができると思う。
「オイテカナイデ、イタイ、クルシイ」
そう言いながら、獣は近くにいた女子生徒に飛び掛かった。
笑みを浮かべる僕に、隣の毬が上ずった声で云う。
「ウチも一緒やで?おんなじ気持ち」
「じゃあ死ぬか!?お前。このまま」
「無抵抗で死ぬのは御免やわ」
嗚呼、やはり僕は変わってしまった。
命の危機が目の前にまで迫っているというのに、楽しくて、心が踊って仕方がない。
今ここに崖が無くて本当に良かった。
全能感に支配されて、飛び降りてしまうところだったろう。
まだ死にたくはない。この興奮を、この気持ちを、もっと感じていたい。
周囲を見渡すも、冷静に逃げ果せた者はたったの五人も見当たらなかった。殆どは絶望に打ちひしがれてその場に力なく崩れ落ちるか、救い上げられた金魚みたいに腰を抜かして地面をのたうち回っているか。
けれどもその速度は遅い。推察するに、意識だけが先行して逃げてしまい上手く体を動かせないまま、その場でのたうち回っているのだろう。
「イタイ、タスケテ」
そこに意味はない。だが、その背景を。奴がその音を覚えた経緯を思い浮かべて、僕は背筋が凍った。
襲われた女子生徒の肩には、奴の持つ人間の口が噛みついていて、牙を立てている。しかし特殊な発声の為に体部分とはあまりにも乖離した頭部のせいか。その威力自体は人間のそれとさして変わらないように見える。
どうやら奴の攻撃手段は前脚による引っ搔きが主なものらしい。川路というお調子者の首を跳ねた攻撃。
だがそんなものは当の本人である女子生徒にとって、どうでも良い事だった。
血走った目で歯を食いしばりながら、半狂乱で体をくねらせ、声を荒げ叫ぶ。
「見て、ないでッッ!!!たすけてよ!!!」
異形は泣きわめく女生徒の顔すらも模倣したが、瞳から涙を流す事はない。
だからその顔は、歪んだ笑みに見えた。
少女は熾烈な恐怖に体を震わせ、脂汗を浮かべた虚ろな目で僕らを睨む。口の端から流れ落ちる涎を飲み込む余裕すら失っているが、拳だけは掌に爪が食い込む程の力で握っていた。
どれほどの恐怖か、どれ程の痛みか。僕には推し量る事すら憚れる。しかし体は動かなかった。いや、動かさなかった。いくら舞い上がっていようと、僕は死ぬことが怖いのだ。だから、潜在意識の中で見捨てたのだと思う。
彼女を贄に、この場を切り抜けようと、見切りをつけたのだ。
不思議な事に心は全く痛まなかった。痛みを想像は出来ても自分の物ではないからか。同情はできても自分の事ではないからか。
全くと言って良い程に体は普段通りに動くのに、心は動こうとしなかった。
寧ろ、僕の体は周囲の状況を確認しにかかっている。
確実に生き残れるように、確実に脱出できるように。異形の向こう側を見て増援が無いことを確認し、左右後方を見て第三勢力が無い事を確認し、空まで見上げて。
だけど、何もいなかった。まるで件の異形だけが世界のバグの様に、不自然にこの世界に佇んでいる様だ。
野生動物に対する対処はテレビで見て知っていた。決して素早く動こうとはせず、対象の目を見ながらゆっくりと後ずさる。テレビでは言っていなかったが、僕は少しでも他の生徒を盾にするために、敢えて腰を抜かし地面を転がる生徒の背に隠れるようにして、とにかく逃げた。
「自分、やっぱり糞野郎やな」
毬はそう言って、やはり上ずった声を僕に向ける。
彼女は僕の隣に居た。正面を向いたまま、同じく後ずさりをしている。だが怯えてはいない。上ずった声なのに、顔にはまるで誕生日プレゼントを貰った無邪気な子供の様な笑みを浮かべている。
「それを言うなら笑うのを止めないか?」
それとも顔は引き攣っているだけなのだろうか。どうにもそうは見えないけれど。
「笑ってる?ウチが?」
毬はそう言って己の顔をペタペタと触り、そして、呟いた。
「ほんまや」
人にはあれだけ講釈を垂れていたというのに、どうやら自覚がなかったらしい。そもそもこの状況で熊が現れた時と同じ対処法をとれている時点である程度の冷徹さは持ち合わせていたのだろう。やはり、この少女もかなりの食わせ物らしい。それも無自覚の。
そうこうしていると、襲われていた少女の首筋が食い破られた。異形の口には静脈が引っかかっており、それが太陽の光に反射して青く輝いている。
「お母さん……誰か、助けてよぉ!!」
「オカアサン!!、タスケテ!!、オカアサン!!」
今朝までの僕なら、奴を全ての生物界で最も邪悪かつ冒涜的な生き物だと捉え唾棄したかもしれないけれど、今ならば分かる。この狩猟方法は対人間において、合理化の先にある神業だと。神の御業なのだから、神に対する冒涜も糞もないのだと。
立ち向かおうとする者など皆無であると、そう思っていたのだが。しかし少し離れた後方から、一人の男の叫びが聞こえてきた。
それは奴に対する怒号であり、敵を威嚇する唸りであり、自らを奮い立たせる勇気の声でもあった
この瞬間ではただ一人。僕や姫小松を含めた全員の中で彼だけがたった一人。単なる獲物ではなかった。
双方の距離は凡そ二十メートル。走って向かう距離としてはやや長いが、それが野生の肉食動物までとの距離だとすれば、あまりにも頼りない間隔である。
しかも相手は温室で育てられた動物園のワンちゃんネコちゃんではない。そうだとして檻を挟む事無く対峙したくなかったが。ともあれそれは、怖気づいて逃げるなら、の話である。檻を隔てては相手を殴ることなぞできはしないのだから。
「千里を!!離せ!!!」
彼はどこからか取り出したカッターナイフを持ち、叫びはそのままに異形の元へと走っていく。脚は時折縺れそうになって、今にも転んでしまいそうだ。
対する異形は男の顔を、その真っ黒な眼でジッと眺めるのみである。今までに体験した事が無かったからか。
しかしそうだったとしても仕方がないだろう。
なにせ奴の狩猟方法は待ち伏せ型だ。野原を駆け回ることはせず、無暗に襲い掛かることもせず、ただひたすらに餌を撒いて待ち伏せる狡猾さを持っている。
それに加えてあの不気味な容姿だ。
例え仲間が襲われたとしても、常人ならば助けに入るという選択肢はまず現れない。
きっと周囲の学生と同じく、腰を抜かして後ずさるのが関の山である。
……それに、立ち向かったからとしても、勝てるとは限らない。
案の定、彼は異形の前足にぶん殴られて吹っ飛んだ。
「
けれども僕は勇気を持って果敢に異形へ挑んだ男子生徒を、心底から尊敬した。仰ぎ、感心し、そして同時に畏怖をする。
だがそれ以上の気持ちで憧れた。自分もああなりたいと、なってみたいと。脳髄に深く残る形で、そう刻み込まれたのだ。
時間が経って砂塵が落ちると、そこに死んでいる筈の男が立っていた。
異形に掴まれた女が、祥久と呼んだ男だ。
彼は繋がっているだけの左腕をダラリと下げて満身創痍に現れた。
額からは濁流の様に血が溢れ、脚も簡単に手折れそうな程震えている。
だが、その眼は死んでいなかった。今にも倒れそうで、逃げ出しそうで、体は死にそうなのに、その眼は未だ燃え盛る様にギラギラと輝いている。
―――異常だ。
何が彼を突き動かすのかは分からない。どうして彼女を助けようとするのかが。
仮に二人が付き合っていたとして、結婚を控えていたとして。
見捨てればそれで済むだけの話なのに。
人間を三人も食えば、腹もいっぱいになるだろう。自分が死ぬよりも、ソレは大切な事なのだろうか。
彼は喉が張り裂けんばかりの勢いで吠え、走り出した。
先程と比べれば幾分も速度が劣り、精細さに欠け、出鱈目なフォームでの走りだ。
けれど、それでも、異形の方が気圧されている風に見える。
それは僕の勘違いではなかった。
目に見える形で、異形の方が一歩後ろに引いたのである。彼が踏み込めば引き下がり、その間隔が狭まる毎に後退った。
焦りにも似た異形の遠吠えが鼓膜を破らんと耳を劈くも、彼はそれを意にも返さない。人面ライオンも流石にマズイと思ったのか、咥えていた女子生徒を離して腕を伸ばす。狙うは首筋、当たれば必勝。必殺の一撃だ。
しかし、振り下ろされた前足は体を最大限に捩る事で避け、大口を開ける人型の頭部は優しく逸らす。
そして彼は、恐ろしいほどの速度で異形の懐に潜り込んだ。
そこまでにどれ程の葛藤があったのか、あるいは無かったのか。それすらも僕には分からないけれど、彼は助走の勢いもそのままに異形の心臓目掛けてカッターナイフを突き上げた。
「……は?」
それは誰が零した声だったか。兎にも角にも場の雰囲気とは余りにも乖離した、場違いで間の抜けた声だった。
しかしそれ程の光景だったのだ。僕等にとって人の体が消える事は。目で追えなくて、そう錯覚してしまうという事は。17年の中で初めて見た光景だったのだから。
彼の手元にあったカッターナイフは異形の胸に深々と突き刺さっている。遠目にもその事だけは分かっていたというのに。その過程だけが、まるで消え去ったかの様に見えなかった。まるで最初から存在し無かったかの様に見えなかったのだ。
「……まだ死んでいないんじゃ無いかな?」
感動鳴りやまぬ雰囲気の中、委員長が震える声でそう呟いた。
確かにそう言われてみれば、異形の脚が未だ少し動いているようにも見える。
気が付けば、幾人かが走り出していた。自分もその瞬間に立ち会わんとすべく、かの英雄の元へと駆けだしていた。
与り知らぬ所で事が終わるのを恐怖するように。
「……みんな、来てくれたんだ」
彼はカッターナイフを引き抜き、そう言った。後ろを振り向き、満面の笑みで。
油断して。
異形の傷口からどす黒い液体が流れ落ちる、刹那の間。
英雄の背中に、異形の尻尾が突き立てられた。蠍の持つような、甲殻に覆われた太い尻尾の先端だ。
僕らは崩れ落ちる異形と英雄の体を、ただ、眺めている事しかできなかった。
祥久の背中は紫色に腫れあがっている。腫瘍でも抱えているかの如く、膨れ上がっている。異形の血液をふき取り、現状で出来うる限りの清潔さを保って彼の背をカッターナイフで切り取っても、まるで事態は好転せず。
結局、英雄はもがき苦しんだ挙句に顔を紫色に染めて、死んだ。
きっと毒だったのだろう。英雄には似つかわしくない、情緒も何もない呆気の無い最後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます