寸止め。


 ――欲求、である。



 

 その破滅への入り口は、常に甘露滴る色とりどりの花に飾られていて、芳醇な香気を漂わせている。

 むしろその正体が破滅だと知っていても、望んで飛び込んでしまうような色気に溢れているものだ。

 

 あるいはその人類共通の習性は、“呪い”とも言うべきものかもしれない。

 

 そして上位的存在である我々貴族は、愚策を弄し飢饉を引き起こすなどといった大罪を犯さぬよう、その解呪に努めねばならないのである。


 とはいえ、それは禁欲を意味しない。


 むしろ逆だ。

 たとえば明日も知れず鼠を囓って生きてきたような下民に無制限のブラックカードを渡せば、忽ちに国家予算ほどの金額を使って豪遊するだろうことは目に見ているではないか。



 人の欲はたしかに尽きることがない。

 しかし満たすことはできずとも、飢えぬことはできる。

 

 そして、我々がどこまでいっても搾取せし者である以上、飢餓によって食い尽くすことなどあってはならないのである。


 だから我々は豪勢な食事で日々を彩り、ふかふかのベッドですやすやし、性奴隷を得て果てなき欲求を発散するのだ。

 臣民のために。


 それこそが、貴族であることの宿命的、社会的責任である。



 そう――。

 その信念あってこそ、我が輩はヴァイアを買ったのだ。


 キスをする。

 キスをしたあとは、欲望のまま少女の肉体を犯す。


 それでいい。

 奴隷契約だの意に沿わぬだの、そのような倫理観は二の次である。


 いいのだ。

 いいはずなのだと思いながらも、我が輩はその自らの言葉に言い訳じみたものを感じている。

 

 ……なぜ?

 なにゆえ、焦燥に似た不安を感じなければならないのか?

 

 実際、問答している時間はない。

 我が輩の唇と少女のそれは、もう数秒もせずに合致しエッチするだろう。


 ……にも関わらず、我が輩の脳内では微かに違和感、警報が鳴り響いている。


 なぜだ?


 床が硬いからか?

 徹夜明けでコンディションが悪いからか?

 性病のリスクを心配しているのか?

 

 

 それとも――ヴァイアが魔女だからか?



『――然り!!』


 突如として、脳内に応の声が響く。

 果たしてそれは、ユニコーンに跨がった我が輩の理性そのものであった(脳内での情景です)。


『ヴァイアは魔女である! その意味をよく考え、悍ましい剣を収めたまえ!』


 意味……?

 分かんない……。オデ、ヴァイア、抱きたい……。


『いいか! お前は奴隷契約によって魔女を手中にした!

 魔女は強力な力だ! その存在が明るみになってから数百年、彼女たちは孤高を貫き、世間を忌み、どんな王侯貴族もその力を手に入れることは叶わなかった――。

 だが、今は違う! 魔女を手にしたとすれば、ボンダンドール家の威光は弥増すばかりであろう!』

 

 ……ハッ!!


 ――目が、覚めた。

 醒めた、と言ってもいい。


「――――ッ!」


 束の間、とんでもない美少女の顔が近くにあって即座に理をしっしそうになったが、咄嗟にヴァイアに頭突きすることでキス回避と理性奪還の両取りを試みた。


 ゴツン!

 快音である。


「っったぁ……!」


「ぬぐぉお……!」


 ふたりして床にもんどり打つ。さきほどまでのエロティックな雰囲気は霧散し、痛みだけがその場に残された。


「下手か!」


 ヴァイアが涙目で額を抑えながら抗議してくる。


 キスすらもまともにできぬ男だと思われただろうか――という心配よりも、よもや今の頭突きでヴァイアの純潔が失われてはいないだろうな、という杞憂すぎる思いが先に過った。

 

 過った瞬間、そのようなことをいの一番に考える自分に呆れ、なにやら分からぬ悔しさのようなものが喉に詰まる。


「――う、ううっ……!」


「え、ご、ごめんなさい……。

 ……泣くほど痛かった?」


 ヴァイアがしおらしく謝り、俯いて嗚咽する我が輩の後頭部を撫でるが、そうではない。


 そうでは、ないのだ。

 

 ヴァイアを抱きたかったという思い、これほど完璧な少女を抱けぬという現実。


 そして、利益を最も優先すべき行動原理とする我が性質、極度の興奮下でさえも打算を巡らせることができる優れた頭脳――。


 そのすべてが恨めしく、もどかしく、悲しかったのだ。



 何にも気づけぬ愚者であれば良かった。

 打算よりも愛や運命を信じられるロマンチストであれば良かった。


 

 だが、何もかもがもう遅い。

 我が輩は貴族であり、斯様であるべきであり、そのように生まれてしまったのだから。


「……泣かないで。

 あなたが泣くと、私も悲しい」

 

 そう囁く声が、少し揺れている。


 決して手の届かぬ愛しき温かさに、我が輩は一層泣くのだった。

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