闇の中で、星々は輝く。
――彼の羅針盤に、私の指が触れた。
ユウキのパーカーの右ポケットに無造作に突っ込まれていたそれを、指先で取り出しながら。
……けれど私の意識は、もはやそちらに向いていなかった。
いまここで、最も警戒すべきもの……ユウキのスキルによって縛り付けられたように静止する敵のことも、頭になかった。
ただ、ユウキの声と、早鐘を打ち始める自分の心臓の音だけが、聞こえていた。
――まるで熱に浮かされたように語られる、ここではない世界の話。
それは、この世界で私と彼しか知らないはずの、過去の風景だった。
どうしてそれを――なんて、考えるまでもない。
答えはひとつ。
彼こそが――私の知るユウキ、だからだ。
……思考がまとまらない。
こんな状況なのに、夢を見ているように語られる思い出がただ懐かしくて、そんなこと言ったっけ、と曖昧なところもあって――いまどう感じているのか、自分でもうまく掴めない。
混乱していた。
驚いていたけど、妙な納得感もあるし……なんか恥ずかしかったけど、嬉しかった。
――けれど。
まだ戦いは、終わっていない。
忘れかけていた現実が、断裂音とともに動き出す。
「――――ッ!」
咄嗟に“
形になりきれていない闇が、私とユウキを押し出して距離を取った――直後に、それが白い槍に貫かれて霧散した。
「もう、一度っ……!」
宙空に放り出され、水面に落ちる直前、今度は巨大な手を形作ることに成功する。
攻撃はいらない。
一本だけ。
私とユウキを護る、一本だけあれば良い――。
「――――!」
だが、それも長くは保たない。
水面を滑るように移動し、距離を詰めた敵が、空中に生えたその闇の腕をあっけなく掻き消していく。
「“剛腕の、振り子”!」
喉の奥で、くぐもった嗚咽が鳴る。
頭の中を、見えない手で掴まれているような感覚。
こんな連続で、なおかつ四本以上“
――どうせ勝てない、と私の中で声がする。
私の力は効かない。
だから私では、どんなに頑張っても奴に勝てない。
できるのはせいぜい時間稼ぎで、それも長くは保たない。
……単純だが強力なロジックで、その声は羅針盤を壊して撤退しようと誘惑する。
見通しが甘かった。
こんな敵がいるなんて、思いもしなかった。
こんな場所で、なにもかもを……私の命も、ユウキも失うなんて思わなかった。
帰ろうとなんて、しなければよかった――――。
「――――違う」
違う!
それは違うと、私は奥歯を強く噛む。
……それでも、私は帰らなければならないと思ったんだ。
たとえ、死ぬことになったとしても。
どんなに別れが辛いものだとしても。
だって、この世界は私の世界じゃない。
私は魔女で、まだ私の世界でやるべきことがある。
……さっきまで、それを忘れていた。
目の前の敵が怖くて、対する私は無力で……心のどこかで、逃げる理由を探していた。
この世界は、楽しかった。
ユウキと居るのも、悪くなかった。
…………旅立つのは、少しだけ寂しかった。
――それでも。
「――――なな」
鞘を左手で支え、右手を柄に添える。
構えてしまえば七秒、発動するまで動けないのは知っている。
……もう後戻りはできない。
「――――ご」
地面が足元から消える感覚。
私の乗っていた闇の巨腕が、奴によって消されたのだ。
だが、すぐさま別の腕が私を掴み上げ、再び彼我を隔てる。
今、ここに生成した腕は全て、私たちを護るために在った。
「――――さん」
満天の星空が、護る闇の隙間から見える。
……ふとした時に、どこか遠くを見るような彼の眼差しを、私は思い出す。
あの夜――花火の打ち上がるテラスで、どこか他人事のように立つその姿も。
その意味が、ようやく分かった気がする。
きっと、彼だって帰ることに迷いがあったのだ。
……そうだったらいいなと、私は思う。
「――――に」
視線を落とすと、巨大な掌に伏している彼が目に入った。
限界を迎えて、眠っているのか、朦朧としているのか――。
その投げ出された手を見て、あの人に、雑に頭を撫でられた感触が蘇る。
「――――いち」
正直に言えば。
……もう一度だけ、そうして欲しかった。
私の知ってるユウキとしてじゃなくても、この世界でのユウキとしてでも、もう少しだけ一緒に居たかった。
後悔しない? と自分に尋ねる私の声がする。
まあ、するかもね、と私は答える。
いつか、魔女の名を捨ててここに居れば良かったと思うかもしれない。
いつか、この選択を悔いる時が来るのかも知れない。
だって……この世界は、楽しかった。
ユウキと居るのも、悪くなかった。
…………旅立つのは、少しだけ寂しかった。
――それでも。
彼が私を魔女と呼んでくれたのだから。
「…………!」
身体が動く。
空間は凝縮され、瞬きの間に、届く
私の腕が、刀を振り下ろした。
その赤い剣閃は、わずかに食い込み――しかし、勢いを失っていく。
「舐めるなっ……!」
目の前の敵を斬る、ただそれだけのために。
振り抜いた刀身は、血のような赤を超え、やがて黒く染まっていく。
「――――私は、闇の魔女だ!」
闇が、奴の断面を焦がすように侵食する。
その黒は、消されては生まれ、白を汚して引き裂いていく。
「――――」
力比べにも似たその果てに――ばしゃり、と刀の切っ先が水面に触れる。
私の剣閃が、白の怪物を斬り落とした。
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