そのとき彼女は。
『――じゃあな』
魔王討伐という人類の悲願が叶い、誰もがそれを祝っていた夜。
素っ気ない言葉と、見たことのない術式で構成された魔法陣を残して、あの人は姿を消してしまった。
私がすぐにそれを起動して後を追おうとしなかったのは、得体の知れない魔法陣の危険性を知っているから……ではなく、どうせまた会えると思っていたからだ。
私の知っている「勇者サマ」は、表舞台に立たされて賞賛を受け続けるのを嫌う人だった。
だからこんな風に、裏口から逃げるようなやり方で祝祭から脱したのだろうと思ったのだ。
……でも、それから一ヶ月経っても彼は私の前に姿を現さなかった。
私だけじゃない。
誰も、彼の足取りを掴めなかったのだ。
あれが、今生の別れだったのかもしれない――。
そんな思いが頭にこびりついて離れなくなった頃、聖女様が私に、
通常、魔法陣は一度魔力を流せば二度とは起動しないようになっている。
けれど、複雑な構成の魔法陣は違う。
その複雑さを成り立たせる要素が、むしろ安定した骨子になってしまうのだ(……らしい)。
それに、インクとして使用されたのは彼の血を混ぜたものだ。
壁の表層を削る程度では“残ってしまう”……らしい。
そんな「対抗呪文不明の魔法陣」を安全に消すには、物理的に部屋を破壊するか、闇魔術で根本から消し去るしかない。
……そういうわけなので、聖女様の命令は理に適っている、はずなのだ。
疑いようのないことだって、分かっている。
……けれど、私は素直に頷けなかった。
それがあの人に繋がる唯一の手がかりだったから……というのが半分。
もう半分は、彼女の態度に不信感を持ち始めていたからだ。
私の報告を受けた聖女様は、世界を救った勇者を探すように手配するわけでもなく、手がかりである魔法陣を調べるために何かするでもなく……即刻、城の地下室を封鎖し、人払いを徹底したのだから。
……理屈はいろいろとつけられると、たしかに思う。
勇者が消えたことを表沙汰にしないためとか、正体不明の魔法陣は危険だから、とか。
でも今考えれば、それはまるで……。
あの人が、もうこの世界にいないことを知っているかのようだった。
そして、その魔法陣が一体どんな役割を果たしているのかも知っているかのような――。
とにかく、そんな聖女様の態度も影響して、私は理屈を抜きにしたひとつの予感を抱き始めていた。
……この魔法陣を消してしまえば、あの人と二度と会えなくなるのかもしれない、と。
城の地下。
一面に書き込まれた巨大な魔法陣を前に、私の逡巡は一瞬だった。
私は息をひとつ吸って、それを起動させた。
――迂闊だったとは、さすがに思うけれど。
その迂闊さを後悔しているかと訊かれれば……それはどうかな、などと迷ってしまう私は、やっぱり良くも悪くも「魔女」なのだろう。
***
こうして、私はこの世界にやって来た。
あの人が「帰る」ために描いた魔法陣は、異世界に繋がっていた――なんて。
信じがたいけれど、事実そうなのだから仕方がない。
科学技術で人々の生活が成り立ち、魔法や魔族のようなものは空想の中か、ダンジョンという場所に隔離され、心躍る見世物のようになっている世界。
豊かで清潔で、整備されていて、発展している国。
……異世界人であり、闇の魔女である私は、この世界では紛れもなく異分子でしかないけれど。
ここまでなんとか大きな騒ぎを起こさずにやって来れたのは、ユウキのおかげだ。
転移直後。
ダンジョンに倒れていた私を保護してくれた彼は、やけに親身になって私の世話を焼いてくれている。
この世界の案内に留まらず、その後も無償で食事や住むところを提供してくれたり、私が帰るために骨身を惜しまず動いてくれたり……正直、ちょっと異様なまでに、と言ってもいいかもしれない。
それでいて、なにか見返りを要求してくることもない。
豊かな世界に住んでいると、それが当たり前なのかな……と思ったりもしたけど、たぶんそういうわけでもなさそう。
本当に何が目的なんだろう、と最初の頃は警戒していたりもした。
なんかもう、私にすごい一目惚れしたとかじゃないと説明がつかないけれど、そんな様子もない。
……逆に、なさすぎるくらい。
まあ、あっても困るけど。
でも、彼になにか目的があってもなくても、その厚意に助けられているのは事実だし、私に他の選択肢はない。
それに、いざとなればこっちには魔法もある。
だからまあ、同い年の男の子にお世話になりっぱなしのこの状況でも、同じ家で寝起きしていても。
ヘンな心配はいらないか――というのが、私の思考がたどり着くいつもの結論だった。
……たぶん、彼がいなければまだ、私は元の世界に帰る目処もついていないままだっただろう。
私はたしかに魔法は使えるけど、あの人と違って、社会にこっそり紛れ込むような権謀術数的なものはバリエーションにあまりないのだ。
……だから、心底幸運だったと思う。
奇しくもあの人と同じ「ユウキ」という名の人に助けられているというのも、運命じみたものを感じるし……。
……なんてことを思い始めると、段々、顔もあの人に似ている気がしてくるもので。
そのうち、あの人を若返らせればこんな感じなんじゃないか――などと、どこか無理矢理に彼との類似点を探そうとし始める自分に気付いて、呆れたりもする。
……なにを考えているんだろう。
まるで、自分からわざわざ好きになりにいっているような。
……だとしたら、愚かすぎるとしか。
底抜けに親切にされてるからって好きになってしまうほど、私は単純で馬鹿じゃない……はずだ。
けれど、ユウキの纏う雰囲気や、彼の私への接し方とか……事あるごとにどうしても、あの人を想起してしまう自分がいるのも、どうしようもない事実なのだった。
***
とにかく。
そんなユウキのおかげで私はいま、ここにいる。
第五階層。
それにしても、だ。
武器の使用もなく、単純な体術を駆使するだけの四階層の主――“ユウキの影”は、思った以上に強敵だった。
もちろん、後れを取るわけじゃないけれど。
単純に回避能力が高く、折れない闘志で向かってくる敵は、それだけで脅威なのだ。
いっそもう【
……まあ、さすがに冗談。
ここに来るまでかなり魔力を消耗しているし……いざとなったら、魔力を消費しない魔女の固有魔法である【終わりに降る闇雨】だけが頼りになる。
というかそこまで私が追い込まれないために、ユウキが力をセーブしてくれたわけで……。
……そのはずなんだけど、本当に面倒くさい敵だった。
本人はたぶん「悪口か?」って嫌な顔をするだろうけど。
魔女に苦戦を強いた時点で、胸を張って良いと思う。
「……しかも結局、私の“影”も倒しちゃうし」
そんな風に、私はわざと不満げに呟いてみる。
……でも、本当は。
嬉しかった。
あのとき……第三階層で「またね」と言ったのは、なかば願掛けみたいなものだった。
ユウキが第四階層を突破するのは、ほとんどあり得ない。
そういう風に、私たちは道筋を組み立てたのだから。
……だけど、ユウキは私の“影”を倒した。
私は、その様子を水面越しに見ていたけれど……まるで、私との冗談みたいな約束を果たそうとしてくれたように思えた。
……なんて、ただの勘違いかもしれないけど。
……本当は。
あの女の子が許すなら、ユウキを待って一緒に進みたかった。
でも、第五階層に居る主を、私が倒すのが帰るための条件――と追い立てられてしまえば、どうすることもできない。
それでも、やっぱりユウキを待ちたかった。
もう一度会いたかったというのが、私の偽らざる本音だった。
「……なんでかな」
後ろ髪を引くような気恥ずかしい考えを誤魔化すために、私はそう呟いたりしてみる。
信頼しているから。
もちろん、それもある。
でも今、より一層その思いが強くなったのは。
さっき“ユウキの影”と戦って……バカみたいな考えが強まってしまったのかもしれない。
この世界に来てから、密かに抱き続けてきた、とある考え――。
それはつまり。
元の世界に帰ったユウキが若返っていて……私は、そんな彼とずっと一緒に過ごしていたのかもしれない。
……というものだった。
「…………いやそれはないでしょ」
はっきりと言葉にして考えてみると、思わずどこかに頭を打ち付けたくなるくらい恥ずかしかった。
都合の良い妄想。
少女趣味全開の妄想だ。
たしかに、ユウキとあの人が重なるところはある。それは認めるけど……いくらなんでも本当に、それだけはない。
どうかしてる。
……それに、だ。
それに……。
ユウキがあの人だとすると……私は異世界に来て早々、「好きな人を追いかけて来た」などと本人に告白してしまった、ということになってしまうわけで。
……ただでさえ、あんなことを言ってしまったのを後悔しているというのに。
ましてや、それが、本人に言ったなんてことになると…………。
「……やめやめ」
これ以上、ばかげた考えを発展させないように、私は頭を強く振る。
ここから先は、前人未踏の第五階層だ。
生まれつき強き力を持つ者特有の慢心が私の欠点だ、とはあの人からも指摘されたことがあるし。
……ムカつくけど、私もまあ結構そう思う。
一層気を引き締めて、私は【
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