変わる世界、何もない部屋。
「桜彩?」
自室の向かい側――幼なじみの部屋をノックする。
……返事はない。
もう一度ドアを叩いてしばらく待ってみるが、やはり何も聞こえてこない。
「…………」
俺は一瞬、覚悟を決めてから――ドアを、開けた。
――それは、殺風景な部屋だった。
調度品が少ない、という意味ではない。
文字通り、そこにはなにも置かれていなかったのだ。
家具や寝具もない上に、そもそも人が住んでいたような“匂い”がない。
空き部屋――そう形容するのが、もっとも近いだろう。
「……どういう、ことだ?」
目の前に広がる光景に、俺は呆然として呟く。
桜彩の部屋に入ったことはないが、今まで中の様子を全く目にしてこなかったわけでもない。
よく思い返してみると、開いたドアの向こうにカラーボックスや淡い色のラグを見た記憶はあるし……というか少なくとも、ベッドや机くらいはあったはずだ。
だが、現にここには、なにもかもが無い部屋だけがある。
それは、まるで。
――まるで
「……なんだ、それは」
あり得ない、と俺は頭を振る。
桜彩は、確かにここに住んでいたはずだ。
少なくとも昨日、俺がダンジョンに行くまでは。
「……間違いない、はずだ」
だが……。
彼女の存在……その痕跡を探せば探すほど、むしろ「いなかった」ことばかりが明らかになっていく。
がらんどうの部屋だけではない。
玄関にあったはずの靴や、彼女が使っていたコンディショナーなどの生活用品――昨日まで当たり前にあったはずの全てが、消えて無くなっている。
「そうだ、スマホ……」
そのことにようやく思い至ったのは、部屋全体にあらかじめ構築しておいた
充電が切れたそれをケーブルに挿し、電源が入るまで待つ。
画面をつけた途端――怒濤のように押し寄せる通知ラッシュをすべて無視し、俺はメッセージアプリの連絡先を開いた。
「――――」
果たして――。
桜彩の名前は、そこにあった。
思わずほっと息を吐く。
とりあえず、最悪の想像――「なぜか桜彩の存在がこの世から消えている」という可能性はなさそうだが。
迷うことなく、通話の呼び出しを開始する。
しばらく待ってみるが……出ない。
「まさか、本当に……」
なにかに巻き込まれたのか。
引っ越しレベルの大胆すぎる物盗りか……あるいは、桜彩の全てを丸ごと誘拐されたのか。
その場合、下手人は俺の張った魔術的防護を、破った痕跡を残さずに突破する必要があるが……。
もしくは俺との共同生活が嫌になり――僅か数時間の間に、夜逃げみたいな家出をしたのだろうか。
……そんな業者レベルの手際の良さが桜彩にあるとは思えないが……。
様々な可能性を考えつつ、ひとまずメッセージを打とうとした――そのときだった。
折り返しの着信。
『……はぁい……』
通話アイコンをタップすると、ややあって眠そうな声が流れてきた。
……それは、聞き馴染みのある少女の声だった。
「……桜彩、だよな?」
『……ん? ……えっ!?
さ、桜彩です……けど? …………え、あれ? 鍋島くん、ですか?』
驚きと戸惑い。
そんな彼女の様子に違和感がないわけではなかったが、ともかく。
「良かった……無事、なんだな?」
『は、はい……。
わたしは、まあ、ふつうに無事ですけど……。
――って、それよりも! 鍋島くんこそ、その、大丈夫でしたか……?』
「は? 俺……?
俺は、別に大丈夫だが……」
『そ、そうだったんですね。
だったらその、良かったです……本当に』
「あ、ああ……」
……なんだ?
話が微妙に噛み合っていない。
俺はなぜ安否確認をされているんだ?
そんな俺の混乱がスマホ越しに伝わったのか。
しばらくの無言の後に、桜彩がおずおずと切り出してくる。
『えっと、なにかありました……?』
「なにかって――」
むしろその“なにか”がありすぎて、何を言えばいいのか分からない。
いや。
というかやはり、この様子だと――。
「……桜彩にとっては、“なにもおかしなことは起きてない”……のか?」
『……?
……そう、だと、おもい、ます……?』
戸惑いながらも、桜彩が答える。
「…………」
……なにが起きているのかは、おぼろげに分かってきた……かもしれない。
だが……。
なにがどうなってこうなっているのかは、さっぱりわけがわからない。
『あの……どうしたんですか?』
そんな桜彩の心配げな声に、俺はなにをどう言えばいいのか迷う。
だが、ひとまずのところは、だ。
「……まあ、桜彩が無事なら」
良かった――と続けようとした、そのときだった。
「――――――――」
突如として背筋に震えが走り、俺は素早く振り返る。
反射的に強化魔術を自身に付与し。
なにが起きてもいいようにスマホを手放し、両手を自由に使える状態にして。
――それから、その悪寒の正体に気付いて大きく息を吐いた。
それは――この世界に帰ってきて以来、初めて感じ取る、自分のものではない魔術行使の気配。
リィナが、目を覚ましたのだ。
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