ことのは

鈴ノ木 鈴ノ子

ことのは


 電車の中でそれを見かけた。

 マスク越しにでも分かる美人と小さな小さな小鬼だった。小鬼は人から人へとスマホやタブレット、パソコンの上を渡り歩いて、美人はそれをじっと目で追いながら、なにをするともなく、眺めているようだ。

 僕は彼女とその小鬼を少し離れた距離で暫く見つめることにした。


 

 私が小鬼を見つけたのは偶然であった。

 餓鬼のように腹の出て痩せ細った悪鬼で、黒く…いや力が弱っているのだろうか、煤けたような黒色の瘴気を纏っているが、その足取りはおぼつかない。クライミングのように両手両足を器用に動かしては、服の裾や指先、ストラップなどを伝ってゆく。

 小さな瘴気に当てられてだろうか、きっと電子機器達が動きを悪くして、それぞれ三者三様に困り顔を浮かべたり、スイッチを弄ったりしているが、誰も彼も小鬼の存在には気が付かず、動き始めた機械を眺めたり、操作したりしている。

 誰もが手元を向くか、窓からの車窓をぼんやりと眺めていた。


「可哀想に…」


 そう溢しながら彼女はマスク越しに、小鬼へと視線を向ける。自らが纏う瘴気を一本の細い糸を紡ぐように、それが小鬼の手元を捉える様に思考すると、やがて小鬼の手元まで糸が張った。


「こちらへおいでなさいな」


 そう思念を送る。

 小鬼は醜いながらに悲しい顔をしていたが、彼女の存在に少し嬉しそうにして糸を近くの物に結ぶと、綱を渡るように糸の上を走ってきた。


「お情け感謝いたします」


 糸の先は彼女の肩あたりにあって、渡り終えた小鬼は肩にちょこんと座り込み、そう言って礼を述べた。

 

「気にしないでいいわ。あなた、見かけない顔ね」


 視線を落とすことなく、思念でそう伝えると、醜い笑みがホッと綻んだ。


「最近、こちらにきたとこなんでさぁ。下界がまさかこんな地獄になってるとは、思いもしやせんでしたがね」


 小鬼は残念そうな顔をしてかぶりを振ったのちにそう言った。


「地獄ね…確かにそうだわね。あなたは地獄を知ってそうだけど、地獄勤なの?もしかして獄卒?」


「ええ、まあ、そんなもんでさぁ」


 小さくとも地獄の鬼らしい。悪鬼などと酷いことを言ってしまったと、彼女は反省する。地獄の鬼は真面目で研究熱心だから、現世を見にきたのかもしれない。


「あっと…。姉さんとお呼びしても?」


「構わないわよ、あたしも小鬼さんと呼ばせてもらうわ」


 遠慮がちにそう言った小鬼に対して、彼女もまた、同じような態度を取る。今の力関係なら彼女が上だが、どんな矮小な物であっても、獄卒、地獄の鬼ともなれば恐ろしい。天命を得て、とはおかしいけれど、場が整いもすれば獄卒の力は強大だ。小さな鬼でさえ、現世の怨霊など一捻りで捌いてしまう。


「あんなもん、何が楽しいんですかねぇ」


 人々が電車に揺られながら操作して、あるいは見つめているスマートフォンを怪訝そうな顔で小鬼が見つめた。


「便利なものよ、本は読めるし、遊びもできる、新聞も見れるし…」


 彼女がそこまで話したところで、ふと小鬼の表情が別の意味で曇っている気がした。


「確かに楽しそうなことは分かりますわ…。ですけど、和気藹々ではないですからなぁ」


「和気藹々?」


「ええ、何日か、歩き回りましたがね…そこらかしこで瘴気の吹き溜まりを見かけましたわ」


「そうなの?小鬼さんは以前にも現世に?」


 小鬼は小さく頷くと懐かしそうに目を細める。彼女には醜い顔が観音様の微笑を浮かべているように見えた。

 

「何回か来てまさぁ。ですが喧騒の少なさは1番ですな」


「子供の喧騒、大人の喧騒、街の賑わい、確かにあたしが生まれた頃より、どんどんと少なくなってるわね」


 自らが生まれいでた頃は確かに騒がしかった。

 喧騒があちらこちらにあった。


「姉さんもそう感じますかぁ?」


 それを聞いて小鬼は語るようにそう言うと、ゆっくりと頷いた。


「俯いてばかり、上も前も見ない。すれ違うものに興味がなければしっかり見ることもない。あたしや小鬼さんにも、神様や仏様にだって…」


「あっしら見たいな瘴気モンは仕方ないでしょうか、神さんや仏さんまでですかい?」


 目を見開き、さながら目ん玉が飛び出さんばかりの驚愕を見せた小鬼に、彼女は悲しそうに頷いた。


「誰も教えないから仕方ないのよ。何の神様?何の仏様?、それすらも知らない。八百万とまではいきませんけれど、足元のちょっとした神様から、道端のお地蔵さんまで、通りがてらの挨拶すらもしないわ」


「え!?そうなんですかい?」


「ええ、驚きよね。氏神さんなんて名前すら知らないこともあるのよ」


「寂しい世の中ですなぁ」


「面白いのはね、あたしみたいな瘴気モンに当たると体調が悪くなるでしょう?気にもしてないし見てもないから、いつどこで?になる訳よ」


「障も分からないと!?」


「ええ、そんなモンなのよ」


 彼女はケラケラと笑い、小鬼は驚愕を通り越して呆れ果ててしまった。やがて肩を落として項垂れると、寂しそうな目を彼女に向ける。


「姉さんも寂しいですわな…」


「うん…。私だけじゃないわ、みんなそうよ」


 小鬼の一言に彼女は息を詰まらせる。やがて笑いが途切れるように止むと目尻に涙が浮かべていた。


「見つけられないのも…辛いわね…」


「諸行無常とでも言うのでしょうなぁ」


 確かにその通りかもしれない、彼女は同意するように頷いた。

 変わらないもの、変わりゆくもの、それぞれ、昔にはあった、変わってはならないものもあった。

 でも、今の現世は違う。

 流行り廃りが馬鹿馬鹿しいほど激しくて、ついていくことすらできない。怖いものはとことん怖く、いや、ただ怖いだけ、落語や講談のように「情」がない。


「進化する退化、なんて言ってた奴もいましたなぁ」


「あら、言い得て妙ね」


「あっしのは受け売りですがね」


 小鬼は笑いながら、やがて、ふぅ、とため息をつく。物悲しく、そして怒りが混ざり合ったような、聞くものを不安にさせるものだ。


「なるようになるしかないわ。やがて地獄や天国にまでアレが繋がるようになれば、悟るんじゃないかしら」


「素晴らしいことなのか、愚かなのか…分かりませんが、まあ、不変なものもありますからなぁ」


「あら、例えば?」


「地獄は変わりませんぜ」


「ふふ、地獄の沙汰は…」


「あはは、そこから先は内緒でさ。ですが、昔っから甘かぁありません」


 小鬼はそう言って膝をパシンと弾き、ケラケラと笑い喚いた。


「見えないモンには、気がつかないモンには、お沙汰も厳しく役は果てしなく長いですわなぁ。敬うことができぬことも罪ですから、まあ少し、上を見て、前をじっくり見て、精進して暮らしていくこと。これにつきますわ」


 そう言って小鬼は肩より立ち上がると、彼女に和かに微笑んだ。


「まだ暫く現世に?」


「ええ、居れる限りは居るつもり。まあ、私には地獄もないのだけどね」


「あはは、確かに。ですが、転じてなんとやらですから、更に化けることもできますよ」


「そうなると怨霊かな?ふふ、考えておきますね」


 小鬼は頷き、やがて、頭を軽く下げてから、ゆっくりと姿を消えゆく線香の煙のように薄くさせ、やがて、消えて行った。


「また、どこかで会いましょう。小鬼さん」


 電車が駅に入りやがてドアが開く、彼女はしっかりとした足取りで、ホームの階段を降りてゆく。周りはやはり足早に、そして流れに乗るように歩いてゆく。

 誰も周りをそれほど気にせず歩いていた。

 階段を降り終わると、ふと、柱の影に瘴気溜まりを見つけた。その前にはサラリーマンから中学生までが、気にすることもなく立っている。あれでは明日以降、体調を崩すだろうにと彼女は思った。

 中学生の視線がチラッと彼女を見た。


「あらあら、どうかしら?」


 マスクを外す、取り裂けた口が特徴的な背筋がゾッとするほどの微笑を見せつけてみる。暫く動きを止めた中学生だったが、やがて、手に持っていたスマホに視線を戻して、指先を画面に滑らせている。


「ダメね。見えては居ないわ」


 諦めてマスクをした彼女がコートの裾を翻して、ゆっくりと人混みに紛れて消えて行った。



 僕は後をつけるように電車を降りて、マスク越しの美人の女性を探してみるが、人混みに紛れてしまうと探すことなど困難だ。

 あの不可思議な組み合わせと聞いていた会話の内容が気になって仕方ない。一度気になると中々抜けないこの癖は僕自身も、ほとほと嫌気がしているけれど性分なのだから仕方ない。不治の病と同じで付き合っていくしかないのだ。

 駅近で買い物を済ませると僕は帰路へとついた。点滅を繰り返す街路灯の脇を抜けて、家々に挟まれた薄暗い路地を自宅へと歩いてゆく。ふと僕を呼び止める声が聞こえる。


「ねえ、お兄さん」


「はい?」


 振り返ると先程の彼女が点滅する街路灯の下に立っていた。


「私、綺麗?」


「凄く綺麗だよ」


 問われたことに対して、僕は率直で素直な気持ちを口にした。


「そう…。これでも?」


 マスクに手をかけて取ろうとする。


「駅前でビールと焼き鳥、あと、ケンタ買ってきたよ。帰って食べよ」


「意地悪。最後までさせてくれてもいいじゃない……。でも、ありがと、帰ったらサラダでも作るわ」


 遮るような僕の言葉にムスッとむくれたような声から上機嫌にトーンが上がった彼女が嬉しそうな微笑みを浮かべてスキップをしながら此方へと軽やかに向かってくる。


「さ、帰ろ」


「うん」


 優しく手を握り、繋ぎ合いながら夜道をゆっくりと歩いていく、見上げた月から煌々と光が注いて辺りを柔らかく照らして、彼女の冷たく純白の肌を鮮やかに照らし出した。


「さっきの会話面白かったね」


「また、聞いてたの?」


「うん」


「もう、あまりしないでね」


 裂けた口を困ったように歪めて、頬を染めた彼女が小さなため息をついた。


「僕は見つけることができたから、モンにはならないよね」


「そうね、貴方は別の意味で怖いけど…」


 小学校6年生の夏に彼女に出会った。

 塾帰りの夜道に同じように尋ねられて、綺麗だったから綺麗と答えたら、噂通りに迫ってきた。恐怖で足が動かなくなり、もう、ダメだ。と諦めて立ちすくんでいると、いつの間にか着物姿の立派なお爺さんが隣に立っていた。


「この者を殺してはならぬ」


 力強く腹の底から響く声に背筋が寒くなる。彼女は立ち止まり困惑したような顔をしてお爺さんをじっと見つめていた。やがて、彼女は諦めたように踵を返して、その場から揺蕩う煙のように消えてしまった。


「早く帰りなさい」


 お爺さんに背中を押されて、動くようになった足で駆け出し、僕は自宅に帰ってひどく怒られた。夕食を食べ終え、風呂に浸かっていると彼女の姿が脳裏に思い浮かぶ。


「怖いけど…綺麗だった」


 最初は恐ろしかった。でも、あの儚さが漂う白百合のように綺麗な姿に僕は一目惚れをしてしまっていた。

 翌朝、彼女と出会った道は通学路で、歩きながらいつもの様に道祖神さまに会釈して、帰り道には彼女に再開できる様にお願いをした。晴れの日も、雨の日も、雪の日も、盆正月までも、何年も何年も、各地をお参りする度に祈り続けて、やがて成人を迎えた年に再開することができた。


「あ、貴方ね!」


 どうやら私の好意は一種の呪詛の境地まで至ってしまったようだ。この地を再び再訪した際に神様や仏様、はたまた、困り果てたお爺さんにまで説得されて僕の前に現れてくれたのだ。


「一目惚れでした。付き合って欲しい」


「え!?」


 真摯な眼差しからは程遠い、病的なまでに歪んだ眼差しを彼女に向けて、真面目な顔で僕は告白をした。


「えっと…。その、まだ、知り合ったばかりだし…。そんなこと初めて言われるから…」


 頬を染め、もじもじとした態度を見せる彼女もまた凄く可愛いらしく綺麗だった。3年くらいの時間をかけて、ゆっくりと関係を育み、そして付き合い始めてから何年かを経て今に至っている。

 付き合い始めてすぐに彼女にはスマホを持って貰った。変なことに巻き込まれたりしたら堪らないと直に手渡し、それは互いのスマホと接続されていて会話や位置が互いにすぐに分かる。だから、先程の小鬼との会話も聞けたのだ。僕は2台持ちとなったが、普段使いのスマホは帰宅すると彼女が預かり、中を覗いてから綺麗に拭いてくれて充電してくれる。


「浮気したら食べるからね」


 そう釘を刺された。

 そんな気は毛頭ないが彼女は心配している。杞憂だよと伝えてもやはり心配らしい。人の思考より想い出たる彼女だからこそのサガなのだろう。


 今の世に生み出されるモノ達は優しさを失っているのかもしれない。末路は悲壮で災厄なものが多く、内容は警告よりはただ恐怖の類ばかりのような気さえする。


 和気藹々が少ないと小鬼が言っていた。あの使い方は間違っている気もするが…。皆が視線を上げて周りを見れば変わるかもしれない。和気藹々のところには瘴気は溜まらない、そして陽気が満ちるのだ。


「そうだ、サラダは何がいい?」


 隣で嬉しそうに聞いてくる彼女に先程までの瘴気はなく、朗らかで心地よい陽気が漂っている。裂けた口でさえも優しい微笑みを浮かべて実に可愛らしい。


「玉ねぎがあったよね、油物だし、玉ねぎのサラダがいいな、どうかな?」


「うん、帰ったらすぐに作るね」


「ありがとう。手伝うからね」


 握る手にも陽気が満ちる。手の感触も温かくて心地よい。


「ああ、なんだ、そう言うことか…」


「なにが?」


「いや、和気藹々の話」


「どう言うこと?」


「日常に感謝しながら生きていくことかなって…」


「難しく考えるのね。至極、簡単なことなのに…。貴方は私にしてくれているし、私も貴方にしているわよ?」


「え?」


「ふふ。ありがとう、ごめんなさい、これを心を込めて目の前で伝えるだけ」


「ああ、なるほどね…」


「どんなモノにも、想いを込めて、気持ちを込めて、相手の目の前で正直にきちんと伝える。それだけよ。どう簡単でしょ?」


 そう言った彼女は、恐怖から程遠い、幸せに満ち溢れる微笑みを浮かべていた。


 


 

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ことのは 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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