クラムチャウダーとミニトマト

森音藍斗

クラムチャウダーとミニトマト

 テーブルの上には、豪華な食事が並んでいた。鶏のローストに、クラムチャウダーは焦げもない綺麗な真っ白、バゲットにはオリーブオイルとガーリックのほかに彩りでパセリも振ってあって、いつも野菜を欲しがる私に合わせて、サラダまで用意してあった。貴方が嫌いなはずのミニトマトまで添えて、頑張ってくれたんだと一目見てすぐにわかった。すぐにレンジで温めやすいように、鶏のローストとクラムチャウダーには、丁寧にラップがしてあった。

 私の喜ぶ顔を想像しながら料理を作る貴方の姿が目に浮かぶようだった。


   **


 子どものころの記憶は、どうでもいいものほど残っていると周りの人たちは言うけれど、私の最も古い記憶は強烈なものだった。

 幼稚園児だったか、あるいは小学校低学年か定かではないが、クリスマスの日の朝だった。私はサンタクロースに、手袋を所望していた。仲の良い女の子がつけていた、ブラウンにアーガイル柄があしらわれた大人っぽいミトンの手袋が羨ましかったのだ。サンタさんはきっと間違わないだろうけれど、念のためと思って、イラストも添えた。どきどきしながらクリスマスの朝に開封したプレゼントの中身は、ピンク色にうさぎのアップリケが付いた、五本指の手袋だった。

 よかったねと声を掛ける両親に違うとは言えなくて、春が来るまでその手袋を使っていた。恥ずかしくてずっとコートのポケットに手を入れていたら叱られた。

 そのときから、人に期待するのはやめた。

 サンタですらわかってくれなかったのだから、他人に私の希望がテレパシーで伝わるわけがないのだ。希望は口にするしかない。口にして伝わらなかったら、私の伝え方が悪かったのだ。

 私の伝え方が悪いせいにしておけば、サンタを嫌いにならずに済んだ。サンタが親だと知ったのは、その数年後だった。結果的にこの戦略は、私を親への失望から守ることに成功したのだった。

 友だちに予定をドタキャンされたのは、彼女にとって魅力のある予定を用意できなかった私のせいだった。先生に理不尽に叱られたのは、それが理不尽であると先生を納得させられなかった私のせいだった。同僚に仕事を押し付けられたのは、押し付けられてもいい人間だと認識される振る舞いをした私のせいだった。三十過ぎで管理職に昇進したときは、頑張りが認められたのだと思ったけれど、ものの一か月で貧乏くじを引かされたのだと知った。仕事量を調整する権限もない名ばかり管理職で、部下に過剰な仕事を押し付けて嫌われるか、自分でサービス残業をして何とか間に合わせるかの二択またはその両方だった。けれどその役職に私があてられたのは、私が休みを取るのも仕事が終わっていないのに帰るのも苦手なせいだった。今夜、誕生日にまで残業をしたのは、ミスをここまで報告してくれなかった部下のせいではなく、部下の仕事をすべて把握していなかった私と、ミスの報告に対する心理的ハードルを下げておけなかった私のせいだった。ミスはできるだけ早く報告するようにと、彼が新人のころから何度も言っていたつもりだったけれど、ちゃんと彼がそうできるような言葉遣いを選べていなかった私のせいだった。だから尻拭いは私の仕事だった。部下を帰して、誕生日が終わってしまうような時間まで残業をすることに決めたのは私だった。家に帰っても独りで虚しいだけだからと、自分でそう選択したのだった。

 そんな生き方は疲れないかと問われたこともあるけれど、人を嫌いになってしまうより余っ程疲れない。もちろん、私だけが悪いわけではない場面もたくさんあることはわかっている。うちの部署に割り当てられた仕事が、所属する人数分を軽く超えていることだって、道で知らない男性にわざとぶつかられたことだって、悪いのは私ではない。けれど、人に期待して改善したことなどない。だからぜんぶ自分のせいにしておくのが楽だった。仕事が多すぎるのはそれを訴える力のない私のせいだし、男性にぶつかられたのは、私の運が悪いせいだった。これが私の拙い処世術だった。もっと楽に生きなよと言った人が、私の仕事を減らしてくれるわけでも、世の中のすべての当たり屋を撲滅してくれるわけでもなかった。


   **


 だから今、私の気が立っているのは、上っ面の謝罪でしれっと帰っていった部下が悪いわけでもなく、誕生日を一緒に過ごしてくれない恋人が悪いわけでもなかった。ただ疲れているだけだった。もしくは寒いからだった。もしくは、もうすぐ生理だからホルモンバランスが崩れているだけだった。

 彼が忙しい人なのは知っていた。夜勤が多いのも、自分の都合でシフトを動かすのが難しいのも知っていた。一緒に住んでいながら擦れ違いの生活が続いていたけれど、それをわかっていて彼を恋人にしたのは私だった。まさかこんなに会えないとは思っていなかったというのは、だから、ただの言い訳だった。私の想像力の欠如のせいだった。彼が私の誕生日ですら仕事に行ってしまったのは、私が、彼にどうしてもシフトをあけようと思うほど愛される、可愛い女の子であれなかったせいだった。

 いや、そこまで言ってしまっては彼に失礼だ。彼は私を愛してくれていた。彼が今夜仕事をあけられなかったのは、仕方のないことだった。私の誕生日が今日であるほうが悪かった。彼は事あるごとに私に愛を伝えてくれていたし、行動でもそれを示そうとしてくれていた。

 だから、彼が残してくれた豪華な食事を前に喜べなかったのは、やっぱり私が悪かった。

 今日、彼が夜勤になってしまったことは、一か月前には告げられていた。何度も謝られたし、心から申し訳ないと思っていることも伝わってきた。仕事なのだからどうしようもないこともわかっていた。ぜんぶちゃんと、理性ではわかっていた。心が追いついていないのは、だから、私が未熟なせいだった。仕事と私、どっちがだいじなのなんて、陳腐な台詞を吐くつもりもなかった。彼は何も悪くなかった。彼を責めることなどできるはずがなかった。

 だったら、私のせいにするしかないのだ。登場人物は私と彼の二人しかいない。選択肢は遺されていない。私は彼が用意してくれたこの御馳走を、笑顔で平らげるしかないのだ。嗚咽をこらえて潰した喉を無理やりにでもじ開けて、美味しく戴くしかないのだ。そして明日の朝、もしくは明日の夜、いや、もう日付が変わっているから今日か、わからないけれど次に会えたときに、ありがとう、大好きと貴方の頬にキスをするしかないのだ。

 嘘だ。彼だってそんなことは望んでいないはずだ。彼が私を愛してくれていることを、大切にしてくれていることを私は知っている。彼は私が喜んだ振りをすることを望んでいない――きっと。でも、だったら、どうすればいい。彼は私が喜んでくれると思って、一生懸命用意してくれたのだ。

 動けなかった。コートを着たまま、鞄を肩に掛けたまま、ダイニングテーブルの前で立ち尽くした自分の体を、どうしても動かすことができなかった。

 彼が忙しいのはわかっていたはずなのに、そしてそれがどうしようもないことも、わかっているはずなのに、どうしようもないことで、いつまでも何度でも不機嫌になる自分が本当に醜い。

 私はこんなに自分の機嫌を取るのが下手だっただろうか。彼と付き合うまでは、こんなじゃなかった。ちゃんとすべて自分のせいにできていたはずだ。人にわがままを言ったり、不機嫌の責任を押し付けたりはしないはずだった。忙しいのは何とかする、時間を作ると言ってくれた彼に、期待してしまった。何十年かぶりの期待だった。期待したのは私だった。貴方が頑張ってくれているのは知っていた。それを待てないのは私が悪かった。彼の言葉にうっかり期待してしまった私が悪かった。この一か月、何度も彼に八つ当たりをした。彼は何度も謝ってくれた。八つ当たりしたって何も解決しないことは知っていた。ただ気まずくなるだけだった。それをわかっていて抑えられなかった。私はこんなじゃなかったはずだ。もう少し賢かったはずだった。もう少しいい子であるはずだった。彼と付き合い始めたころは、たぶんそうだった。彼はもっと賢くてもっといい子な私を好きになってくれたのだ。もしかしたら今の私は嫌いかもしれない。怖くて聞けないからわからない。

 私はなぜ、めでたいはずの誕生日の夜に、自分の醜さにとことん向き合わなければいけないのだろうか。

 豪華な食事なんか求めていなかった。

 ただ彼に、居てほしかった。疲れたでしょう、と頭を撫でてほしいだけだった。

 それをもっとちゃんと、はっきりと、強く伝えられていたら、状況は違ったかもしれなかった。仕事のシフトにどれくらい融通が利かないのか、彼から話を聞いている以上のことは知らなかった。もしかしたらもう一押しできたのだろうか。できなかったのかもしれない。期待はしない。それより、日を改めて彼の休みに合わせて私が有休を取って、遊びに行けたら私は満足したかもしれない。ただ不機嫌になるんじゃなくて、現実的な解決の道を、私は冷静に考えられていただろうか。ただ彼にチクチク言って、それから黙り込むのではなくて、もっと賢くなれなかったのだろうか。私の有休はきっと申請すれば、取れた。休んだ分の仕事の根回しをして、部下に頭を下げて、上長にすべての仕事の進捗と今後の見込みを報告して、休み中に社用スマホを携帯していれば、恐らく取れないこともなかった。そこまでしなければいけないのだろうか。だって、私だっていっぱいいっぱいだったのだ。もう心に余裕がなかったのだ。時間を作ってくれると言ったのは、彼じゃなかっただろうか。違う、期待するのはやめたんだった。何度だって間違える。でもじゃあ、その言葉を信じて付き合うことに決めたときから、私は間違っていたのだろうか。私が選んだ私と彼の関係が、はじめから間違っていたのだろうか。やめたほうがいいのだろうか。もう疲れた。もうやめたい。終わらせたい。

 悲しいことに、残念なことに、そして最悪なことに、私は彼のことがまだ好きだった。

 テーブルの上にメモがあるのにようやく気がついた。

『夜勤のシフト、ちょっと待ってもらえたから終電ぎりぎりまで家にいたんだけど、残業みたいなので家を出ます。お疲れ様。お誕生日おめでとう』

 それは先に言ってほしかった。

 限界だった。

 その場で泣き崩れた。彼が用意してくれた食事に箸もつけずに、明日の仕事のために風呂に入ることすら考えずに、そのまま冷たいフローリングの床で、死んだように冷たくなりながら、泣いて、いつの間にか眠ってしまっていた。

 私はどうすればよかったのだろうか。

 結論も出ないまま、日が昇る。

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クラムチャウダーとミニトマト 森音藍斗 @shiori2B

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