時計を見ると8時過ぎだった。ゆっくりとベッドから起き上がり、一つ伸びをする。

 淡いピンクのカーテンを開けると、白っぽい光が部屋の中に満ちた。いい天気だなぁ、と思って、今日は授業もバイトもないはずだったけれど、出かけたくなった。

 でもその前に、朝食を食べて溜まっているレポートの続きを書いてしまおう。カーテンと同じ色のふわふわのスリッパに足を入れて、キッチンへと歩いた。

 

 つづりはもう学校へ行ってしまっている。両親も仕事へ行っているので、今はこの広い家に一人だ。寂しさを感じてテレビをつけた。どうでもいいニュースを聞き流しながら、朝食にパンを焼いてヨーグルトに蜂蜜をかけた。

 

「いただきます。」

 一人の時でも、私はいただきますと言う。行ってきますも行ってらっしゃいも言う。挨拶はきちんとするように、と私を育ててくれた両親は、立派な人たちだと思っている。最近また仕事が忙しくなってきたみたいで、家族で過ごす時間は以前より減ってはいるけれど。

 行ってきますも行ってらっしゃいも、誰かに向かって言える日々ががらにもなく恋しい。

 

 両親のことを考えたあと、いつも思い出されるのは弟のつづりのことだ。私より四歳年下の16歳で、今は高校に通っている。中学受験をして、電車で15分の距離にある中高一貫校に入学し、そのまま高校へと進学した。

 これだけ聞けば、揃って頭のいい姉と弟だと思われるのかもしれない。でも実際は、私たちには共通点はそれほど多くなかった。一つ目、両親に似て頭がいいこと、二つ目、両親に似て色素が薄く、茶髪であること。今パッと思いつくのはそれくらい。

 綴は運動が苦手だし、会話することも苦手で、私に対してもあまり目を合わせてくれない。黒く細いふちの眼鏡をかけて、微妙に目をらされる。

 中学の頃の親友は転校してしまったらしく、今は友達もいないようだし、彼女なんて聞くまでもない。そんな、言ってみれば勉強しか取り柄のないような弟のことを、うまくやっていけているのだろうかと心配する反面、私はどうして綴が自分の弟なのだろうと思うのだ。

 同じ両親から生まれてきたはずなのに、冴えない顔で全体的に暗い。以前は明るく笑っていた気もするのに最近は暗くなっていくばかりで、こうして私を真剣に悩ませている。

 もちろん弟としてかわいいが、他の人間には抱いてこなかった感情を自覚させるような、そんな綴が少し憎らしい(こんなことは誰にも言ったことはないけれども)。

 

 綴をなんとなく嫌う瞬間は他にもある。夕食のとき、私が何か質問をして、綴が何を言おうか考えている、いや違う、何か言いたいことがあるのにそれを言えず、でもそれについて言及しない私を責める、綴の表情でそれを理解する瞬間。

 「つぐみ」という名前は、私ではなく彼にこそ相応ふさわしいと、言いようもない羞恥と嫉妬の陰でもう一人の私が囁いている。その囁きを聞き取れるようになったのは、いつだっただろうか。もう思い出せない。

 

 鬱屈とした気分を振り払うように、リビングの椅子から立ち上がってヨーグルトが入っていた食器をパン皿の上に重ねた。テレビはまだ雑多なニュースを垂れ流している。

 コーヒーでも淹れてレポートの続きを終わらせよう。長くもない食器を洗う時間でそう決めて、濡れた手をタオルでぬぐった。

 

 とりあえず納得のいくところまで書き終えて、一つ大きく伸びをした。知らず固まっていた全身に心地良い。とっくに空になっていたコーヒーのマグカップを手に取って、キッチンへと向かう。時刻は13時前。

 持っていたピンクのカップを水につけたあとで、お腹が空いたので昼ごはんにしようと、冷蔵庫から昨日の残りのハンバーグを取り出した。レンジで軽く温めて、次に冷凍していた白ごはんも温める。最近お気に入りの鮭と海苔のふりかけをパラパラとかけて、汁物はないけどまあいっか、と簡単な昼食にした。

 ハンバーグはやっぱり美味しい。ソースの味はよくバランスが取れていて、そういえば綴も普段見ないような表情で褒めてくれたことを思い出した。適当にあった調味料を混ぜ合わせたので、分量を記録していなかったことが悔やまれる。テレビではありきたりなバラエティ番組で、見覚えのない芸人が喋っていた。

 

 使った食器を泡まみれのスポンジで洗って、天気もいいので出かけようと思った。

 今日発売の、好きな作家のシリーズものの最新刊でも買おう。濃い紫をバックに、白でタイトルが書かれた表紙を思い浮かべる。数年前から続いているシリーズで、次が6巻目になる。物語もクライマックスにさしかかり、続きが結構気になっていた。実は主人公が既に死んでしまっているのかもしれない、そんなところで昨年出た5巻は終わっていたんだっけ。

 大分前に読み終えたが、珍しく貸してほしいと綴に言われたので、返されないまま綴の部屋にあるかな。貸してから時間も経っているのに何も言われていないし、読まれることなく放置されているのかもしれない。せっかくなら探して持っていって、どこかの喫茶店で軽く内容のおさらいをしてから新刊を読もう。

 食器を洗いながらこれからの予定を色々考えていたら、滑ってカップを取り落としそうになって少し焦った。

 

 白いシャツの上に薄手のニットベスト、下はフレアスカートという無難な服に着替えて、あのシリーズの5巻を探しに綴の部屋の前に立った。私の部屋と同じ廊下で繋がっているが、あいだに両親の部屋などもあって隣というわけではない。

 廊下の少し奥まった場所にあって、普段意識して見るわけでもない扉を前に、私はちょっとだけ緊張していた。

 綴の部屋に入るのはいつぶりだろう。以前は綴と私は仲が良かったような覚えがあるが、思い出されるのは微妙にぎこちなくなった綴との会話、表情だけで、その記憶が正しいものなのかはわからない。

 表面上はうまく取りつくろえているはず。私の心配する気持ちも、きちんと届いているはず。……でも、綴にはあって私にはないもの、それが何かはわからないけどいつかはまざまざと見せつけられそうなもの、そんな何かが少しの隙間を生み出している。

 今だって、私の部屋についているのと同じ金の取っ手に手をかけただけで、ざわざわと音を立てる粒が皮膚の下でうごめいている。

 

 目線を自分の手から正面へと移して、「綴」と書かれたプレートを眺めた。薄緑の格子が絵の具で描かれた原稿用紙の上の一文字。木彫りのそれは表面が少しでこぼこしていて、それでいて最後の一画に至るまで丁寧に彫られていた。

 このプレートは、二人の部屋の扉が金のノブが付いているだけで味気ないからと、母が作ることを提案したんじゃなかったっけ。図工の授業で使った、彫刻刀のセットがあるでしょと言って。

 自分の名前を漢字で木の板に写して、ガリガリと彫っていく綴の横顔は、まさに真剣そのものでかわいかった。それと同時に、どこか嫌な嫉妬を感じていた。

 

 私のプレートには「Tsugumi」と書かれている。その時私が好きだった淡いピンクの雲の上に。

 つたなさはあったがなかなかいい出来だと自分を褒めた。毎日部屋に入る度に目にして、最初は嬉しかったもののだんだん見慣れて普通になって、一緒にもやも忘れていった。

 

 本当は本の表紙のデザインにしたかった。真っ赤で、分厚く重く、一刻も早く開きたくなるような、でも開いてはいけない気になるような、素敵な本にしたかったのに。

 薄緑の線を細い筆で引く綴を横目に、私はどうして赤と白の絵の具を混ぜていたんだろう。

 本当は、その本のタイトルを妄想していたはずなのに。

 本当は、原色のままの粘る絵の具を塗っていたはずなのに。

 本当は、本当は、本当は——

 

———私が「綴」だったはずなのに。

 

 ぐるぐると、今まで忘れていた靄が心を占拠した。悲しくて、涙が出そうで、でもそれを堪えて握っていた取っ手を下に向かって押した。

 

 取っ手が小さく音を立て、私は扉を開けた。私の部屋よりほんの少し広く、小さめの窓が一つだけの綴の部屋。昼間だけれど窓の遮光カーテンはきっちりと閉められていて、窓が大きくベランダのある私の部屋よりもかなり暗い。不気味さに飲み込まれそうになって、今いる扉の側の壁の明かりのスイッチを探した。

 パチリとスイッチを押してからすぐに照明は点いた。白色のLEDが部屋を隅々まで照らす。


 普通の、特筆すべき点もないような部屋だった。私の部屋は柔らかいピンクで家具が統一されているが、この部屋は濃い青だ。分厚い遮光カーテンは、一面群青色なのだと初めてわかった。

 部屋の中にあるものも、私の部屋とそう変わらない。天板の大きな勉強机、座り心地のいい椅子、天井に届く高さの本棚、薄めの掛布団が畳んで置かれたベッドなどなど。物はたくさんあるわけではないが、ちらりと脳裏をよぎったように、何もなく殺風景だったりとか、呪いの人形みたいなおぞましい物が置かれていたりとか、そんなことはなかった。ゴミ箱に数学の小テストが捨てられていたり(満点の赤いスタンプが押されていた)、ハンガーラックに地味な服が何着かかかっていたり、普通の部屋だった。

 なんだか拍子抜けしたような気分で、とりあえず安心して本来の目的を思い返した。そうだ、私はここにあの小説の5巻を探しにきたんだ。


 借りた本を置いておくなら、机の上か本棚の端だろうか。そう思って机の上を見てみる。

 普段使わない教科書や、母が買ってきたのだと思われる参考書なんかが並べられている。背表紙を確認した限りでは、5巻はここには無さそうだ。

 そこでふと、些細な違和感に気付いた。……綴は家でいつも勉強するような人間だとは思えない。教科ごとにまとめて並べられた参考書を見ても、どれも新品のように綺麗なままで、使われているようには見えない。なのに、この机は頻繁に使われているようだった。ちょっと高そうなシャープペンシルとか消しゴムとかが散乱していて、消しゴムのカスも残っている。宿題でもしていたのだろうか、それとも―――


 一度思考を切り替えて、本棚を探すことにした。黒い木製の本棚で、背も高く重厚感がある。それぞれ高さの違う段が合わせて6段あり、本棚の7割ほどが既に埋まっていた。

 教科書に載っているような有名な日本文学から、ミステリーだと思われる長編のシリーズ、見たことのない画集や写真集、果ては小難しそうな洋書まで、さまざまな本がそこに並んでいた。高さによって段は違うけれど、同じくらいの高さの本は無秩序に並べられている。いかにもな純文学の横に一昨年実写化された恋愛ドラマの原作なんかが並んでいて、奇妙な感じだ。

 目の前に立った時に容易たやすく手が届くくらいの高さの段に、探していた5巻はあった。その段にある他の本といえば、背の高い画集と分厚い短編集だけで、まだかなりスペースに余裕がある。

 5巻を手に取って確認する。私が貸した時の状態からなんら変わりのない、記憶のままの表紙だ。開いてパラパラとめくって見ても、ページの折れや汚れもない。安堵の息を吐いて、私はその5巻を近くの勉強机の上に置いた。


 もう一度、目の前の本棚に手をのばす。A4サイズのなんの変哲もない封筒が4つ、5巻があったのと同じ段の端っこに並んでいる。厚みが違う封筒を片手で全て引き出した。

 封筒の表面を見ると、1から4の数字がそれぞれに書かれているだけだった。一番薄い「1」と書かれた封筒だけを残し、他をまた机の上に置いた。

 中身を取り出してみると、全て原稿用紙だった。細く薄く、整った字が何千何万と並んでいる。ふと思い出してゴミ箱を覗くと、赤いスタンプが押された数学の小テスト以外にも、要らなくなったのだろうメモが数枚捨てられていた。その中の一枚、世界史の用語が並ぶメモ――いつか習ったような、うっすら覚えのある単語ばかりだった――を摘み上げ、その字を原稿用紙のものと比較する。曲げ方やとめはねはらいの癖、その他何もかもが似通っていた。十中八九、これらは全て同じ人間が書いたものだろう。そして、世界史のメモはゴミ箱に、原稿用紙は本棚にあったもので、ゴミ箱と本棚は共にこの部屋にある家具で、この部屋は―――綴の部屋だ。


 原稿用紙を持つ手が、細かく震える。全身の血液が全部心臓に集まってきていて、腕や脊椎のあたりが冷えていくのがわかる。久しぶりに感じた嫌な感覚の中で、でも確かにそこにあるのは不快感だけではなかった。――ただの紙切れがカサカサと虫が這うような音を立てるのは、眼鏡を外したように視界がぼやけるのは、バチバチと弾ける白い火花が見えるのは、そう、今私を覆い尽くす興奮によるのだ。

 

 6巻を買いに行こうとしていたことなんてとっくにどうでもよくなってしまった。机に置いた5巻と4封の封筒を抱え、世界史のメモをゴミ箱にもとあった通りに捨て、部屋の電気を消して廊下に出た。スカートがふわりと膨らんだのが視界の端に映った。扉を閉める間際に振り返った弟の部屋は、さっきよりも随分深い闇色をしていた。

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