プロローグ

 通学用の鞄の中から、手帳を取り出した。艶々のカバーがかけられた黒いそれの表紙を開く。月毎のカレンダーが載っているページ、今日の日付が書かれたマスに、先程まで使っていたHBのシャープペンシルで「4」と書き込んだ。0.3ミリの細い芯。

 くっきりと書かれた文字に満足して、前の月のページを確認する。「3」と書かれたマスがあるのはちょうど三週間前の場所だ。今日も、その日も、「2」の日も「1」の日も、カレンダーではFの文字の下に並んでいる。ほとんど予定など書かれていないその手帳を埋めていくのは、僕にとっては誇らしいことだった。

 

 手帳を閉じてまた鞄に丁寧にしまった。机の上に散らばった筆記用具を筆箱の中に片付け、書き終えたばかりの原稿用紙を隣の残りのものとまとめた。ざっと300枚を積み上げたタワーを眺める。どんな建物より圧巻のタワーだ。塵も積もれば山となる、そんな諺を思い出した。たいして好きではないけれど、よく思い出す諺だ。

 ともかく、4度目にして、僕は既にこれを見る瞬間を好きになっていた。払い落とした消しゴムのカスも机の端にまとめて、今向き合っている机と座っている椅子に意識を向ける。そのまま頭をゆっくりとおろし、左を向いて右頬を机の天板にぴったりとつけた。

 ここからは本棚に立ち並ぶ本の背表紙が数多見える。分厚い長編小説もあるし、ちょっとした写真集や何かの解説書、小難しそうな新書に、易しめの洋書なんかもあるみたいだ。いつも人がまばらで、巡らない空気を含んだこの図書室で、それらの本はいつも人を待っている。

 いつまでこの図書室に置かれているのかはわからない。僕が卒業するまでになくなってしまうかもしれないし、この先何十年もここに残り続けるのかもしれない。でもそんなことを知らずとも、誰かが興味を持って自身を手に取り、そしてその人の心を少しでも動かすこと、人生をちょっとだけ変えることを本は待っている。そんな気がした。

 手に取ってくれる人がそう多くはない本を哀れに思いもしたが、別に本を読むのは僕でなくていいのだ。そう、雪くんがいつか手に取ってくれる日を待ち望むことを許されているのだから。

 

 こんなことを考えられる時間は幸せだ。天板に残った雪くんの雰囲気を全て吸収して、ようやく僕は体を起こした。

 積み上がった原稿用紙に触れる。空調設備がたてるそこそこ嫌な音に、かさりという触感が混ざった。再び鞄を開けて取り出した無機質な茶封筒に、少しよれた紙を順番通りに入れていく。


——これは紙のむくろだ。一枚一枚、増えていく骸。全てが雪くんのものであって、全てが雪くんのものではなくて、全てが僕のものだ。これはもう一人分ではないのに、どれだけ重ねても一人分にはならない。今僕の手にある紙の骸は、まだ何も知らない僕に、愛しさと焦りと恍惚、それからちょっとの虚しさなんかを与えたのだった。

 

 

 

 しばらくそこにいたいとは思っていたが、右腕の銀の腕時計を見る限り、そうもいかないようだった。司書さんがいたのでぺこりと会釈をして図書室を出る。もう何度もここを訪れているので、顔を覚えられているはずだが、一度も話をしたことはない。

 図書室の扉を開閉する重い感触と、きいとなる小さな音もすっかりお馴染みのものだ。本も図書室も以前はあんなに嫌いだったのに、今では生活の一部にあるのが当たり前で、それをまあ良いかと思えるくらいには好きになっている。

 

 図書室の入り口の横にある掲示板には「図書委員のおすすめの本」という特集をした張り紙があって、それもちらりと目に入れて通り過ぎる。その中の一枚の内容は完璧に覚えてしまった。綱渡りをしていたって一言一句間違えずに暗唱できる自信がある。こんなことは本当にどうでもいいが、こんなどうでもいいことを考えられる時間も僕は好きだ。いつも通りの無機質な床の硬さを靴下と上靴越しに感じながら、僕は昇降口まで歩いた。

 

 

 

 今日僕の気分がいいのは、改めて確認するまでもなく、ごく当然のことだった。そして気分がいい日には、たいていいつも駅の近くの洒落たケーキ屋に寄ってケーキを買って帰っている。僕は甘いものを特別好んで食べるというわけではないし、買ったケーキを誰かにあげたりすることもない。

 でも気分がいい日には、ガラス越しに見える見慣れた売れ残りのケーキが、雪くんの髪にのっている光をまとって輝いているようだと、どうしてか思えるのだ。

 

 扉についた金色のバーを握り、ゆっくりと引く。しゃらりと品のいいベルの音が鳴って、ほんのりと温かく、甘い空気に包まれた。

 レジの前に立っていた店員がこちらを向き、笑顔で「いらっしゃいませ」と言う。ケーキが並ぶショーケースはいつものように煌びやかだ。しかし、営業時間の終わりも近づいてきた今、そこに看板商品はない。今日こそモンブランを買って帰りたいと思っていたのだが、やはり売り切れているようだった。仕方ないかと他のケーキの札に目を通す。よく知らないが美味しそうな苺のムースとチョコレートケーキを適当に頼んだ。

 

 ケースの向こう側にいた店員は一人だけで、その店員が「少々お待ちください」と言ってからケーキを取り出してくれる。他のケーキをなんとはなしに見ていたら、不意に彼女が話しかけてきた。

「お客様、よくいらっしゃってますよね。ケーキ、お好きなんですか?」

「……えっと、いや、別に。」

 幾度か顔を見たことがあるような気もする。わざわざ僕に話しかけてきたのは、僕と彼女以外フロアにいないからだろうか。詰まりながらもやっと返事をした。

「それなら、おつかいですか? 学生なのによくお見えになるので、少し気になってしまって。すみません。……合計で1020円になります。」

「ああ、おつかいというわけでもないんですが、たまに気分がいい日だとケーキを食べたくなるんです。」

 返事をしながら、僕は財布を開いた。一千円……と、十円玉は無かった。仕方なく五十円玉と一千円札を取り出して、黒いトレーの上に置く。

「1050円お預かりします。30円のお返しです。こちら、商品です。……ここのケーキ、美味しいですよね。またのお越しをお待ちしています。」

 

 雪くんと同じ黒い髪だ。僕を見て笑っている。このケーキ屋はケーキも美味しいし、多分また来るだろう。何と言って返せばいいのかわからなくて、僕は無言のまま頷いてケーキ屋を出た。しゃらりと、ベルの音が鳴った。

 

 

 

 気分がいい時の僕がよくすることといえば、ケーキ屋に寄って適当に選んだケーキを買うこと、そして、白いボール紙でできたケーキの箱を手に、無駄にステップを踏みながら歩くことなんかだった。

 電車に乗っている間は普通だ。上機嫌なのを隠しもしないでいると、おかしな目で見られるのだということには最近気がついた。だから電車の中ではいつも通り、「別にいいことも起きていないしこれからも起きる予定はないですよ」という顔をしている。

 けれども、特に気分がいい日には、人通りの少ない道に来ると、上機嫌なのを隠すことができなくなってしまう。今日のように。

 それから、せっかく買ったケーキを崩してしまった恐れがあるということに、家の扉を開けた瞬間に気づき、玄関で箱の蓋を開ける。今日のように。

 ここまではいつもの流れだ。日によって変わるのはここから。そう、ケーキが崩れているか否かだ。べしゃべしゃになって箱の側面にクリームがはりついている日もあれば、飾りのチョコレートがぱりんと割れてしまっている日もある。

 いそいそと確認したところ、今日はケーキがショーケースに並んでいるままの姿を保っている日だったようだ。ラッキー! 

 

 ケーキの無事を確認したので、冷蔵庫にしまっておく。とりあえずお風呂に入ろうかと思って部屋に鞄を置き、着替えを持ってお風呂場に向かうと、ちょうど姉さんがドライヤーを終えたところだったようだ。

「おかえり。お風呂入る?」

 一つ頷く。僕の顔を見て今日は気分がいいことを察したらしい姉さんは、小さく笑ってキッチンの方へと歩いていった。

「ご飯の準備、あと三十分くらいかかるから、ゆっくり入っておいで。」

 姉さんには見えていないことを知りながらも、僕はまた頷いて洗面所の扉を閉めた。

 

 

 

「今日、学校はどうだった?」

 二人だけの夕食の席で、姉さんは僕にそう聞いてくる。一緒に食べている時はいつもだ。

「……別に、普通だよ。」

 今日は記念すべき一日だったのだが、姉さんは僕の気分がいい理由を知らない——というか僕以外誰も知らないはずだ——ので、いつも通り答える。姉さんはいつもこの質問をしている気がするが、姉さんなりに僕を心配してくれているのだろう。

「そっか。……今日のハンバーグ、どう? 結構美味しくできたと思うんだけど。」

 姉さんが評する通り、甘めのソースがかかったハンバーグは絶品だった。作れる日は僕も夕食を作るが、姉さんの料理の方が圧倒的に美味しいので毎日でも食べたいと思っている。そのことを伝えると、姉さんはちょっと照れて微笑んだ。

 きれいな笑顔に、あのケーキ屋の店員の顔がちらりと脳裏をよぎった。

 

 僕の姉であることが信じられないくらい、姉さんはよくできた人だ。僕より四歳年上の二十歳で、今は大学に通っている。勉強も運動も良くできて、誰に対しても明るく優しく振る舞い、色素の薄い髪がよく似合う美人で、本当に非の打ち所がない。たくさんの人間に好かれ、友達もいない僕にも同じように優しい。僕は姉さんを一人の人間として特別に尊敬している。

 

 そんな姉さんは、僕のことをやはり心配しているようだった。中学の時は友達が一人だけいたが、その親友も高校に上がる時に転校してしまった。中学から高校へとエスカレーターで進学した僕には、以来新しい友達は一人もできず、部活にも入っていないままだ。

 姉さんが僕を気にかける理由も気持ちもよくわかるが、こればかりは僕もどうしようもできず、姉さんに対する申し訳なさがとぐろを巻く。

 僕は興味のない人間とは関わりたくないし、新しい環境に身を置くことはストレスにしかならない。そういうわけで、夕食では居心地の悪さを毎度味わっているが、姉さんのハンバーグは美味しかった。

 

 

 

 鞄からあの茶封筒を取り出した。中身が折れたりしていないことを確認し、本棚に並べられた他の茶封筒の隣に加える。

 今そこにある茶封筒は四つ。僕が新たな命を紡ぐたびに増えていく。このままずっと、茶封筒が増え続ければいいと思った。

 僕は変わっていくだろう。それでも、雪くんを見た時の高揚だとか、言葉にできない感情を、ずっと覚えていたいと思った。

 雪くんは変わるだろうか。あの美しさが、色褪せるときがいつか訪れるだろうか。雪くんはいつまでも変わらずにいてほしい。でも、雪くんが変わっていく姿を僕の目に焼き付けなければならない。そして、僕はそれを胸に雪くんの別の命を紡いでいかなければならない。僕が雪くんに出会うことができたのは、何者かがその役割を僕に持たせたからだ。他の誰でもない僕に与えられた使命を、死ぬまで全うしよう。でなければ生きていけないのだ。

 そればかりが、僕の心を支配した。

 

 夕食のあとに食べたチョコレートケーキは、濃厚で、甘すぎず、かなり美味しかった。今まで食べたあのケーキ屋のケーキの中で一番好きだ。苺の方は明日のおやつにでもしよう。

 僕は歯磨きを済ませ、ベッドに入って、もうすぐ眠りにつこうとしている。あと5分で日付が変わる。

 

 今日書き上げたのは僕の4作目だ。なかなか満足のいく出来だった。幼いままに治らない病気にかかった雪くんが、ゆっくりと死んでいく話。窓の外の雪を眺めながら眠りにつく雪くんは、どんなにきれいだろうか。真っ白な髪も、透き通るような肌の雪くんにはよく似合うだろう。

 1作目を書いた時よりは随分と成長したような気がする。前のものと比べて、茶封筒はいくらか厚みを増していた。ストーリーはその分長いものになったし、僕の好みのテーマをより丁寧に描くことができたように思う。

 死ぬ間際、ベッドの上に座る雪くんが頭に浮かんでくる。次はどんな話にしようか。いじめに耐えかねて雪くんが自殺する話、いや、悪魔と契約を交わして願いを叶えた代償に命を落とす話もいいな。明日の雪くんはどんな様子だろう。それを見て決めるのもいいかもしれない。

 特別なただ一人の人について思いを馳せながら、僕は今日も幸せな眠りについた。

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