紙骸

変高下

4作目

「雪、」

 そう静かに自分を呼ぶ母の声が懐かしい。窓の外は雪、雪、雪。自分の名前と同じ。自分がこんなに冷たいものの名前で呼ばれていたなんて、ここに来る前は気付かなかった。

 

 もう最近はずっと、ただ雪が降るのを眺めているだけだった。白くて、小さくて、酷薄な雪は、この窓から見える世界を染めている。

 天を擦るビルも、足跡あしあとを残すことを許されなくなった歩道橋も、しばらく駐車場に停められたままの自動車も、とにかくこの世界にある何もかもを、奪おうとしているのだ。別に残念だと思うわけでもない。自分の心も同じ奪われようとしている。それに気付いていて、それでいて自分は何もできない。

 そして、完璧に同じではない。この世界を奪おうとしたって、雪は全てを真っ白にすることはできないはずだ。一面を覆う窓ガラスとか、誰かの汚れた靴とか、夕食を食べに出かける家族とか、雪に世界が奪われることを許さないものはたくさんあるから。

 でも自分の心はどうだろうか。これから先、誰かがあしあとを残すことなんてないだろう。純白の雪に食い尽くされて、自分はどうもせず、どうすることもできずに、新しく降り積もる雪の一欠片を待つのだ。

 

 窓の外ばかりに目を向けているのはよくない、といつか言われたのを思い出して、顔を正面に戻す。殺風景だった。ここにも真っ白なベッドがある。

 白い布団の上にそっと置いた手は、いつ見ても青白かった。今だってそうだ。この手にできたのは分厚い長編小説のページをめくることくらいだったが、近頃は本当に何の役にも立たなかった。

 小説とか、鏡とか、靴とか、自分が元に戻るために、あるいは元に戻った騙すために、必要なものは捨ててしまった。足りない時間を前借りしようとしていた自分が、馬鹿で、いじらしく、そして愛しく思えてしまう。

 一人でここに留まって思考することしかできずに、そろそろ自分に飽きた。とりとめもないことを考えながらも、ひっきりなしに死神の足音が響いているのが鬱陶しい。自分の首に大きな鎌のがかかる日を怯えることにも飽きた。

 最後くらい、何か自分を喜ばせてもたいした罰は増えないだろうと思ったのに、自分が好きな食べ物は何だったのかとか、自分が好きな曲が何だったのかとか、思い出せない。はじめからそんなものは無いのかもしれない。様々な色をした思考や感情の下敷きになって、もう取り出すこともできなくなったのかもしれない。

 

 ずいぶん長い間自分には起こらなかったことなのに、目から涙がこぼれ落ちているのがはっきりとわかった。頬が生温かさに触れた感じがして、自分がいまだに血の通う人間だというのが不思議だと思った。自分は半ば凍ってしまっていて、もうあとは窓の外の雪みたいに散り散りになって落ちて、誰かから温度を感情を奪っていくだけだと、そう信じたのかもしれない。母から名前を呼ばれるたびに、自分という人間に冷たさを刷り込んでいった、ここでの時間の中で。黒く艶やかだった髪を白磁に変えた、ここでの苦しみとともに。

 

 ゆっくりとまばたきをする自分を見て、誰かが「きれいだ」と言う、その声を最後に聞いた。

 

 

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