実は

 菅野さんの様子がおかしい。


「あ、あの……」

「……」


 歯を磨いて、ボクはベッドの下で正座をしている。

 目の前には、膝を抱えた菅野さんが目を瞑って、ジッとしていた。

 どうにも、菅野さんの様子がおかしいのだ。


 石のように硬くなって、身動き一つしない。

 いや、そこまで嫌がられると、本当にショックなんだけど。


 ボクの事が嫌いなのは知っているけど、菅野さんの表情を見ていると、「他にも理由があるのか?」と勘ぐってしまう。


 正面を睨み、ジッと固まっている。


「どうしたんですか?」

「何でもない。……するぞ」


 なぜか、菅野さんが深呼吸をして、正座をした。

 歯を磨いていた間に何を決心したのか。

 菅野さんは、表情を引き締めて、前のめりになった。


「あー、最悪」

「……あまり言わないでくださいよ」

「うっせ!」


 嫌がる顔が、段々と近づいてくる。


「……う……ん……んん」


 言わずとも、ボクはファーストキスである。

 初めてのキスをして、何か感動があるかと言われたら、そうでもない。


 意外と、初めてとはアッサリ散ってしまうんだな、というのが正直。


「ん……ふ……」


 上唇に菅野さんの鼻息が直に当たっていた。

 嫌がってはいるが、本人の感情なんて関係なく、菅野さんの唇はとても柔らかかった。


 桃色の光沢を帯びた唇が、ボクの唇に重なった途端に軽く変形する。

 ただ、くっつけているだけで、こんなに心地良いだなんて思わなかった。


 菅野さんの目を閉じた顔が、すぐ目の前にある。

 ほんの微かに唇が動くだけで、口の隙間からは吐息が漏れた。


 ボクは思う。

 密室ありがとう。

 初めは、あんまりだと嘆いたが、してみると気持ちが一変する。


「……っ」


 ゆっくりと離れる菅野さんから目を離せなかった。


「じ、実は、ボク。初めてで……」

「アタシもだよ。バカ野郎」

「……へ?」


 菅野さんが顔を背け、口元を袖で擦った。

 普段とは違って、しおらしくなった菅野さん。

 何だか、別人を見ている気がした。


 ガチャ。


 鍵の外れる音が聞こえると、すぐに菅野さんは立ち上がる。


「……覚えてろよ」

「はい!」

「いや、やっぱ、なし! 忘れろ!」


 怒りながら去っていく菅野さんの背中を見て、残されたボクは呆然とした。唇の感触を初めて味わい、一気に脱力するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る