第5話
うちに帰ると、買物にでも出ているのか、母様はいなくて、家はがらんとしていた。
僕は殴られたことよりも、和から逃げてしまったことが苦しくて、仏間に行って大声で泣いた。
殴られた頬も、胸も痛くて、僕は最低な気持ちだった。
しばらくして、僕は思い立った。
そして立ち上がり、隣町まで走った。
――父ちゃんとお兄にも黙っておいてね
サツキはそう言っていた。
でも、あの乱暴ものの和なら、何をしてもおかしくない。
どうしても僕はサツキが和の目の前で裸になることなんて我慢できなかったので、もうサツキに嫌われてもいいと思いながら、とにかく助けを呼ぶことにした。
学校の近くを通るのがいやで遠回りし、しばらく走って神社にたどり着く。
ありがたいことに、ポン菓子の機械は遠くからでもそれなりによく目立つから、僕はとにかく一直線に走った。
今日が夜店の最終日で、これが終わればその足でみんな違う土地へ行ってしまう。
それならこの町にいる間に嫌な思いをさせて、もう二度とここに来てくれないかもしれない。
僕はどういうわけか夜店よりも、もうサツキと会えなくなるかもしれないことが我慢できないと思った。
ポン菓子の店の目の前では、親父さんとお兄さんが座って煙草を呑んでいた。
「あの……」
僕が声をかけると、お兄さんの方が先に気付いてくれた。
「ああ、昨日の……サツキならまだ帰らないけど、君は学校、どうしたの?」
「あの、お兄さん、今から学校へ来てくれませんか」
「……どういうこと? サツキがどうかしたのかい?」
お兄さんは急に真面目な顔をして言った。
「あの……サツキさんには黙っておいて欲しいんです」
「それって、どういうこと? わからないな、ちゃんと話して」
お兄さんは真剣な顔で訊いてきた。
「あの、僕の組の男子の中に、サツキさんに悪戯をしようって言ってる奴がいるんです」
「悪戯……またか」
お兄さんは顔色を変えた。
「だから、昨日それをサツキさんに言ったんです。でも、サツキさんは大丈夫だと言って……でも、クラスの和って奴が、とても乱暴なんです」
「その頬も、その和って子にやられた?」
僕ははっとして自分の頬に手をやった。
触ると急に痛んで、でもそんなことは気にならなかった。
「だから、どうかサツキさんを迎えに行ってあげて下さい。助けてあげて欲しいんです」
僕はそう言って頭を下げた。
「うん。ありがとう、そうするよ。どうもありがとう」
「あの、それから……」
「なに?」
「僕がここに来たことを、サツキさんには黙っておいて欲しいんです。その、お父さんとお兄さんには黙っておいてくれと、頼まれているんです。約束だから……」
「でも、それだと君が助けてくれたことを、サツキはわからないじゃないか」
「いいんです。だって、僕」
だって、僕だって、本当は和たちと同じなんだ。
考えるまいとしても、何度でもサツキの裸ばかり想像してしまう。
僕は、ただ僕以外の奴がサツキに悪戯することが許せなくて、そんな卑怯な心をもっているんだから。
「僕が助けるんじゃありません。お兄さんが助けて欲しいんです。僕は弱虫だから、和に勝てないもの」
僕がそう言うと、お兄さんは立ち上がった。
「わかった。どうもありがとう。君の言う通りにしよう」
僕は、それから学校に戻った。
ずいぶんこっぴどく叱られたけれど、全然平気だった。
むしろ、あのまま何もせずにいるよりはずっといいと思って、少しだけ嬉しかった。
僕はとても悪い人間かもしれないけれど、少なくともサツキは傷つかずに済んだんだから、それでいい。
ずいぶん長く学校を抜け出していたものだから、教室に戻るとすぐに六時限目が終わった。
先生が教室から出てゆくと、すぐに例の悪友達が立ち上がって、サツキの方に向かうが、
「サツキ!」
と言う声で、すぐに足が固まった。
お兄さんだった。
サツキはあわててお兄さんのところまで走り、そして言った。
「お兄、どうかしたん?」
「いや、せっかく屋台と近所なんやし、迎えに行くのもいいかなと思っただけや」
するとサツキは、ばっと勢いよく僕の方を向いた。
僕はとっさに目をそらし、何食わぬ顔で荷物を肩にして、教室を出た。
「誠一君!」
サツキが僕のところまで走ってきた。
「なに、サツキさん」
「……嘘つき。約束を破ったね」
「そんなもんか! 僕は何もしてないよ!」
サツキはじっと僕の目を睨んだ。
そして、しばらくしてくるりと背を向けた。
「今日、神社まで来れる? どうしても渡したいもんがあるねん」
「えっ、わからないけど、出来たら行くよ」
「嘘つきには、罰が必要やろ。違う?」
そう言って、お兄さんのところまで走り去った。
僕は他の者たちに詮索されるのが嫌で、すぐに走って家まで帰った。
夜。
父様は、昨日の試合がよほど悔しかったらしく、珍しく母様も連れて夜店に行くと決めてくれた。
どうやら、誰が優勝者なのか見届けたいらしい。
「この俺を破ったのだから、源の字が優勝に違いない」
そう言って、要するに父様は源五郎さんの応援をしたいのだ。
普段こういったときに母様は留守番なのだけれど、たまのお出かけで、母様は嬉しそうだった。
すこし上等の浴衣を着て、家族皆で夜店に行くこととなった。
夜店は、三日目ともなるとあまりにぎやかではなく、もう店じまいの屋台もぽつりぽつりとあった。
僕は父様と母様にお願いして、しばらく好きにさせてもらうことにした。
走ってポン菓子屋まで行くと、そこにはいつもの作業着ではなく、浴衣を着たサツキが呼び込みしていた。
「さあ、いらはいいらはい。ポン菓子はいかが! ふっくら膨らんだポン菓子はいかが!」
いつものかすれ声。
そして僕の姿を見つけると、むっと眉間に皺を寄せた。
どうやらずいぶん腹を立てているらしかった。
「いらはいいらはい。ポン菓子はいかが! ふっくら膨らんだポン菓子はいかが!」
そう言いながら、サツキは僕の目の前にやってきた。
どうやらポン菓子を買えと言ってるらしいので、僕は無言で小銭を出した。
「はい、どうぞ」
サツキが紙袋を渡してくれる。
ずいぶん沢山入っていた。
「今日は? 一人? お友達と?」
「ううん、父様と、母様も来ているんだ」
「ふうん。あのねえ、あたしもうすぐ交代なんだけど、ちょっと付き合ってくれるよね? 嘘つき誠一君」
「……仕方ないね」
「じゃあちょっと待っておいて」
そしてサツキはまた店に戻る。
「さあさ、いらはいいらはい。ポン菓子はいかが! ふっくら膨らんだポン菓子はいかが!」
言いながら、裏手に回る。
お兄さんが顔を出して、僕を見つけると「にっ」と笑った。
僕はサツキを助けてくれたことに感謝して頭を下げる。
サツキは、裏に回ると、ちょいちょいと手で僕を呼んだ。
「なんだよ」
僕は仕方なくそれに従う。
屋台の裏を見るのは初めてだった。
思ったよりも暗くて、そして荷物が沢山置いてあって、機械の音がうるさかった。
「お兄! ちょっと店おねがい!」
「ああ、今日はもうええから、ゆっくりして来い!」
兄妹がそんなふうに大声でやり取りするのを聞いて、ああこの二人の住む世界は僕とは違うんだなと思って少し寂しかった。
「誠一君、こっちこっち。ちょっと暗いけど」
「なんなのさ、一体」
「いいから」
そう言って、サツキはどんどん先へ進む。
しばらく行くと、そこには車や馬車が沢山並んでいた。
「ここが、あたしのうち。と言っても、毎日場所は変わるんだけど」
そういったサツキの顔は無表情だった。
「明日になれば、全然違う場所に行って、また違う人たちと出会う」
「うん、行商なんだものね」
「……誠一君みたいに、ひとところに住んでいる人たちとは、ぜんぜん違うんだ。だって、今日友達になっても、明日になればもう会えないんだもの」
「でも、あんなに沢山の知り合いがいるじゃない」
僕は夜店の人たちのことを思い出して言った。
「あれは家族だもの。でもね、悪いことばかりじゃないよ。だって、誠一君とも友達になれたし、それに、初めて『男の子』に助けてもらっちゃった」
「……ごめん」
「ううん、謝らないでいいんだ。あのね、あたし男の子って嫌いなんだ。あたしがテキ屋の娘だって聞くと、すぐに着物の裾をまくってみたり、身体に触ろうとしたりするんだもの」
僕はその言葉を聞いて恥ずかしくなる。
僕だって同じだ。
昨日は静まっていたけれど、今僕はサツキを目の前にして、とても気分が変だった。
考えまいとしても、サツキのことばかり考えてしまう。
明日になれば、もう会えないとわかっているから、僕は必死でそれを隠していた。
サツキだけにではなく、僕自身に対しても。
でも、この前はサツキの裸ことばかり気になっていたのに、今はどういうわけかあまりそんな風には思わなかった。
「ね、誠一君、あたし誠一君に腹を立ててるんだ」
「……ごめん、その、約束……」
「違うよ」
「え?」
「あたしね、誠一君のこと、好きになっちゃったんだ。だから」
サツキは僕の方を振り返って言った。
「いつも人と別れるのは辛いけど、こんなに辛いのは初めてだよ。誠一君」
僕はどきりとして、でもどうしていいかわからなかった。
サツキは僕なんかよりもずっと大人に見えて、そして寂しそうに笑っていた。
「あのね誠一君。あたし誠一君に口付けしてもいいかな」
「えっ」
僕が驚いて聞き返すと、サツキは恥ずかしそうに僕の顔を見つめていた。
「あたし、まだ口付けってした事がないんだ。だから、最後に、ね」
「う、うん……」
僕は恥ずかしくて、でも嬉しくてどぎまぎしてしまう。
「いい?」
「……うん」
僕が返事すると、サツキはゆっくりと足元を確かめるように近づいてきて、僕の頭に手を回した。
僕は自然に目を閉じる。
すると、唇に柔らかいものが当たり、吸われる感触があって、ああ、僕はいま接吻しているんだなと思って、とても興奮した。
ちゅ、ちゅ、と音がして、サツキはずっと僕に口付けし続けた。
かすかに唇が震えているように思ったが、もしかすると震えているのは僕なのかもしれなかった。
胸がドキドキ言って、僕の唇を吸うサツキの感触で、僕の頭はもう一杯になってしまう。
柔らかくて、暖かくて、砂糖の味がした。
サツキがずっと僕の唇を吸うものだから、僕はだんだんおかしな気持ちになってきて、舌を入れてみたらどうだろうかと、そんなことを考えた。
そう思ったとたんに、サツキの舌が僕の唇に当たり、さらに歯に触れる。
慌てて歯を少し開けると、隙間からざらりとした感触の柔らかい舌が滑り込んできて、僕の舌に触れた。
僕はしびれるような気持ちで、それを夢中で吸った。
お互い口がを動かすと、舌や唇が当たるたびにくすぐったくてとても気持ちがよかった。
サツキはいつまでも僕の唇を吸いつづけていたが、そのうちにもぐもぐと口を動かし、僕の口の中をしばらくの間舐めて、ちゅ、と音を立てて離れた。
「はぁ、気持ちよかった……」
サツキがぽうとなった顔でそう言った。
僕はもう頭の中が真っ白で、でも、少なくともとても嬉くてとても悲しかった。
「ありがとう。ずっとあこがれてたんだ。初めて口づけするときってどんな気持ちなのかなって」
「その……僕も嬉しかったんだ。でも、その、舌は……」
僕が照れてそう言うと、サツキは照れたように笑った。
「だって、いつも大人たちがみんな、口付けするときにはそうするもんなんだって教えてくれるんだもの。――嫌だった?」
「ううん、とっても気持ちよかった。それに、サツキちゃんの口の中、なんだか砂糖の味がした」
「ポン菓子、食べてるからね」
「うん、ポン菓子の味だった」
サツキはまた照れたように笑う。
――――どんっ!
遠くから、花火みたいなポン菓子の音がして、僕達は笑った。
「ありがとう、誠一君。初めての口づけなのに、これっきりでごめんね」
「ううん、僕も初めてだったけど、きっと一生忘れない」
僕が言うと、サツキは明るく笑った。
「じゃあ、これでお別れ。じゃあね、誠一君」
僕が答える間もなく、サツキは走り出した。
僕は一瞬追ってみようかと思ったが、それは止めておいた。
何故って、サツキはきっとそれを喜ばないから。
後には、サツキに吸われていた唇の感触と、寂しさとあっけなさだけが残った。
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