花嫁の獅子
水越ユタカ
エリザベス・ケアード・ロナ=ディアート〈前〉
小国ロナ=ディアート。
雪につつまれた山のずっと奥に、その国はある。
この国で王座に就くために必要なのは、血筋でも資質でもない。
ただ一つ、瞳が青いことだけが、王に求められる証であり、神に愛された徴である。
湖のほとりに立つ王城は、戴冠式の準備で人々が慌ただしく駆け回っていた。神の寵愛者たる王はつい最近流行り病に命を落としたばかりで、唯一の継承者であるエリザベス・ケアード・ロナ=ディアートの瞳の色は、無論、青い。
エリザベスは、執務室の窓から外をぼんやりと見つめていた。城下では感冒が流行している。朝からずいぶん冷え込んでいるが、降雪はない。こういう日がしばらく続くと流行りやすいのだと聞いたことがある。先王もそれで亡くなった。城下に限らず、各地で国民がこの感冒で命を落としている。
知らせは突然届いた。
先王の息子、クライヴ王子が雪崩で亡くなったということだった。クライヴとは、生まれたときから婚約していた。役職付きでもなんでもない騎士のもとに生まれた赤子を、彼らからむりやり取り上げて貴族の養子にして貴族の名前をつけ自分の息子を配偶とするのを決めたのは先王だった。それがどういう意味をもつのか、男女のなんたるかを理解するその前から、彼がいない日常は一日としてなかった。
(―― リズ)
六つ歳上で、エリザベスをいつまでも幼い時の名で呼んだ。二十二歳だった。若すぎる。
(リズ、おいで)
あの糞みたいな王から解放されてようやくふたりで幸せになれると思った。ばちがあたった。だって愛していた。
「リズ」
ふいに横から鋭い声で呼ばれて、エリザベスは我に返った。
「…… 大丈夫か? 部屋の外から何度も呼んだんだぞ」
「あ…… ごめんなさい、帰ってたの、レニ」
慌てて取り繕うと、レニ王子は心配そうに眉根を寄せた。
「馬車の音がしなかったから、気がつかなかった」
「朝早くに馬で行ったんだ。そっちの方が早いから」
レニはクライヴ王子の弟で、エリザベスと同い年だ。
「…… 少し休んだ方がいい。この頃寝てないんだろう」
「私だけじゃなくて、みんな寝てないわ。政務が滞ってる」
「それにしたって、少しは寝て体調を整えた方がいい。国葬が済んだら、すぐに戴冠式と――」
そこでレニは口をつぐんだ。ややあって、彼は再び口を開く。
「…… 兄にできたことは、これからは全部俺がやる。君が嫌だと思うこと以外は、全部俺に任せてくれ」
彼は再び黙ってしまった。エリザベスはにこりと微笑んでみせる。
「嫌なことなんてないわ。あなたが王配になってくれたら私も嬉しい」
エリザベスの言葉に、レニはわかった、とだけ口にした。
レニは執務室から出ると、深々とため息を吐いた。
エリザベスと兄クライヴは、弟である自分から見ても似合いだった。ただ、先代の息子である兄にとって、貴族でもなんでもないところから誕生したエリザベスの存在は少なからず苦しみの種ではあったようで。その生まれを言い訳に先代から理不尽な仕打ちを受けてきたエリザベスと兄は、お互いの心に開けられてしまった穴を埋め合うような特別な関係だったのだと思う。
ささいな喧嘩も、喜びも、すべては舞台の上で起きていて、自分は外からそれを見るだけだった。そこに不満はなかった。愛するエリザベスと、愛する兄に生涯を捧げる。こんなに幸福なことはないだろうと思っていた。それなのに。
(―― 君が嫌だと思うこと以外は、全部俺に任せてくれ)
そんな言葉が口を突いて出た。
みっともない。
むなしい。
惨めだ。
苦しい。
社交辞令で返されてしまった。当然だ。ほかに適任者がいない。小さな国だ。
レニは懐のポケットに手を入れた。木彫りの獅子だ。全体的にいびつで、けして上手くはない。クライヴの荷物に入っていた。底の方にはこれまたいびつな文字で「大好きなリズへ」と彫られている。これを最初に見た時、打ちのめされたような気持ちになった。そしてなんとなく理解する。せざるを得ない。
兄が、ただ普通に、エリザベスという人間を好きだっただろうということが。人が人を愛するのと同じように、エリザベスを愛していたということが。
レニは獅子を握りしめる。
―― 継承者だぞ。
神の寵愛を受けてるんだぞ。そんな相手に愛されて、「大好きなリズへ」?
「―― エリザベス様、どうかもう!」「お許しください!」
周囲の騒ぎ立てるような声に、レニは我に返った。中庭の方から聞こえる。ただごとではない。急いで中庭へ足を向けると、使用人が遠巻きになって騒ぎの中心を見ている。
「なにがあった?」
使用人の一人に声をかけると、彼女は自分の姿に一瞬ぎょっとしたようではあったがすぐに現状を自身がわかる範囲で説明してきた。
「それが、あの者がエリザベス様の不興を買ったようで……」
説明を受けながら騒ぎの中心へ行くと、エリザベスが剣のようなものを振り上げるのが見えた。レニはとっさにエリザベスの腕を押さえた。
「リズ! 落ち着け!」
剣は儀礼剣だった。すぐ近くの壁にかかっているのを持ってきたんだろう。しかし重さはそれなりにあって、エリザベスの手のひらは真っ赤になっていた。ひとまず本物じゃなかったことにほっとしつつ強引に腕を引いて下がらせようとすると、エリザベスは潤んだ目で、しかし怒りをはっきりと残したままレニを見上げてきた。
「だってこいつ、あなたを馬鹿にした! 涙をひとつも流さないのは内心喜んでるからだって、王配の座が思いもよらず手に入って万々歳だって!」
「…………」
まさか継承者の耳に入るとは思わなかったのだろう。使用人の女性は儀礼剣で打たれた腕を押さえてうずくまったまま怯えたように謝罪の言葉を繰り返している。レニは背後を振り返るとそばでエリザベスをとりなしていた様子の侍女と騎士を認めた。二人とも昔からエリザベスについている者だ。
「エリザベス様はお疲れだ。お部屋に連れて行って差し上げてくれ」
侍女と騎士はそれぞれ頷くとすぐにエリザベスの横についた。侍女の方にエリザベスの手を冷やしてやるように命じると、うずくまっている使用人の方へ向き直る。
「…… そなたのことは追って処遇を伝える。部屋に戻って沙汰を待て」
(―― 私は癇癪持ちのエリザベス・ケアード・ロナ=ディアートです、と書け。二千回だ)
癇癪持ちの子どもだった。十になる前には収まった。癇癪を起こすたび、先代に書き取りをさせられた。
(綴りが違う。もう一度)
何度も。
(もう一度)
何度も。
(違う)
―― 何度も。
扉をとんとんと叩く音が聞こえてエリザベスは下ろしていた瞼を開いた。
「起こしたか」
「ううん、起きてた」
レニは寝台に近づきながら懐へ手を入れた。出てきたのは木彫りの人形だ。
「兄の荷物に入ってた。君の名前が彫ってある」
不格好だが、獅子を模しているとわかる。底面には「大好きなリズへ」とある。以前に一度、騎士の式典用の鎧に模された獅子を見て格好いいと言った。先代に聞かれたら怒られるかもしれないから、こっそりとクライヴにだけ教えた。
「さっきの使用人は別の貴族の屋敷へ行くことになった。心配しなくていい」
怪我をしていたことを加味しても王子に不敬を働いたことへの処分としては妥当だが、王配に対する不敬への処分としては軽い。そうなってしまったのは、あの使用人の言葉がまるきり間違いとは言い切れなかったからだ。後ろめたさを覚えつつ、レニは言うと、エリザベスの寝台に視線を送った。一瞬悩んだのち、近くの椅子を引っ張ってきて腰かけた。
「…… 王配は多少、隙のあるような印象の方がいい。君が気にすることはないんだ」
レニの言葉に、エリザベスは沈黙した。
「…… そうじゃないの」
どこかばつが悪そうに言って再び黙ってしまう。問い詰める気にはなれなかった。
「獅子が好きだったのか」
尋ねると、エリザベスは好きっていうか、と口を開いた。
「子どもの頃に式典用の鎧にある獅子の飾りを格好いいって言ったの。それを覚えてたんだと思う」
「装飾品は、獅子をかたどったものの方がいいのか?」
「装飾?」
「結婚するなら、必要だ」
結婚を約束する男女において、男性の方から女性へ装飾品を贈る慣習を指して言えば、エリザベスはようやく合点がいった様子で、ああ、とつぶやいた。
「ごめんなさい、装飾品はほんとうによくわからなくて。あとで侍従長に聞いてみるから少し待って」
「…… いや、君の好みの装飾と宝石の種類を簡単に聞かせてくれたらそれでいい」
「宝石も私疎くて…… もしかしたら王妃様に聞いた方が参考になるかも」
「………… そうか」
レニは黙った。知れた仲だし、本人に聞いた方がいいと思って気を利かせたつもりだったが、そんなもの知るかと言われてしまった。自分で考えろということだ。婚約者を亡くしたばかりの人間に対して無神経だった。王が、神に選ばれた者が身につけるにふさわしいものを用意しないといけない。
後悔している間に、エリザベスの視線は木彫りの獅子に戻ってしまっている。―― 勝てない。あの兄には一生。
国葬は厳粛な雰囲気でとりおこなわれた。雪は、今朝がたから静かに降り始めて止む様子がない。隅の方で使用人がひそりと何か言葉を交わしているのが目に入る。エリザベスは眉をひそめた。使用人たちは継承者に見られているのに気がつくと、すぐに話すのを止めてうつむいた。
あれ以来、すっかり過敏になってしまっている。
みっともない。
王なのに。王になるのに。神に選ばれた人間として恥ずかしくないふるまいをしなくちゃいけないのに。
でも、だってあの女はレニを馬鹿にした。大事な幼馴染みを。彼がどんなに兄を慕っていたかも知らないくせに。
―― 違う。それだけじゃないのだ。
自分が、先代が死んで喜んでしまったから。
八つ当たりだって多分に含まれる。それもあの糞みたいな男とまったく同じやり方で。大切な儀礼剣で、大事な使用人を殴りつけた。いくら王配候補の悪口を言っていたとはいえやりすぎた。新たな王は苛烈を通り過ぎて暴虐的であるという印象を与えた。確実に噂されているだろう。
王に、ふさわしくない。
神の愛を受けた者として、しっかりしたふるまいをしなくてはいけない。
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