第22話 姉さん……

 茅野と別れてから四十分。自宅まで帰ってきた俺は玄関の扉を前に動けずにいた。

どうして家に入らないのか……それには重い訳がある。

 姉さんだ。俺が店で勉強会をして夕食を摂り、茅野を自宅近くまで送って、こうして帰ってくるまでの時間。姉さんは一人だった。

 もちろん、姉さんへ事前に勉強会とご飯の件は伝えていたし、両親に連絡がいった際の万が一に備え口止めだって、ぬかりなく済ませてある。

 そうして万全を期し望んだ晩餐会に問題など無い……はずだった。


 けれど、一つだけ想定外の事象が生じた。

 脳内ピンク色の恋愛モンスター麻倉だ。奴の介入により、俺の完璧な計画に一時間ものズレが起きたのだ。

 なお、姉さんに連絡は入れていない。何故かと問われれば、こう答えるしかない『忘れていた』と。

 完全に俺のミスなのだが、仮に一報を入れていたとしても姉さんの機嫌は悪かっただろう。


 そんな、面倒くさい状況を打破する方法はただ一つ、放置だ。具体的には明日の朝まで。

 きっと明日になっても姉さんの機嫌は直らない。けど、一晩も置けば姉さんの感情も落ち着き冷静になる。人間ずっと怒り続けることなどできないのだ。

 さて、そうと決まれば行動あるのみ。

 俺は姉さんに気づかれないよう、静かに鍵を開けてそっと中に入る。


 「ただいまー」

 「お帰り、カナタ」


 小声で呟いた、誰にも聞こえないはずの挨拶に返事が返ってくる。

 恐る恐る顔を上げれば、笑顔のまま腕を組み、その背後からドス黒いオーラを立ち昇らせている姉さんがいた。

 冗談だろ、何で玄関前で待機してるんだよ。


 「ねえ、今何時だか分かる?」


 ちらり、腕にはめた時計を見やる。時刻は八時半過ぎ。普段なら夕食も食べ終わりゆっくりしている時間だ。


 「えーと、8時34分かな」

 「そうね。……で、こんな時間までどこで誰とナニをしてたのかお姉ちゃんに教えて」

 「勉強会だよ、事前に言ってあったでしょ」


 瞬間──姉さんの黒瞳に宿る闇が濃さを増す。


 「……嘘つき」

 「嘘じゃないって、父さんたちに──」

 「私ね、さっきお店まで行ったの」


 終わった。今日が俺の命日かな。


 「それに……」


 一歩こちらに近づいた姉さんは、俺の胸元に顔を埋めスンスンスンと匂いをかぎ始める。


 「他の女の匂いがするもの。それも、一人だけ濃い臭いが染みついてる」


 怖い怖い恐い恐いコワイよ。何で分かるんだよ、おかしいだろ。


 「もう一度訊くわね。ナニをしてたの?」


 胸倉を掴み俺を見上げてくる、姉さんの双眸は黒く濁っている。

 下手なウソは見透かされそうだ。俺は諦めて白状することにした。


 「夜は危ないからって家まで送ってあげただけだよ。それ以上のことは何もない」


 降参とばかりに両手を上げる俺。


 「ホントに?」

 「誓って」


 姉さんの目を逸らさず見つめること数秒。俺の言葉に偽りがないと判断したのか、姉さんは静かに身を引く。


 「……分かった、信じてあげる。一つ確認だけど二年前のこと忘れてないわよね?」

 「生涯忘れることはないと思うよ」

 「なら、いいのよ」


 少し頬を染め顔を逸らす姉さんを見て、ホッと胸を撫で下ろす。よし、目が戻ってる。


 「じゃあ、俺は部屋に戻るよ」


 嵐は去った。俺は靴を脱ぎ自室へ戻ろうとしたが、服の裾を掴まれ足が止まる。


 「制服をよこしなさい。綺麗にしてあげるから」

 「……」

 「あと、部屋に戻る前にお風呂に入りなさい。上がったらお姉ちゃんの部屋に来ること」

 「……」

 「返事は?」

 「いやだ」

 「やだはなし」

 「はい」

 「よろしい」


 姉さんは満面の笑みで、俺のブレザーを剥ぎ取ると、嬉しそうに抱きしめて階段を登っていった。

 それを見送り、俺はぐったりしながら風呂場へ向かった。

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