第11話 夏の大会 神奈川予選

  軽快にリズムを刻む太古の音やメガホンで増強された野太い声、何が楽しくて鳴いているのかわからない蝉の声が、コンクリートから蒸しあがってくる熱と共に春野を襲っている。


 みゆが日傘を持ってきてくれなかったら、夏の日差しがさらに加勢していたと考えれば、もしかすると体が溶けていたかもしれない。


 春野はみゆに感謝した。


 今日は全国高等学校野球選手権大会の神奈川予選1回戦。


 教室で神座に誘われ、自分が入るつもりのチームがどうなるのか気になった春野はみゆと会場へ足を運んだ。


 休日、家に居たくないみゆは普段、市立図書館で勉強しているので迷惑かなと思ったのだが、予想と反して「行きたい」と誘いに乗ってくれた。


「夏穂ちゃん、はいこれ」

 

 みゆが小さなクーラーボックスから冷水に浸されたタオルを手渡してくる。


 熱中症対策としてわざわざ持ってきてくれたようだ。


 おまけに、霧を噴射しながら風を送れる手持ち扇風機まで貸してくれた。


「こうやって使うんだよ」と笑顔で水を吹きかけてくれるワンピース姿のみゆはまるで、自分のもとに舞い降りた天使のように見えた。

 

「本当にありがとう。みゆちゃんが来てくれなかったら死んでたかも。なんも考えずに財布と携帯しか持ってこなかったから」


「ほんとだよ。しかも日差しから肌を守れない格好だし」


 スポーツタイプの短パンにタンクトップ姿の春野は何も言い返すことができない。


「でも、怪我治ってよかったね。ギプスを付けてきてたら大変だったよ、きっと」


 春野は自身の右腕をさすった。


 痛みや違和感もすでになくなっている。


 療養中はリハビリ、通院、ウェッショーから教えてもらった下半身のトレーニングを続け、食事にも気をつかっていた。


 そのおかげか、医者から言われた通り、ちょうど3週間ぐらいで治すことができた。


 それからは完治したのにも関わらず、放課後はウエイトルームに閉じこもって筋トレ、家では素振りや近くの坂道を走って体を鍛えている。


 さらに上半身のメニューもウェッショーから教わった。

 

 目標が定まり、野球部へ転部するつもりであるため、どうしてもソフトの練習に顔を出す気にはなれない。


「たしかに。屋根ぐらいあると思ったんだけどなぁ」


 春野は横浜スタジアムの球場全体を見渡した。


 観客席に座っているお客さんのほとんどが日傘をさすか、タオルと帽子を重ねてかぶっている。


 熱中症対策としてそのような格好をしていないのは応援団や、チアリーダーぐらいだ。


「でも、お客さんいっぱいいたら、この傘させなかったんじゃない?」


 春野は自身が持つ傘に指をさす。


 みゆが持参した日傘はトトロが使えるほどの大きさで、そこにふたり、肩を並べて入っている。


「それは言っちゃダメ」


「すいませんでした」


 2人が痴話げんかのような雰囲気で会話をしていると、しばらくしてウグイス嬢による放送が流れ始めた。


 試合をする両校の選手紹介だ。


 気が付かないうちに試合前の挨拶は終わっていたらしい。


 対戦相手である横浜第一高校のスターティングメンバーが読み上げられている。


 下馬評では横浜第一に軍配が上がるだろうと言われており、神座によると県大会優勝の最有力候補であるそうだ。


 神奈川県内では、横浜第一と東山高校、応仁高校の3強で、まずその中のどちらかが優勝するだろうと言われている。


 続いて咲舞高校の選手紹介が始まったが、春野の知っている選手は1人しかいなかった。


「9番、センター、ウェッショー君」というウグイス嬢の声が球場に響き渡る。


「あ、ウェッショーさんだ」


 ベランダ会議の時に目撃して彼の存在を知ったみゆが反応した。

 

「なんで付けなの? 同級生だよ」


「うーん。何となく付けじゃないと呼びずらくて」


「なにそれ、見た目怖いから?」

 

「多分」 みゆは笑いながらタオルで汗を拭いた。


「いい奴だよ、あいつ」


 反対側にある観客席下のベンチで準備をするウェッショーを眺めていると、試合開始のサイレンが鳴り始めた。


「お、始まるね」と近くにいた観客の声が聞こえてくる。


 先攻は咲舞だ。


 『Sakuma』と赤でプリントされた深緑色のシャツに黒のパンツという独特なユニフォームを身にまとった選手が打席についている。


「ウェッショーは何本打つかなぁ」

 

 ペットボトル片手に春野はつぶやいた。


 試合が始まり、大会初戦の立ち上がりで緊張もあってか、相手のピッチャーは先頭打者相手にフォアボールを出した。


 しかしながら、やはり強豪の選手といった感じで、すぐに調子を上げてきた。


 ランナーを背負いながらわずか8球で2アウトを奪う、力強いピッチングをしている。


 初回は慣れのためか、それとも真っすぐに自信があるのか。


 後続のバッターに対して、変化球を投げていないことに春野は気づいた。


 スピードガンの表示も、先ほどから140キロ台前半と立て続けに記録されている。


「バントしないんだね」 みゆがつぶやいた。


「え、みゆちゃん野球分かるんだね」


「それぐらい誰にでもわかるよ」


「そっか。そうだね、多分4番にウェッショー置いてるからじゃないかな」

 

 春野が答えたタイミングで、ネクストバッターズサークルからウェッショーが打席に出てきた。


 カメラに映像を収めようと春野はスマホを構える。


 ウェッショーが右のバッターボックスに立っている。


 どうやら左バッターのようだ。


 ピッチャーが始動し初球を放ると、鋭い金属音が球場全体に鳴り響く。


 ウェッショーは144キロの真っすぐを豪快なスイングでライトスタンドに放り込んだ。


 すさまじい歓声が上がっている。


 離れたところにいる応援団も夏の暑さに負けないほどの熱気だ。

 

「えっ、やったー、やったー」


 みゆが自分の手を握ってぶんぶんと振り回し、興奮している。


「うーわ」と春野もその余韻に浸っていた。


 どこまで飛んだのだろうか。


 日傘に邪魔されて着弾点を見ることができなかった。


 スタンドのベンチとぶつかった音が聞こえてくるまで長い間を感じたのは確かだ。


 録画を止め、春野はスマホをしまう。


「ね、こういうこと」


「なにが?」


 春野の言葉にみゆは首をかしげた。


「なんで、バントしないのかなって言ってたじゃん」 春野は先ほどの話をつづける。


「どういうこと?」


「もし、うちらがバントしてツーアウトでウェッショーに回ってきたとするじゃん。みゆちゃんが相手の監督だったらどうする?」


「えーと、敬遠?」


「そう。野球は1塁が空いてたら敬遠できるスポーツだから、得点圏にランナーがいる状況でウェッショーみたいなやつが回ってきたら敬遠するよね」


「うん、確かに」


「しかもウェッショーはホームランバッターだから、敬遠されるぐらいだったらランナー1塁で打席に立たせた方がよくない? だって、ホームランめっちゃ打つんだよあいつ。打ったら2点だよ」


「あー、そっか。え、それならさっきの状況でも敬遠した方がよかったんじゃない?」


「結果論でいえばそうだね。でも相手目線で言うと、1点でも与えたくないから勝負したんじゃないかな。ウェッショー打ちとったら無失点で終われるし、その可能性が高いでしょ。だってランナー得点圏じゃないし。それに敬遠してランナー1、2塁にしたら失点の可能性が上がるじゃん」


「うーん。そうかなぁ」 みゆは納得がいってないようだ。


「まあ、今のホームラン見てしまったら理解できないのも無理ないかも」

 

 首をかしげるみゆを見て、春野は思わず笑みがこぼれた。


 説明してあげたシチュエーションを想像しようとして唸り声をあげている姿が可愛らしい。


 そう話しをしている間に、5番目のバッターが打ちとられ、攻守が切り替わった。

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