第5話 打席からの見え方 ②
「いったぁぁぁ」
春野は足元から転げ落ち顔を地面に擦り付けている。
佐野に大声で怒鳴りつけようとした神座だったが、そんなことしている場合ではないことに気づき、代わりに指示を出した。
「おい、製氷機から氷取ってこい。いそげ」
佐野も我に返ったのか、はっとして走り出す。
それを見届けた神座はダッシュで部室からパイプ椅子をとってきた。
「ごめん春野、起き上がれる?」
「ん、うん」
パイプ椅子をホームプレートのすぐそばに設置して、春野を座らせた。
「折れてそう?」
「いや。痛いけど、たぶん折れてない」
「でもどのみち病院には行かないとだな」
「その前に、制服に着替えさせて。砂で気持ち悪い」
汗をかいた春野の横顔に砂が張り付いていた。
「わかった。じゃあ野球部の部室使って。 歩ける?」
「たぶん」
立ち上がる瞬間に春野の顔が歪む。
「腫れてそう?腕上がらんでしょ」
「うん」
「だったら打撲かもな」
神座も飛んでいったボールを急いで拾い、道具をすべて持って春野についていった。
春野を部室で着替えさせていると、しばらくして氷とタオルを持った佐野が帰ってきた。
自責の念があるのか、目線を床に落としている。
「春野、入っていい?」
「いいよ」
神座は部室のドアを開け、座っていた春野に氷とタオルを渡した。
「ごめん、少し冷やしながらここで待っててくれん?」
「はやくしろな」イラついているのか春野の物言いが冷たい。
「わかった」
外に出て神座がグラウンドを眺めると、すでに社会人チームが来て練習を始めていた。
春野に会話が聞かれないよう神座は扉から離れたところへ佐野を連れ出す。
「危なかったな、もう少し遅れてたら、見つかって問題になってたぞお前」
「ホントにごめん」
「いっき、今回のは確かにお前の身勝手が招いたことだけど、俺も了承してしまったから、俺ら二人の責任だぞ。病院代も俺らで出して、明日春野の親のとこ謝りにいこう」
「わかった」
「さすがに先生たちにばれるのはまずい」
「うん」
二人が部室に戻ると、多少ましになって落ち着いたのか、表情の和らいだ春野がいた。
「ごめん、春野。俺らでタクシーと病院代出すから。今保険証もってる?」
「持ってるけど、別にいいよ払わなくても。しょうがないって」
「しょうがないかもしれんけど、頼みがあってさ。診察の時以外、別の理由でケガしたってことにしてほしい」
「なんで?」
「いや、いっきが一年でメンバーに入っててさ。部活外で勝手なことして他の部活の女子を大けがさせたって知られたら、こいつ部停くらうかもしれなくて。そうなったら、先輩たちに迷惑かかるから、内緒にしてほしい。勝手で悪いけど」
「あー、そういうことね。しゃーなしな」
「ごめん。助かる」
佐野が居心地悪そうに目線を落として言った。
「まあ、あのボールは試合で使うなよ」
春野が佐野を楽にさせるためか、冗談を言う。
「それな。投げさせないよ俺が」
「じゃあ、早く行きたいんだけど。遅くなるの嫌だから」
「おっけ」
神座はタクシー会社に電話すると、十分後には咲舞高校の正門に到着するようだ。
三人で部室を出て、正門へ向かう。
その途中、春野はそういやと口を開いた。
「出してくれるって言った金は今あんの?」
「大丈夫。今日の帰りに新しいグローブを買いに行くつもりだった馬鹿が5万持ってきたって自慢してたから」
二人が佐野の方へ向くと、「俺が悪いから、俺が出すよ」と言って彼は暗い顔を見せた。
「番号二十一番、春野夏穂さん、三番診察室までお越しください」
秦野総合病院の待合室内に放送が流れた。
長椅子に座っていた春野はイヤホンから流れている音楽を止め、立ち上がる。
「じゃあ、行ってくるわ。二人はまっといて」
「分かった」
春野はスマートフォンでプロ野球の動画を見ている二人に貴重品を預ける。
待っている間、彼女は目を閉じ、佐野との対戦を振り返っていた。
中学二年で野球を始めて、小学の時からやってる周りの男よりも春野は打つことができた。
なぜ周りの奴らはこんな簡単なことができないのであろうかと疑問であったが、その訳が少しわかった気がする。
中学の時に普通だと思っていたことが、おそらく普通じゃない。
ソフトボールを一度体験したおかげで、打席での見え方が明らかに違うことに気づけた。
佐野のボールは確かに早く、今まで対戦してきたピッチャーの中でもトップクラスの球を投げた。
しかし、ソフトの試合で女子が投げる球よりもしっかりその軌道をとらえられたのだ。
佐野にぶつけられたボールは、初めて目の当たりにする球種だったのでパニックに陥ってしまったが、一打席目に投げられた初球のスライダーは、自分にあたる寸前で曲がることを予測できた。
集中力も今までより高まっていた気がする。
一言で表すなら、こう、ゆっくりと見えたというか。
――でも、なんで……。
診察室の前で立ち止まりノックをすると、中から「どうぞ」という男の声が聞こえてくる。
「よろしくお願いします」
「こんばんわ。春野さんですね。どうぞおかけください」
こちらへどうぞというように、看護師が笑顔で近づいてきたので、春野は感謝を述べた。
「右腕にボールをぶつけて、赤く腫れている状態なんですね。何のボールですか?」
春野が受付をする時に書かされた問診票を眺めながら、その医者は質問してくる。
見たらわかるだろうと春野は内心思ったが、自分が制服姿であることを思い出し、心の中で謝罪した。
「野球の硬式球です。多分、110キロぐらいで当たったと思います」
「なるほどー、それは痛そうですね」
「はい、デットボールは初めてなので痛かったです」
「まあ、自分の体なんでねぇ。気を付けないとですね。じゃあそうだな、少し袖をまくって見せてください。折れてはなさそうだし、症状を聞くかぎり打撲だと思いますけど。とりあえず見てみましょうか」
「わかりました」
春野が袖をまくり、氷嚢を退けると、医者はすぐに口を開いた。
「あー、割といっちゃってますね。内出血ひどいし、全治三週間ぐらいはかかるかもしれないですね」
「ほんとですか?」
「はい。ちゃんとリハビリしないとかなぁ。少しショックだと思いますが」
医者はそう言った後、あとはお願いしますと看護師に場所を譲った。
触診もふくめ、施術は看護師が行ってくれるらしい。
その間、家でとるべき処置などを医者が説明してくれた。
もう夜遅いこともあり、ラップを使った圧迫は入浴後、アイシングを行ってから寝る前にするようにということだそうだ。
そのため診察自体は、春野が思っていたよりも早く終わった。
看護師からラップを使った圧迫の仕方を教えてもらっている間も、同じように今日の打席のことを考えていたからだろうか。
ふと、このことについて医者に訪ねてみようかなというアイデアが春野に降りてくる。
椅子に座った春野はこう切り出した。
「先生、いきなりなんですけど、あのなんか景色とか物事がスローモーションみたいに見える病気ってありますか?」
「ほんとにいきなりですね。なんでですか?」
「いや、なんとなくです」
「はは、そうですか。そんな病気は聞いたことないですね。あ、でも……」
「でも、なんですか?」
「えーとたしか、タキサイキア現象だったか、そういう現象はありますね」
「えっ、なんですかその現象って?」
「あれですよ、命の危機を感じた瞬間に、自分が助かるために周りがよく見えるようになって、時間がゆっくり流れているように感じるっていう現象。世間では走馬灯って認識されてるやつですかね」
その説明を聞いた春野は、体から冷や汗が出てきているのがわかった。
「あの、じゃあ例えばですけど、車にひかれる前、自分にその現状が起きたとするじゃないですか。その時に聞いたクラクションの音が頭に残ったせいで、えーと例えば、その音に似た船の汽笛の音とかを聞くと、ひかれそうになったことを思い出してその現象がまた起こるってこともあるんですか? 分かりにくい説明でごめんなさい」
「うーん、それはないと思いますね。おそらくですけど、その現象を引き起こす原因となる印象に似たことが目の前で起こっても、同じように命の危機を感じないと起こらないと思います。伝わりましたか? 私の説明も分かりにくいですね。印象とか現象とか」
「いいえ、伝わりました。なるほど」
「面白いことを考えますね。一応今のは、自分の意見であって正しいかどうかは分からないんですけど。じゃあ、以上でいいですかね」
「はい、わかりました。どうもありがとうございます」
「いえいえ、先に言った処置を忘れずにお願いしますね」
「忘れずにします。失礼しました」
「はーい、お大事に」
部屋をでて扉を閉めた春野は、自分を落ち着かせるために深く深呼吸をした。
体の中心温度が急激に下がっている。
医師からタキサイキア現象のことを聞いて、自分の怪我のことなんてどうでもよくなってしまった。
まるで、ホラー映画を見た後のような余韻だなと、春野は思う。
「フォームもほぼ同じ。拳が球に変わっただけ。お前が原因かよ、死ねよまじで」
自身の父親のことを思い出した春野は、思わず醜い独り言を漏らしてしまった。
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