第3話 春野夏穂 ③
ホームルームの時間が近くなり、続々と生徒が集まってきた1年5組の教室は騒がしくなっている。
教卓の正面の席でペンを走らせているみゆの後姿を、春野は教室の入り口側最後列に座り、あくびをしながら眺めていた。
――みゆのカレー美味しかったなぁ。
春野は昨日のお泊りを思い返した。
大量の玉ねぎに、牛肉、ピーマン、トマト、ニンジン。
カレールーは辛口を使ったのにもかかわらず、口にすると甘かった。
ジャガイモを入れないのがこだわりだとみゆは言っていたが、これは単なる好き嫌いなのかもしれない。
みゆは泊めてくれたお礼にと言って、自分が風呂に入ってストレッチをしている間に夕食を作ってくれた。
母親が経営しているスナックが家の近くにあるので、普段は酔っぱらった大人に囲まれながら店で夕食を済ませることが多い。
まだ調理器具に慣れていない自分にとって、器用な手つきで料理をするみゆはどこか大人びて見えた。
ベットに入る直前、髪を乾かしてあげようとして、ドライヤーの途中で寝てしまったみゆを見たときは小さな子供のように見えたのだけれど。
精神的につらい時期にいるみゆがこんなにも頑張っている。
自分も負けてはいられないなと春野は元気づけられた。
「今から行って間に合う?」
「間に合わないだろ。休憩時間にいったほうがいい、絶対」
しばらくすると、春野の真後ろにあるドアがガラガラと音をたて、二人の男子生徒が会話をしながら入室してきた。
「マジで手首いたいわ」
「お前、しのっちのに診てもらいたいだけだろ。ばれてんぞ」
矢継ぎ早に話題が切り替わり忙しない。
お前らはいつも二人でいるくせにどうしてそこまで会話が途切れないのか。
「おはよう春野」
二人のうち一人が自分に声をかけて、隣の席についた。
野球部の
もう一人の
「おはよう。お前らいつもより遅くね?」
野球部の連中は、いつもなら朝練が終わると早めに来るはずである。
「グラウンド整備の当番」
「なるほどね」
春野は教卓の方を見ると、みゆが微笑みながらこちらへ顔を向けていた。
昨夜、カレーを食べているときに、自身のスランプについてみゆに打ち明けた。
彼女にはただ話を聞いてもらおうと口にしただけだったのだが、思いがけず面白いアイデアをくれたのだ。
みゆも自分のことを気にかけてくれているらしい。
春野はみゆに笑顔を返しつつ、神座に告げた。
「あのさ、お願いがあるんだけど。お前らバッテリーと対戦したい。実戦形式で」
「は?」 神座は困惑しているようだ。
「だから実戦形式で打撃がしたいって言ってんの」
「何それ? 大会前で忙しいから時間とれるか分からんよ」
「どうにか時間作って」
「はぁ、おまえさぁ……。いや、待って。まあいいや、いっきー」
神座が呼びかけると、佐野はゆっくりと立ち上がって近づいてきた。
神座の肩に手をついて、もたれかかっている。
2人を見比べると、佐野の方が背も高く整った顔立ちをしているが、神座相手でないと口数が極端に少なくなるため何を考えているか分からない不気味な奴に見える。
神座の方はと言うと、多少胡散臭い雰囲気をまとってはいるが、笑い上戸で話しやすいため女子人気は佐野より高そうだ。
「明日って社会人が来る日よな?」
「うん」
「春野が俺らと対戦したいってさ。明日、練習後にやろうぜ。なんかこいつ、挑発的だから分からせるか」
「別にいいけど、時間ある?」
「大丈夫。俺に作戦があるから」
翌日、春野は部活が終わった後、神座に言われたとおり野球部のグラウンドに来ていた。
詳しくはわからないが、野球部には自主オフと呼ばれる日が週二日あるらしい。
どこかサビ残のような響きのする言葉だが、どうやら今日がその日のようだ。
神座と佐野は、中学時代から硬式のクラブチームでバッテリーを組んでいる仲であるという。
昨日神座が言っていた作戦というのは、社会人チームが日の暮れる七時頃に来て野球部と交代でグラウンドを使う予定なので、その隙間を狙おうとのことだった。
この日の野球部は練習を早めの6時半に切り上げるので、グラウンドに誰もいない30分の空白ができる。
野球部のグラウンドは、日が落ちると設置された大きな照明をつけるナイターへと切り替えることができるので、仕事を終えた社会人が練習するにはうってつけの環境だという。
社会人チームには咲舞の卒業生がいるらしく、学校側も企業に協力しているそうだ。
ほとんどの部活が練習を終えた頃、足りないボールを探すため早めに照明をつけてほしいと神座が先生に頼み込んだ結果、こうして三人でグラウンドを貸切る時間ができた。
もちろん、先生に告げた文言は建前であり、ボールをなくしてなどいない。
しばらくすると、神座と佐野がグラウンドに現れた。
「先生に電気付けてもらってきたわ。大人たちが来る前にやるかー」
自前のバットを手にしている春野が、必要のないバットを神座も同様に持ってきていたので、気になって聞いてみる。
「なんでお前もバットもってんの?」
「バカお前、そのバットじゃ軽すぎるって。野球するならこっち使うべき。貸すから」
そう言って神座がバットを手渡してきたので、試しに素振りしてみると確かに重い。
「初めて持ったけど結構違うね」
中学の軟式用や、女子ソフト用のバットと比べて、250グラム程の差があるとのことだ。
「当たり前でしょうよ。てか早く準備しろって。あのバカが早く投げたいってマウンドでウズウズしてっから」
久しぶりの野球に心を躍らせながら、春野は打席に入った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます