第1話  春野夏穂 ①

 ベランダに通じる、誰もいない教室内の引き戸に手をかけ、春野夏穂は外に出た。 


 朝日に目をしばたたかせながら、手すりに覆いかぶさるように身を預ける。


 六月に入り、少しづつ夏が近づいてきているとはいえ、ここ神奈川県秦野市の朝に吹いている風は肌寒い。


 ウルフカットの春野の髪が揺れた。遠くから、鳥のさえずりと、女子ソフトボール部の掛け声が聞こえてくる。


 先日、現代文の女教諭がこの声はアオバトかな、今のはコジュケイですねなどと、さまざまな野鳥の鳴き声について講義をしていたが、春野はそれを右から左に聞き流していたため聞き分けることができない。


 この掛け声からして、今はシートノック中かなと、代わりに女子生徒の声に耳を傾けた。


 ソフトボール部に所属している春野は、本来そこに居るべきはずなのであるが、ずるをして朝練から抜け出している。


 最近、主に先輩たちから無視されることが多くなってきており、居心地が悪くなった春野は、すきを見てこっそり抜け出す癖がついてしまった。


 地元の愛知を出て新天地での生活に心を躍らせていたのにもかかわらず、咲舞さくま高校へ入学してからおよそ2か月足らずという短い間に、生気を失うほど大きな問題がふたつ、彼女にのしかかっている。


 そのひとつ目が自身のスランプだ。


 別にまわりから無視されていること自体が嫌なわけではない。


 そのように先輩たちが振る舞うのは、指導者に反抗的な態度をとる自分を嫌ってのことであろう。


 しかしそれも、自分が試合で結果を残し、その考えが正しかったと実力を証明できればすむ話だ。


 そう信じているからこそ、いまだに無視され続けているという事実が彼女を悩ませた。


 ――あぁ、またグルグルだ……。


 彼女の脳内で何本もの黒い糸が渦を描くようにして複雑に絡み合う。


 どこから手を付けていいかもわからないような、様々な問題が、彼女の肩にのしかかっており、その複雑さがこの現象を引き起こしていた。


 不格好な複数の渦巻が、その風景の中にいる春野の四肢に絡みつき、渦潮の中へ引きずり込もうとする。


 三半規管を前後左右に揺れ動かされるような感覚が襲い、のぼせたような状態になるのだ。


 春野は頭を振り、両手でほっぺたを叩いた。


 ――全部をいっぺんに考えようとするな。目の前のことから、1つずつ、コツコツとだ。


 そう自分自身に言い聞かせると、彼女はポケットからワイヤレスイヤホンを取り出し、スマートフォンの音楽再生アプリで、最近のお気に入りであるpolo Gのアルバムを再生した。


 息の詰まるような孤独に飲み込まれそうなとき、音楽が精神安定剤としての役割を果たし、彼女を癒してくれる。


 遠くで夕食の準備をする母親の、トントンというまな板の音を聞きながら、お昼寝をする時のような、そんな安心感の中に身を置くことができる。


 耳を傾けた彼の言葉が、自分の血管の中を巡っているように感じ、春野は少しばかり落ち着きを取り戻した。


 大きく伸びをし、最優先に取り掛かるべき自身のバッティングの問題について、春野は考えることにした。


 春野は高校にあがり、野球からソフトボールに転向して以来、一度として気持ちよく打てていない。


 たかが一度のスランプぐらいでと、周りには言われたものだが、実際は全くの別人が打席に立っていると言っても過言ではないほど、以前の自分と比べ退化していた。 


 もちろん全く打てないというわけではないのだが、ヒットが出ても、たまたま感が否めない。


 野球からソフトボールへと競技が変わっただけで、ここまで打てなくなるとは夢にも思っていなかったため、その事実が彼女の心に大きな穴をあけた。


  中学時代の春野は、たとえ相手が男であろうが、どんな球でも狙ったところへ思い通りに打球を運ぶことができた。


 周りの大人たちからはちやほやされ、チームメイトからは、尊敬されたり、妬まれたりした。


 そんな『天才バッター春野』は、ソフトボールの世界に見る影も無い。


 当初、この不調の原因は、もしかするとマウンドとバッターボックスの間隔が変わったことに拠るものではないかと、彼女は考えた。


 野球と比べて、ソフトボールの間隔のほうが短い距離となり、バッターが感じる球の体感速度が速くなる。同じ100キロでも、ソフトボールの100キロの方が速く感じるのだ。


 そのせいできっとタイミングが取れなくなっているのだと。


 しかし、すぐにそこが原因ではないことに気づいた。


 確かに体感速度は上がり、タイミングの取り方に違いはあるが、投げられる球の速度は野球よりも遅く、球のサイズだって大きくなっている。


 彼女は、練習試合の様子を、脳内スクリーンに映し出した。自分が右のバッターボックスに立って、構えを取っている。


 ピッチャーが始動して、ステップを踏み、腕を回転させ始める。その回転運動によって産み出されたエネルギーがそのままボールの運動エネルギーとなり、最後は腰の側面にぶつけられた手首のスナップによって球にスピンがかけられ、彼女の方へ放たれた。


 それに合わせ、彼女も始動してトップを作り、スイングを始める。


 しかし、気づいた時には、キャッチャーのグラブへボールが収まっており、パンッという音が空中へ消えていく。


 自分のハードディスクから、球の軌道の映像をひっ張り出そうとしても出てこない。


 中学の頃は、まるで未来予知の如く、球がピッチトンネルを通過した後の軌道までイメージし、それに合わせた最適なスイング軌道でうまくコンタクトできたのになと、彼女はため息をついた。


 イヤホンから現在進行形で流れていた曲が終わり、次のアルバムの曲が始まろうとしたとき、ふと遠くから彼女を呼ぶ声がした。


 慌てて首を振ると、その声の主はすぐ隣に立っている。


 同じクラスの平和ひらわみゆだ。


「ごめん、気づかなかった。無視してたわけじゃないよ」


 春野はバツが悪そうに、髪の毛で隠れた耳元をあらわにし、イヤホンの存在をアピールする。


「うん。おはよう」


 上目遣いに春野を見上げるみゆの顔が少し紅潮していた。


 春野は、高一女子にしては高い、172㎝の身長があり、みゆと15㎝以上の身長差がある。


 そのためか、ふとした時に見せるみゆのしぐさが、春野の庇護欲を刺激し、妙に意識させている。


「どうしたの、こんな早くに?」


 みゆは、少しうつむき、もじもじと身じろぎをして、言うのをためらっているようだ。


「ふーん。今日お母さん居ない日なんでしょ?」 みゆがびくりと体を震わす。


「それで、事前に連絡できなかったから、家に泊めてって言いずらいんだぁ?」


 にやけ顔を湛え、みゆの顔を覗き込みながら嫌味たらしく春野が告げると、みゆは顔をそらし、ぼそっとつぶやいた。


「さぼりのくせに……」


「えー、なになに?反撃のつもり?」 春野は笑いながら、恥じらいの表情を見せるみゆの頭をポンポンと叩いた。


「別にいつでもいいよって言ってんじゃん。着替え持ってきた?」


 返事を聞くなり、みゆは自分の身体を預けるようにして、春野の胸元へ倒れこむ。


「もってきたよ」


「ちょっと、誰かに見られたらどうすんの」


 みゆの体を受け止めて、そういや朝早いし誰もいないかと思い直した春野は、生まれたばかりの子猫を扱うように優しく抱きしめ、みゆの耳元で囁く。


「大丈夫だよ。大丈夫」 春野はできるだけ柔らかい声色で話せるよう努めた。


「帰りながら、夕飯の買い物しようね。部活終わったら、図書館に迎えに行くから」


「うん……」


 みゆの蚊の鳴くような声を聞いて、春野は唇を強く嚙み締めた。


 みゆのこの声を聞く度に、頭の中の線が途切れ、何かが弾けたような感覚に陥る。


 春野は、怒りで震えそうになる体を何とか鎮めた。


 ――できるだけ、みゆを彼女の父親から遠ざけねば……。


 みゆに向けられた母親の再婚相手からの性的虐待、それが春野を悩ませるふたつ目の問題である。

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