プロローグ 後編
職員室のドアを開けた明智は、入り口近くに座っていたソフト部監督の柏木先生と目があった。
明智の体が無意識に彼女の方へと向かう。
「お疲れ様です柏木先生」
彼女の方もお疲れ様ですと笑顔で返答した。
「そういや、前田創志くんは結局来ていたんですか?」
「いえ、来ていませんでしたよ」
「やっぱり。まあそんな気がしていたんですけど」
「それで、彼はなんの用があったのですか? 私、実は彼のこと知ってて、割と会うの楽しみだったんですよ」
「知り合いですか?」
柏木は片手をパタパタと振りながら否定した。
「YouTubeで投げてるところを何回か見たことあるってだけです」
「あー、そうなんですね。彼のような投手がうちにもいたらなぁ。羨ましい限りですよ、本当」
明智の愚痴に彼女は口に手を当て、ふふと上品な笑い方をする。その美しさに、明智は自然と頬が緩んだ。
「そう、それでね、彼が会いたがっていた子が……」と、明智は経緯を説明した。
「本当は、もし会えないのであれば、自分がこの学校に一度来たことすら知られたくないと彼が言っていたので、柏木先生に話す以上、彼の事情に付き合ってもらってもよろしいですか?」
「はい、もちろん、そこは。それで彼が会いたがっていた子って誰なんですか?」
「春野夏穂って子です。実は自分も気になることがあって、彼女について柏木先生にお話を伺いたかったんですよ。少し話が長くなりそうなんですけど、よろしいですか?」
「大丈夫ですよ」
えっと、と言って彼女の机の横で立ち話を続ける明智に、すでに帰宅した隣の席の先生の椅子に腰掛けるよう促した。
「あんまりよろしくないですけど、失礼します」
彼女が軽い会釈で返す。
「前田くんと春野はどういう関係なんですか?」
「それがよくわからないんです。同じ中学出身らしいですけど。一応、春野さんはいるんですよね?ソフト部に」
「はい、一年です」
「あの身長高い、かっこいい系の美人さんですよね?」
「そうそう」
「彼女は部活内でどのような感じなんですか? どのような感じですかって聞くとアバウトな感じしますけど」
「それがですね、彼女、部内で孤立してるんですよ。いや、無視されているって言った方が正しいですね。いじめではないんですよ。彼女の態度に問題があるというか。どうにかしてあげたい気持ちはあるんですけど……」
「そうですか……。部員に対して、仲良くしてあげてなんて言えないですもんね」
「はい……。しかも女子って男子よりも輪の空気を凄く大事にするから、彼女みたいに我が強くて、無理して合わせなくてもいいじゃんみたいなタイプだと特に先輩とかからは嫌われちゃうんですよ。一年生の中には彼女のことをかっこいいと言って好いている子はいますけど」
あの容姿なら、女子からもてはやされる彼女の姿を想像するのに難くない。
「ポジションはどこなんですか?」
「ファーストです」
——やはり野手か……。
「彼女、体格に恵まれてる感じしますけど、メンバーに入ってたりするんですか?」
明智が問うと、一瞬の間が空く。
言い淀む柏木を見て、他言はしませんからと明智が食い下がると、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「メンバーどころか、一年の中でも下の方ですよ。守備は素人に毛が生えたようなものですし、打席でも全然打てなくて……。中学の時は軟式野球部にいたらしいですけど」
明智は眉根をよせた。前田の話と食い違いが起きているではないか。
「でもあの体つきだと鋭いスイングしそうですけどね」
「実際いいスイングをするんですよ。体幹も強いうえに体の内側にパワーを秘めてて、他のどの選手よりもしっかりとした土台があるんです」
「なのに打てないと」
「はい。技術的に拙い感じなのに難しいことをしようとするんです。なんて言うんでしょうか、初心者がプロの真似をするみたいな。しかも、基本を無視したりして」
「基本を無視というと?」
「ボール球を無理やり振りに行ったりとかですね。あと凄く変なのが、彼女、右打ちなんですけど打つ時に三塁側へスウェーする時があるんですよ。甘く入ってきた球を、しかもカットして粘るとかではなく。狙ってヒットを打ちいったと本人は言うんです」
野球のバッティングにおけるスウェーというのは、向かってくるボールに対しタイミングを取るため打者は片足を上げるのだが、その軸足に全体重を乗せ、インパクト時に前方へ体を流しながらボールを迎えに行くような打ち方である。
しかし、それは左打者にだけ許される打法で、右打者の春野がしてはいけない理由が明確に存在する。
ピッチャーから見て右側のバッターボックスに、つまり三塁側に立つ右打者は、スウェーすると自然に体が三塁側に流れてしまうので、打った後に一塁までの距離が体の流れた距離の往復分長くなってしまい、普通に打ったらヒットになる打球もアウトになってしまう。
それが左打者だと全くの逆になるので、普段より早く一塁に到達できる。スウェーでヒットを打つとなると、左打者ではメリットが大きいという場面が、右打者になった途端、デメリットしかなくなる。
「それは、自分だと試合中に怒鳴ってしまいそうですね……」
「そう、それで叱ったんです、私。でも彼女、違うんですの一点張りで言い訳もしなくて。その態度が先輩たちの癇に障ったみたいで……。高校から地元の愛知を離れて、新しい人間関係を築いていかなきゃならないのに、しかも母子家庭で母親は仕事が忙しく家では独りらしくて……。一人で抱え込んじゃうようなタイプだし、本当に心配なんです。」
彼女について相当気に病んでいるようだ。柏木の目元が潤んでいる。
「そうですか……」
「なんか、すいません。私、いつの間にか愚痴ばっかりになってました」
「いえいえ、いいんですよ。私も時間をとらせてしまいました。自分も彼女のことが他人事のように思えなくなってしまって、また何か、彼女の周りのことで困ったことがあったら構わず言ってください。協力しますよ。と言っても、私にできることは少なそうですけど」
明智のその一言で、柏木の表情が穏やかなものになった。
「ありがとうございます」
お先に失礼しますと言って、明智は席を立ち扉へ向かったが、職員室を出る寸前で自分がここに来た本来の目的を思い出した。
「そうだ、鍵、鍵」
——早く帰ろうと思っている時に限って遅くなるな。
外はもう真っ暗だ。
罪悪感を感じる必要はないと頭ではわかっているのだが、自分が入部を断ったことによって、彼女の今の状況があるのではないかと考えてしまい、どうしても
——彼女はこの暗い中、誰もいない家へと独りで帰るのだろうか……。
廊下を歩く明智の足取りは重くなっていた。
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