プロローグ 中編
いつものように放課後の練習を終えた明智は、グラウンドを後にして教員用駐車場へ向かい、車の鍵を開けようとしたが、その鍵を職員室に置いてきてしまったことに気がついた。
——全く何をしているんだ。
明智は北側校舎二階の職員室に向かってきた道を引き返す。
前田創志にあんなことを言われて以来、どこかおかしい。注意力が散漫になっているというか。
あれから丸四日が経っているにも関わらず、自分は何かしてはいけないことをしてしまったのではないかと、未だに動揺しているようだ。
三十後半のいい大人が、高校一年生に暗示をかけられ、引きずっているとはみっともない。
しかし、明智には前田の言葉を簡単に笑い飛ばせない訳があった。
春野は本物だ、というセリフも前田が言えば魔力を宿す。最初こそ気が付かなかったが、彼の名前を聞かされハッとした。
前田創志という名前は、二年以上前からスカウティングのあらゆる現場で耳にした名だ。
中学生の試合を見に行くと、スカウト同士での話題に必ず彼の名前が上がってくる。
大学生と言っても疑われないような恵体で、彼のピッチングや試合運びを見た大人たちは皆、口をそろえて単に投手としての完成度が高いと彼を評価した。
中学の時からプロのドラフト候補として注目され、高校入学前から、彼ほどの実力があれば高校レベルの試合は一人で支配するだろうとも言われていた。
ただ、その期待が大きすぎたのか、中学最後の年に投球障害であるイップスを発症してしまい、強豪校のスカウト陣に失望落胆の空気が蔓延した。
それでも、彼は強豪の選手としてプレイすることを選んだようだ。
目の前に現れた前田のユニフォームは土で汚れていたので、試合には出ているらしい。もしかするとそのイップスも回復傾向にあるのかもしれない。
そして、その前田が春野夏穂という女子生徒に太鼓判を押している。
やはり、もっとこのことについて真剣に向き合わなければならないのかもしれないと、明智は思った。
北棟の玄関から中に入って、正面の階段を登り、職員室のある方へ廊下を歩いていると、女子生徒が二人並びこちらの方向へ向かって歩いていた。
覚えのない生徒なので、一年生だろう。
仲睦まじい雰囲気で、背の高い方が腰を斜めにかがめ、もう一方の子の顔を覗き込むようにして話しており、こちらの方まで控えめな笑い声が聞こえてきた。
すると、すれ違いそうになる数メートル手前、会話の中にかほちゃんという言葉が聞こえた。
——背の低い方がその名を口にしたので、高い方が前田の言っていた春野夏穂なのだろうか?
明智は反射的に体が反応してしまい、二人の方へ向き直ってしまった。
すると、向こう二人も自分に気づいたようで、かほちゃんと呼ばれていた方が身構え、自分が盾になって守ろうとするように、もう片方のこの前へ出た。
後ろ手で背中の子を庇っている。
急に張り詰めたような空気になり、予想してなかった展開に、明智は混乱した。
「さ、さようなら」
居心地の悪さで咄嗟に出た言葉だったが、その声かけが場の緊張を解き、「さようならー」と二人は返事をして通り過ぎて行った。
——なんだったんだ今のは……。
おそらく二人とも会話に夢中で、ぎりぎりになるまで自分の存在に気づけず、急に現れた男性教師に驚いたのだろうが、それにしてもあの防御反応は過剰に思えた。
年の割に童顔なせいか、明智は普段から監督としての威厳がないのではと部員たちに揶揄されるぐらいには、人から警戒されない人畜無害さを纏っているという自覚がある。
あのような反応をされる原因が自分にあったのだろうかと、明智は疑問に思った。
振り返って目をやると、既に二人の後ろ姿は遠い。
とても幸せそうな雰囲気だ。二人だけで完結していると言い表してもいいような。
先ほどの出来事は無かったかのように、笑みを称え隣の子を覗き込んで話すかほちゃんの顔が見える。
彼女の身長は170センチある明智の身長を上回っているのではないだろうか。
肩にかかるウルフカットがアンニュイで整った顔立ちとマッチしていて、まるでモデルのようだった。
ただモデルと違うところは、その体つきだ。
女子にしてはがっしりとした肩周り、上腕、臀部、太腿の発達した筋肉。
それらが相まって、アスリートとしての迫力とモデルのようなオーラが共存している。
しばらくして、明智はハッとした。
彼女の放つ独特の雰囲気に当てられていたようだ。
廊下の窓から見える空は、すでに赤みがかっていた。
こんなところでいつまでもぼーっとしていたら、帰りが遅くなってしまう。
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