第五集 無声者

 痩せ細った驢馬ろばを連れて、じゅん山の険しい道を歩く行商人がいた。

 名を、呉文盛といった。


 主に薬になる草だのきのこだのと、珍しい装飾品を売る男だった。本当に売りたいのは玉の耳環や、金、琥珀、瑪瑙の帯飾り――そんな値の張る装飾品だが、いきなりそれを見せても、中々売れるものではない。

 しかし、薬屋から行商人に化けて日の浅い文盛には、各地の金を持つ者への伝手つてが少ない。

 だから文盛は、安い薬から始めて街や村に入り込み、質の高い物を持っていると噂をさせて、金持ちの家に上がり込むのを得意としていた。


 日が傾いて空が赤く染まる頃、ようやくぽつりぽつりと人家が見え始めた。


 県城のような立派な城壁があるわけでもなく、土壁で覆われてすらいない山村。

 粗末な煉瓦で建てられた貧相な家が、まばらに建っているだけだ。

 真っ当な者が住むような場所ではないが、村を通り過ぎてしまうと今晩は野宿、何に襲われるか分からぬ夜になるから、ここで宿を取らねばならない。


 文盛は金の匂いでも嗅ぐように鼻をひくひくと動かすが、すぐにやめてしまった。

 見るからに粗末、粗末、粗末尽くしで、味気の無い村である。

 金の匂いはどこにもない。

 だが、辛気臭い面で俯向きながら歩を進めた文盛は、すぐにその顔を上げることになった。


 肉の匂い。

 猪や鳥ではない、重く、豊かな羊肉の匂い。

 それも、肉の切れ端から漂うような細い香りではなく、見えない雲の如く大きな塊となって辺り一面を覆っている。


 彼は堪らずに眼の前の家の扉をたたき、出てきた老人に己は薬と宝飾品を商う者で、金はあるから宿と食事を頼めないか、肉が食いたいのだと持ちかける。


「肉? あぁ、あの匂いか。悪いけどここには無いよ。向こうに穴掘り連中がまとまって住んでるから、肉と金なら向こうだ」

「そうですか。いやそれはどうも、ご丁寧にありがとうございます。ところで何か、体が痛いとか咳が出るとか、お困りの事は」

「無いよ。肉も金もあっちだ」


 老人はボソボソとした口調でそんな事を言いながら、扉に手を伸ばす。

 行かない方がいいがね――古い扉が完全に閉ざされる直前、老人のしゃがれた声が隙間から漏れた。

 怪訝な顔をしながらも、文盛は道の続く先、老人が指し示した村の奥へ足を向けた。もう何軒かは人家が見えているが、どこも同じ様な寒々しい粗末な家であったし、肉の匂いはいよいよ強くなり、彼の腹は既に惨めに鳴き始めていた。


 肉の匂いを辿って歩を進める内に、家の数が増え、その造りも変わってきた。とても豪勢とは言えないが、堅牢で、屋根や壁の手入れが行き届いているのだ。

 先程の、命を繋ぐのがやっとの暮らし振りが窺える家とは、明らかに違う。

 だが、ぴったりと閉じられた窓や、煙の一筋も上がっていない様子から、そこらの家で肉を焼いているわけではないと見て取った彼は、ため息をついて通りの先に目をやった。

 道はぐねぐねと曲がってはいるが、肉の匂いは確かに通りの奥からやってくる。

 重く甘いその香りに元気付けられた足取りは、やせ細った男の体を村の奥へと運んでいく。


 そうして辿り着いたのは、家々に囲まれた小さな広場だった。何十人かの男達がむしろを敷いて輪になって座り、黙って広場の中央を見詰めている。


 視線の先では火が焚かれ、四つ足を棒に括りつけられた異様に大きな羊が丸焼きにされていた。

 上体を剥き出しにした筋骨隆々の男が二人、汗を流しながらゆっくりとそれを回している。

 広場のはずれには官吏らしき男と兵士達が立っているが、彼らは無言で男達を眺めるばかりで、特に何かをする様子も無い。


 あまりに奇怪な眺めに息を呑む文盛に、擦り切れた袍を着た男が薄笑いとともに近づいてきた。

 文盛がどうも、と声を掛けるが、男は黙ったままで、広場の端に置かれた机の方を指し示すだけだった。仕方なく男と一緒に机に向かった彼は、卓上に筆や墨とあわせて、大量の木の板が置いてあることに気が付いた。

 男は乾いた墨に水をさして溶き、筆の穂先をそれに浸した。そして、木の板になにやら書き付けたのを文盛に寄越す。


 板には――寡人わたしは陶邦才といい、かつては県令に仕えていたが病を得て声を失い、今はこの山の鉱夫達を監督している。この県では不思議と声を失う者が多いのだが、彼らに仕事が無くても困るので、こうして鉱物を掘らせ、飯を食わせているのだ。この先は険しい山道でしばらくは人里もないから、貴方も一緒に食事をしていくといい――とあった。

 空腹と肉の匂いに耐えかねた様子の文盛は大きく頷き、あれは何の肉かと声に出して尋ねた。


 返った答えは、羊患、読患也――

 羊と患を組み合わせた一字で表し、それでカンと読むのだ、というもの。

 美味いかと問えば、食えばわかると返される。

 ならば食うと答えると、邦才と名乗った男は筆を置いて男達の輪の方に歩いていき、文盛に向け手招きをした。

 文盛は声を持たぬ者の招きに黙って応じ、肉を待つ円陣に加わった。


 暫くの間、火で炙られた肉の脂が爆ぜる音だけが続く。問うても返ってこないのだから、文盛もわざわざ語る言葉を持たない。周囲の男達も、彼を一瞥したきり関心を示さない。


 風が吹き、旨味が薫る。

 肉を焼いていた男達が二人がかりで羊を火から外し、地面に敷いたむしろの上に置いた。

 そして横に置いてあった小刀を手に取り、横腹や背に突き刺して次々と肉を切り分けて、塩を振りながら長い串に突き刺していく。

 そして野太い声でライ! と言い、物言わぬ男達は立ち上がって列をなす。筵の上には、ただ肉を削がれた獣の骨と赤黒い血があるばかり。よそで中抜きしてから持ってきでもしたのか、内臓はそこには見えない。


 施しを待つ者の列は少しずつ進み、ついに文盛が肉焼きの男の前に立つ。男は彼を睨むと、またもや野太い声を挙げ、知らない顔だな、口は利けるのか? と尋ねた。


「ああ、話せる。行商人の呉文盛だ。もらってもいいのか?」

「おう、構わねぇよ。腹一杯にしてけや。ほれ」


 そう言って男が手渡す肉は、よく焼かれて脂が滴り落ち、濃密な香りを撒き散らしていた。

 文盛は広場の端でそれを頬張ると、久方振りの塩と甘い脂が強烈な快楽を生むのだろうか、息もつかずに貪り始めた。その肉は、今彼が送っている暮らし――県令の機嫌を損ねて薬屋の商売が出来なくなり、仕方なく薬草や金目の物を売り歩く暮らしでは到底得られぬ美食だった。


 脂だけが残った串を名残惜しそうに見る彼の肩を、軽く叩く者がいる。振り返った彼の視界には邦才のにこやかな顔と差し出された肉の串、ここが気に入ったなら暫く居ろと書かれた札が映る。

 彼は頷きながら串を受け取り、また息をするのも忘れたかのように肉を口に入れ、噛み、飲み込んでいく。


 また脂だけになった串を持った彼は、一応は腹が膨れたのかゆったりと息を吐きながら目線を上げる。


 そして、息を呑む。

 何か恐ろしい物でも見たかのように。


 広場の中心。

 筵の上。

 そこにはさっき見た血塗れの骨は無く、代わりに殺されて焼かれて捌かれたはずの、巨大な、丸々太った羊のような獣が四つ足を縛られて転がっていて、人間達に恨めしげな黄色い目を向けていた。





 それから十日が経ち、文盛は村を出る機を逸していた。気味の悪さはあれども与えられる肉の味は良く、この村の先は暫く険しい山道が続き、おまけに冬が近づいてくる。

 草木は枯れ、村々は備蓄した食料を少しずつ食べるようになり、旅人を受け入れる余裕は失われていく。

 彼は黙っていても肉――得体は知れないが、少なくとも腹は膨れ、味も良い肉が食べられる村から出て冬山を行く気概など、とうに失っていた。


 そこに頃合いを見計らったかのようにやって来るのは、元役人の邦才。

 彼が申し訳無さそうに文盛に見せた板には、もし今後も村に残るつもりなら、申し訳ないが鉱山の仕事をしてくれないか、貴君は読み書きが達者であるし体も頑丈そうに見えるから、皆とても期待していると書かれていた。

 それを読み、文盛は眉をひそめて首を横に振る。彼は特別に豊かな方ではなかったが、一日中体を使って汗を流す仕事はしたことが無かったし、辛く、身に危険の及ぶかもしれない鉱夫の仕事をするつもりは無かった。


 彼が筆と板を借り村を去ると書いて見せると、今度は邦才がため息をついて首を横に振った。

 そして筆の穂先を壺に入れて墨を付け、新しい木の板に字を書きつけて、薄笑いを浮かべながら手渡した。


 そこには、去村即死の四文字があった。

 

 文盛はくだらぬ脅しだと嘲笑い、その日の内に日々の食事の礼を書き、申し訳程度にいくつかの薬草を置いて村を出た。

 どうせ金のかからぬ肉なのだから、金目の物は残さずともよいと、そう考えてのことだった。

 そうして暫く歩き続け、峠を越えようとした時のことだった。


 彼は、己の体が透けていることに気がついた。


 服や荷物はそのままだが、そこから露出している手や脚は半透明になり、空や地面が透けて見えるのだ。


 恐れをなした文盛は、早足で村へと引き返す。

 すると、少しづつではあるが体が実体を取り戻し、見慣れた体に戻っていった。


 再び村の境を跨いだ文盛を待っていたのは、にやけ面を浮かべた邦才だった。

 文盛は罵声でも浴びせるかのように口を開くが、その口からは掠れた息が出るだけで、言葉らしい響きは生まれない。

 邦才が薄笑いと共に手渡した木板には――

 カンは山中の気がこごった者で この山にいる限り死ぬことがなく、声を持たない。他の獣の肉のように人を生かす滋養も無い。だからカンの肉だけを食べ続ければ体は死ぬが、死んだ部分はカンの肉、凝った気に置き換えられる。だから山に居れば死なず、出れば死ぬ――とあった。


 男達は県令によってただカンの肉で生かされ、死への恐怖と無力感で牙を抜かれ、石を掘るために働かされていたのだ。


 そして、文盛もその数に入ってしまった。


 山から逃げれば、死ぬ。

 反乱を企てて捕らえられれば――山から外に出されて死ぬか、山の中で死ぬことも出来ず無限の苦しみを味合わされるか――そんな境遇に、身を落としてしまった。


 その身の不幸を嘆くように、或いは恐怖を噛みしめるように、文盛はその場でしゃがみ込み、目を閉じ、両の手で顔を覆ってしまった。







 咸陰かんいん山から東に向かって四百里の場所に、洵山があった。黄金や玉石を産するこの山で、安らかな顔で石を掘る男がいた。

 名を、呉文盛といった。

 カンの肉を食い、ある種の不死を得、声を失った男はその身を嘆き、失った暮らしを懐かしみ、採石の労働に縛られた人生を思って泣き――得た物に気が付き、心を穏やかにした。


 男が人であった頃は、ただ生きるために生きていた。生きている時間のほとんど全てを生きるために費やしていた。

 日々の楽しみもありはしたが、それは己のための娯楽ではなく、生きるのに必要な他人との繋がりを保つための道具であった。

 という制約は無く、何をしてもどう生きてもよかったが、しかし彼が生きることを保証する者も物も無く、純粋な楽しみを持つ暇など無かった。


 今、文盛は山に縛られているが、山での仕事は日が暮れれば終わった。夜に山を掘れるだけの灯りを買い集めれば高くつくし、あまり掘りすぎてもその後の石工の仕事が追いつかず、意味が無いからだ。

 だから日が暮れれば仕事が終わり、自由な時間があった。


 その時間で、文盛は詩を作り始めた。


 山は季節と日と月の巡りで常にその顔を変え、鳥や獣や虫は異なる姿を見せ、無表情に見える役人や兵士達もよく見れば日々の喜怒哀楽が滲み出ていて――ずっと同じ場所で同じ仕事をしていても、文盛の目に映る山は変化に富んでいた。


 だから元役人の邦才に詩作の手解きを受け、日々の移ろいを自分の喜びのために書き記した。

 仕事に縛られ、声を上げることの出来ない者の苦しみや喜びを、或いは山と、そこに立ち入る人々の情景を――今まではただただ生きることに必死で、上げられなかった心の声を。


 皮肉にも、文盛は仕事に縛られ、声を奪われることで初めて安寧を得て、心の景色を詠えるようになったのだ。


 そこから、長い長い月日が経った。


 ある時、理知的な顔立ちの若い男が来た。

 男は人が人に仕える世はおかしい、人は自由である存在で、全ての人が自分自身で自分の責任で自由に商売をするであり、人に仕えることを良しとするような生き方は間違っている、責任のある自由だけが人の暮らしを豊かにするのだと、声高に主張していた。


 文盛は邦才と顔を見合わせ――

 カンの肉を、勧めることにした。


〈了〉

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中華幻想小説集 鯖虎 @qimen07

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