第四集 貪夢

 朱や金で彩られた典雅な部屋の中で、私の前には葡萄酒が入った青磁の壺が置かれ、肉や魚の、名前もわからぬ豪勢な料理が並んでいる。

 隣に座るのは透き通るように白く、目鼻の整った美しい胡姫ペルシャの妓女

 鼻の奥をくすぐる芳醇な香りは、酒か、料理か、それとも色香か。

 全部、全部だ。

 この世の全てが溶けて混ざったその香りが、肺を満たし、体を巡り、全身を潤す。

 そうだ。この感覚だ。こうでなければ。

 酔った私に胡姫こきの白く細長い指が絡みつき、滑らかな肌を通じて、ほんのりとした熱を伝える。

 その熱は、私の体をたっぷりと満たす。

 満たした次は、その次は――


 




 寒くもなく、暑くもなく。

 仕事もなく、さりとて別段楽しみもなし。

 夢から醒めれば興も醒める。待っているのは退屈で、陰鬱で、今にも頭が腐りそうな暮らし。

 嫌なものだ。


 かつて詩人は、司馬は老後を過ごすのに丁度いい仕事だと言った。なってみればその通り、これといって仕事はなく、俸給は狂いなく、規定の通りに支払われる。

 受け入れてしまえば、生きるのは容易い。

 だが、案外受け入れるのは難しい。


 魑魅魍魎の跋扈ばっこする伏魔殿たる長安で、私が妻と仕事を奪われたのが二年前。

 劉忠。

 名を思い出すだけで腹が痛む。

 横恋慕、讒言ざんげん、派閥争い、左遷。

 そして、今まで戸部侍郎こぶじろうとして戸籍や税を司っていたはずが、たちまち都から追い出された。

 代わりに与えられたのは、柳州司馬という名ばかりの官職。私の妻は、もう妻ではない。


 そして、私は日々暇を持て余していた。

 一応は柳州刺史張清廉という上司がいるが、およそ勤勉とはかけ離れた人物だった。

 職務上州の政の責任を負っているのだが、本人はまるで実務に興味がなく、ひたすら文才に優れた若者を探している。

 科挙の受験を許可するのも仕事の内であるから、まるで仕事をしていないとは言えないが、文芸が絡まない仕事は何もしないのだ。


 赴任早々、張刺史は私にいくつか詩を書いてみろと言った。そして、詩を献上した後に返ってきた言葉は、だった。


 その結果、私は日々部屋の中で何をするでもなく暮らしていた。刺史と私の間に他の上司もいるのだが、誰も私に関わろうとしなかった。


 そうして始まった退屈な日々は、思いもよらぬ毒を持っていた。

 夢を見るようになったのだ。

 劉忠と、妻の夢を。

 何度も何度も、嫌な所を、繰り返し。

 寝ては悪夢を見て、起き、疲れ、寝て、また悪夢を見る。

 疲れは癒えず、漠然とした不安や誰かに陥れられる恐怖、私を嫌った妻が劉忠をそそのかしたという想像が、ひたすらに私を苦しめ続けた。


 彼女が現れたのは、そんな時だった。

 燕瑛玉。

 白黒半々の不気味な獣を連れた、小柄な女。

 普通なら、素性の知れぬ者が屋敷に来ても追い返す。だが、彼女は使用人に向かって、旦那様が悪い夢にお困りのようですので、と言ったのだ。


 藁にも縋る思いで招いた女は、悪い夢を預かり、代わりに楽しい夢を見せると言った。   

 そして、悪い夢には預かり料、楽しい夢には夢貸し料をもらう。支払いが滞れば悪い夢は返し、楽しい夢は取り上げると言って、竹の筒を二つ取り出した。

 

それぞれの竹筒から出されたのは、丸薬のような二つの玉。一つは虹色に輝く銀の玉、もう一つは真っ黒な玉だった。

 銀は美夢、黒は悪夢の玉。彼女が連れるばくという獣が夢を食べると、生み出されるらしい。

 預かり料を聞くと払えない額ではなく、悪夢の預かりも美夢の貸し出しも、三日間は無料ということだった。

 夢の玉は、そのまま水で飲めばいいらしい。


 なんとも怪しい話だが、私は彼女に悪夢を預かり、苦しみから逃げられる夢を貸してくれるよう頼んでいた。

 逃げられるなら、なんでもよかったのだ。

 そして私は、夢に溺れた。




 陰鬱で、退屈で、頭の腐りそうな暮らし。

 頭が冴えない。

 夢から醒めた私の頭は、今日も霞がかかっていて、使い物になりそうにない。

 呆けていると、扉を叩く音がした。一緒に聞こえるのは、下女の小鈴の声。早朝から不躾な奴だと怒りが湧いたが、窓の外は明るく、日は高い。

 遠くから、微かに寺の鐘の音が聞こえる。

 これで寝起きに何だと叱りつけるのは、いくらなんでも道理のない事だ。

 布団から這い出て入室を許すと、使用人にしては随分上等な服を着た女の姿が見えた。両手で大きな酒壺を抱えている。


主子だんなさま、仰っていた通りのお酒を届けさせましたので、こちらに」


 酒、酒、そんな物頼んだかな。最近どうも飲みすぎるから、酔った時に頼んだかもしれない。


 そういえば、この間酒を頼む夢を見た。どうやら、私は呆れる程に酒を飲みたかったらしい。

 しかしまあ、おかしなものだ。

 飲む所ではなく、頼む所を夢に見るとは。


「おお、そこに置いといてくれ。それにしても、随分いい服だな」

「はい、昨日仕立て終わりまして。本当にいい物を頂きましてありがとうございます」


 小鈴がこうべを垂れるほど、困惑が大きく膨らんでいく。そんな高そうな反物など、くれてやった覚えはない。


「いつ渡したんだったかな」

「お忘れになったんですか? 十日前ですよ」

「そう……だったか。少ししたら朝飯を頼む」

「畏まりました」


 小鈴が引き下がり、扉が閉まる。

 早速壺の中身を見てみると、芳醇な香りが鼻をく。葡萄酒だ。なんだってこんな高そうな物がここにあるんだ。私の俸給は、そんな大層なものではない。

 

 薄気味悪いが、酒は酒。

 柄杓を使い、青磁の酒入れに移し替える。

 脚のある、てろりと光る瑠璃の酒杯――かつての栄華の名残に注げば、卓上の一箇所だけは長安の綺羅びやかさを取り戻す。


 かえって虚しい。


 酒で夢の玉を飲み、葡萄の香りを肺の奥まで取り入れる。何口か飲んだところで小鈴が干し肉入りの粥を持ってきたから、すぐに食い始める。


 引き下がる小鈴の、衣の柄。

 あれは、そうだ。

 胡姫が着ていたのと同じだ。


 米の甘み、干し肉の塩気と旨味、酒の味。

 口の中で混ざりあって鼻の奥に上がって、頭の中に充満する。そうなれば、たちまちに訳がわからなくなる。


 どうも最近は寝てばかりだ。




 まいどどうも。もうやめられないでしょう。

 私の名前? どうでもいいじゃないですか。

 へへっ、はい、お代は確かに頂きました。




 目を開けると、部屋の中が薄暗かった。

 我ながら呆れたものだ。どれぐらい眠っていたのか見当もつかない。

 長く寝た割になんだか妙な夢、人から金でも貰ってるような夢だったから、損をした気がする。


 卓を見ると、豚肉と青菜を醤油で煮たのと饅頭まんとうが置いてあった。飢えに飢えた腹に突っ込むと、塩気と脂が体中にみなぎっていくのがわかる。

 葡萄酒は脂気のあるもので飲むのが一番だ。

 それにしても、日がな一日寝てるだけでも、腹というのは減るものらしい。

 吸い込むように食べてしまった。

 たっぷりの砂糖で照りを出した煮物は値も張るのに、勿体ないことをした。


 さすがに腹の奥から脂が登ってくるような気がして、久し振りに外の空気が吸いたくなる。

 上着を引っ掛けて外に出ようとしたら、出入り口の辺りが土で汚れているのが気になった。


 しばらく部屋から出ていないのだが――小鈴が出入りする時に汚れたのだろうか。

 使用人相手とはいえ、小綺麗にしろ、などと他人に言えるような立場ではない。


 汚れなど、何もなかった。

 それでいい。


 中庭に出ると、日は沈みきってはおらず、西の空はまだ薄赤い。鴉の声がうるさく、不気味で、なんとも不快だ。

 気分が悪くなって、空から目を逸らす。

 逸らした先の石畳には、無数の泥の足跡。

 使用人か。

 いや、足跡が向かう先は西廂房にしのへや

 使用人の部屋ではない。今は空き部屋だ。

 石畳は、毎日掃除されているはず。

 それなのに、人の歩いた跡が出来ている。


 何なんだ。

 気持ちの悪い。


 何だか無性に気になって、自然と西廂房に足が向く。もし使用人が勝手に使っているのなら、さすがに小言を言わねばならない。


 扉を開けると、薄暗い部屋にが充満し、床にはいくつもの麻袋が置かれていた。

 適当に一つ持ち上げてみると、想像に反して結構な重みがある。

 開けてみると、大量の銅銭が入っていた。


 頭が追いつかず途方に暮れていると、私の足を何かざらついた物が撫でる。

 驚いて下を見れば、そこには白黒半々の、気味の悪い、獏。


 さっきは気が付かなかったが、床にはいくつもの夢の玉が転がっている。


 獣の臭いに耐えきれなくなり、また中庭に出て大きく息を吸う。中庭の隅に植えた樹木の緑が、僅かばかりだが心を癒やしてくれる。

 石畳の中庭も、その一部は木々を植えるために土のままだ。どれもしっかり根を張っていて、当分は枯れることはないだろう。


 木の皮に触ってみたくなって、北東の一本に近づいてみる。まだそこまで大きくはないが、成長に問題はなさそうだ。


 根の具合はどうかと視線を落とすと、そこの土には妙な膨らみがあった。


 木の根で盛り上がったにしては形がおかしい。

 人が掘って、何かを埋めて戻したような形だ。

 思い返せば、随分前になるが妙な夢、この中庭でを埋める夢を見た気が――







 考えるのは、やめよう。

 私はただ、夢に溺れていれば、それでいい。


〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

中華幻想小説集 鯖虎 @qimen07

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画