第四集 貪夢
朱や金で彩られた典雅な部屋の中で、私の前には葡萄酒が入った青磁の壺が置かれ、肉や魚の、名前もわからぬ豪勢な料理が並んでいる。
隣に座るのは透き通るように白く、目鼻の整った
鼻の奥を
全部、全部だ。
この世の全てが溶けて混ざったその香りが、肺を満たし、体を巡り、全身を潤す。
そうだ。この感覚だ。こうでなければ。
酔った私に
その熱は、私の体をたっぷりと満たす。
満たした次は、その次は――
寒くもなく、暑くもなく。
仕事もなく、さりとて別段楽しみもなし。
夢から醒めれば興も醒める。待っているのは退屈で、陰鬱で、今にも頭が腐りそうな暮らし。
嫌なものだ。
かつて詩人は、司馬は老後を過ごすのに丁度いい仕事だと言った。なってみればその通り、これといって仕事はなく、俸給は狂いなく、規定の通りに支払われる。
受け入れてしまえば、生きるのは容易い。
だが、案外受け入れるのは難しい。
魑魅魍魎の
劉忠。
名を思い出すだけで腹が痛む。
横恋慕、
そして、今まで
代わりに与えられたのは、柳州司馬という名ばかりの官職。私の妻は、もう妻ではない。
そして、私は日々暇を持て余していた。
一応は柳州刺史張清廉という上司がいるが、およそ勤勉とはかけ離れた人物だった。
職務上州の政の責任を負っているのだが、本人はまるで実務に興味がなく、ひたすら文才に優れた若者を探している。
科挙の受験を許可するのも仕事の内であるから、まるで仕事をしていないとは言えないが、文芸が絡まない仕事は何もしないのだ。
赴任早々、張刺史は私にいくつか詩を書いてみろと言った。そして、詩を献上した後に返ってきた言葉は、屋敷で好きに過ごせだった。
その結果、私は日々部屋の中で何をするでもなく暮らしていた。刺史と私の間に他の上司もいるのだが、誰も私に関わろうとしなかった。
そうして始まった退屈な日々は、思いもよらぬ毒を持っていた。
夢を見るようになったのだ。
劉忠と、妻の夢を。
何度も何度も、嫌な所を、繰り返し。
寝ては悪夢を見て、起き、疲れ、寝て、また悪夢を見る。
疲れは癒えず、漠然とした不安や誰かに陥れられる恐怖、私を嫌った妻が劉忠をそそのかしたという想像が、ひたすらに私を苦しめ続けた。
彼女が現れたのは、そんな時だった。
燕瑛玉。
白黒半々の不気味な獣を連れた、小柄な女。
普通なら、素性の知れぬ者が屋敷に来ても追い返す。だが、彼女は使用人に向かって、旦那様が悪い夢にお困りのようですので、と言ったのだ。
藁にも縋る思いで招いた女は、悪い夢を預かり、代わりに楽しい夢を見せると言った。
そして、悪い夢には預かり料、楽しい夢には夢貸し料をもらう。支払いが滞れば悪い夢は返し、楽しい夢は取り上げると言って、竹の筒を二つ取り出した。
それぞれの竹筒から出されたのは、丸薬のような二つの玉。一つは虹色に輝く銀の玉、もう一つは真っ黒な玉だった。
銀は美夢、黒は悪夢の玉。彼女が連れる
預かり料を聞くと払えない額ではなく、悪夢の預かりも美夢の貸し出しも、三日間は無料ということだった。
夢の玉は、そのまま水で飲めばいいらしい。
なんとも怪しい話だが、私は彼女に悪夢を預かり、苦しみから逃げられる夢を貸してくれるよう頼んでいた。
逃げられるなら、なんでもよかったのだ。
そして私は、夢に溺れた。
陰鬱で、退屈で、頭の腐りそうな暮らし。
頭が冴えない。
夢から醒めた私の頭は、今日も霞がかかっていて、使い物になりそうにない。
呆けていると、扉を叩く音がした。一緒に聞こえるのは、下女の小鈴の声。早朝から不躾な奴だと怒りが湧いたが、窓の外は明るく、日は高い。
遠くから、微かに寺の鐘の音が聞こえる。
これで寝起きに何だと叱りつけるのは、いくらなんでも道理のない事だ。
布団から這い出て入室を許すと、使用人にしては随分上等な服を着た女の姿が見えた。両手で大きな酒壺を抱えている。
「
酒、酒、そんな物頼んだかな。最近どうも飲みすぎるから、酔った時に頼んだかもしれない。
そういえば、この間酒を頼む夢を見た。どうやら、私は呆れる程に酒を飲みたかったらしい。
しかしまあ、おかしなものだ。
飲む所ではなく、頼む所を夢に見るとは。
「おお、そこに置いといてくれ。それにしても、随分いい服だな」
「はい、昨日仕立て終わりまして。本当にいい物を頂きましてありがとうございます」
小鈴が
「いつ渡したんだったかな」
「お忘れになったんですか? 十日前ですよ」
「そう……だったか。少ししたら朝飯を頼む」
「畏まりました」
小鈴が引き下がり、扉が閉まる。
早速壺の中身を見てみると、芳醇な香りが鼻を
薄気味悪いが、酒は酒。
柄杓を使い、青磁の酒入れに移し替える。
脚のある、てろりと光る瑠璃の酒杯――かつての栄華の名残に注げば、卓上の一箇所だけは長安の綺羅びやかさを取り戻す。
酒で夢の玉を飲み、葡萄の香りを肺の奥まで取り入れる。何口か飲んだところで小鈴が干し肉入りの粥を持ってきたから、すぐに食い始める。
引き下がる小鈴の、衣の柄。
あれは、そうだ。
胡姫が着ていたのと同じだ。
米の甘み、干し肉の塩気と旨味、酒の味。
口の中で混ざりあって鼻の奥に上がって、頭の中に充満する。そうなれば、たちまちに訳がわからなくなる。
どうも最近は寝てばかりだ。
まいどどうも。もうやめられないでしょう。
私の名前? どうでもいいじゃないですか。
へへっ、はい、お代は確かに頂きました。
目を開けると、部屋の中が薄暗かった。
我ながら呆れたものだ。どれぐらい眠っていたのか見当もつかない。
長く寝た割になんだか妙な夢、人から金でも貰ってるような夢だったから、損をした気がする。
卓を見ると、豚肉と青菜を醤油で煮たのと
葡萄酒は脂気のあるもので飲むのが一番だ。
それにしても、日がな一日寝てるだけでも、腹というのは減るものらしい。
吸い込むように食べてしまった。
たっぷりの砂糖で照りを出した煮物は値も張るのに、勿体ないことをした。
さすがに腹の奥から脂が登ってくるような気がして、久し振りに外の空気が吸いたくなる。
上着を引っ掛けて外に出ようとしたら、出入り口の辺りが土で汚れているのが気になった。
しばらく部屋から出ていないのだが――小鈴が出入りする時に汚れたのだろうか。
使用人相手とはいえ、小綺麗にしろ、などと他人に言えるような立場ではない。
汚れなど、何もなかった。
それでいい。
中庭に出ると、日は沈みきってはおらず、西の空はまだ薄赤い。鴉の声がうるさく、不気味で、なんとも不快だ。
気分が悪くなって、空から目を逸らす。
逸らした先の石畳には、無数の泥の足跡。
使用人か。
いや、足跡が向かう先は
使用人の部屋ではない。今は空き部屋だ。
石畳は、毎日掃除されているはず。
それなのに、人の歩いた跡が出来ている。
何なんだ。
気持ちの悪い。
何だか無性に気になって、自然と西廂房に足が向く。もし使用人が勝手に使っているのなら、さすがに小言を言わねばならない。
扉を開けると、薄暗い部屋に獣の臭いが充満し、床にはいくつもの麻袋が置かれていた。
適当に一つ持ち上げてみると、想像に反して結構な重みがある。
開けてみると、大量の銅銭が入っていた。
頭が追いつかず途方に暮れていると、私の足を何かざらついた物が撫でる。
驚いて下を見れば、そこには白黒半々の、気味の悪い、獏。
さっきは気が付かなかったが、床にはいくつもの夢の玉が転がっている。
獣の臭いに耐えきれなくなり、また中庭に出て大きく息を吸う。中庭の隅に植えた樹木の緑が、僅かばかりだが心を癒やしてくれる。
石畳の中庭も、その一部は木々を植えるために土のままだ。どれもしっかり根を張っていて、当分は枯れることはないだろう。
木の皮に触ってみたくなって、北東の一本に近づいてみる。まだそこまで大きくはないが、成長に問題はなさそうだ。
根の具合はどうかと視線を落とすと、そこの土には妙な膨らみがあった。
木の根で盛り上がったにしては形がおかしい。
人が掘って、何かを埋めて戻したような形だ。
思い返せば、随分前になるが妙な夢、この中庭で何かを埋める夢を見た気が――
考えるのは、やめよう。
私はただ、夢に溺れていれば、それでいい。
〈了〉
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