中華幻想小説集

鯖虎

第一集 欠心

 張東春ちょうとうしゅんは本を読んでいた。

 畑仕事の合間、皆がそこら辺に腰掛けて一息ついていた時のことだ。皆が水筒の水を飲んだり、息抜きの雑談に興じたりしているなかで、東春は論語を読んでいた。

「お前いつも本読んでるな。飽きないのか?」

 そう言って笑う汪福九おうふくきゅうは、火照った体を冷ますように着物の上半身をはだけ、仲間内で野菜を収穫した後の料理の相談をしている最中だった。

「俺は漢の役人になるからな。読み書きと礼儀は知らないと」

 東春がそう答えれば、応援でも嘲笑でもない、気の抜けた返事が返ってくる。

「そんなもん、俺達にゃ無理だよ。だってよぉ、なぁ?」

 福九は己の胸のあたりを軽く叩き、そこにぽっかりと空いた穴を示す。

 穴の向こうには、畑の景色がよく見える。

「漢人はな、俺達のことを人の心がないと思ってるんだ。役人になんかしちゃくれないよ。お前はせっかく頭がいいんだ。畑のことを考えてくれた方が、皆飯が食えるようになるんだけどな」

「俺は漢人に貫胸国かんきょうこくにも人材ありと知って欲しいんだよ。同じ知恵と心を持った人間だとわかってくれれば、俺達はもっと生きやすくなる」

 東春が口にした貫胸国という名は、彼ら自身が付けた名ではない。

 彼らはその長の名を使って汪人と名乗るが、漢の国の人々は、自分達とのあまりに大きな違いである胸の穴ばかりを気にして、彼らを貫胸国の貫胸人と呼んだ。

 食料目当ての交易はするが、漢人は彼らを自分達と同じ程度の知性や道徳があるものとは思わずにいて、粗暴で愚劣な蛮族として抑圧した。

 顔立ちも似ていて、言葉も通じるが、それでも等しい立場の人だとは思わなかった。

 そして彼らが農地や狩り場を広げようとすれば、武器を持って威嚇した。

「まぁ、そうだなぁ。それで畑が広げられれば、もっと子供が作れるな」

 福九は代々国を治める汪氏の者で、この南水の村を取りまとめていた。

「漢人は、俺がお前らに棒で担いでもらって移動してると思ってるからな。そういう誤解を解いてきてくれ」

 彼が言うのは、漢の商人に聞かされた話だ。

 あちらの伝聞では、貫胸国では身分の高い者は胸の穴に棒を通し、人に担いで運ばせるとある。

 漢では貴人は輿こしに乗り、下人げにんに担がせるというから、そこから想像を遊ばせたのだろう。

 汪人には、まるで理解し難い発想だった。

「もちろんだ。汪氏は義を知り徳があると、しっかりわかってもらうさ。そういえば、最近漢の商人が来てないな。まずは街の官吏と繋いでもらわないといけないのに」

「そうだな。川の向こうの漢人も、最近若いのが減ってきてるし、何かあったのかも知れないな」

 東春はその言葉を受けて、近頃の対岸の村の様子を思い出してみる。確かに福九の言う通り、畑に出ているのも老人ばかりな気がしてきた。

 飢えか、病気か。

 それにしては体の弱い者が残っているから、規模の大きな狩りにでも出かけているのか。

「ちょっと川岸の方に行って見てくるよ」

 溢れた疑問に居ても立っても居られなくなり、彼は福九に断りを入れて立ち上がり、川辺に向って歩いていった。

 春の草花が風に揺れる中を歩いていると、川の側に何か黒っぽい塊が見えた。

「獣かな。食えるかな」

 東春はそう呟いて塊に駆け寄ってみたが、それは期待に反して獣ではなく、冠を被り、ずぶ濡れで蹲った人間だった。

 川の水に濡れでもしたか、ガタガタと小刻みに体を震わせている。

「おい、大丈夫か」

 そう声をかけると、それはビクリと跳ねるように頭を上げた。眉が細く、色白の男だった。

「こ……ここは?」

 おどおどとした様子で辺りを見回す男の頭には立派な冠が乗り、袍の生地も見事な物だった。

 漢の役人かもしれない。

 そんな考えから、男を見下ろしていた東春は地面に膝をつき、目線を下げる。

「ここは南水という村です。お怪我はございませんか?」

「南水、南水……聞き覚えのない地だな。遠くまで来たな。私は宋盛徳。益州永昌郡太守の下で働いていたが、戦が嫌で逃げてきたのだ。おい、しばらく匿ってくれ。金ならあるぞ。学問も教えてやろう」

「まあまあ、まず一息つかれては」

 猛然と話し出す盛徳の勢いに押され、東春は腰に提げていた水筒を差し出す。

 それを見て己の慌ただしさが恥ずかしくなったのか、盛徳はゆっくりと深く息をした。

「水はいらん。川で嫌という程飲んだわ。船がひっくり返って酷い目に遭った」

「そうですか。では村の方で服を乾かしては」

「おお、頼む」

 そうして招かれた珍客は、とにかく漢の身分ある人間として、村の集会所で福九と東春に手厚くもてなされた。

 貴重な茶が煮られ、贅沢ではないが暖かく、腹の膨れる食事が出された。

 そして、盛徳は彼らの胸に空いた穴に大いに驚いた。

「東春よ。その穴が痛いとか、寒いとか、そういうのはないのか?」

「ございません。生まれた時からこうですので」

「大きさはなにか関係があるのか? お前は他の者より穴が小さいな」

「さて、それは考えたことも……」

「そうか。まあその穴も驚いたが、何より戦を知らぬというのが驚いた。対岸の村に人がいないのは、大きな戦で若い男が兵に取られたからだ。黄巾賊の乱が落ち着いたと思ったら、帝が崩御されて大騒ぎだ。洛陽の都にも火が放たれたんだぞ。それなのに呑気なものだ。お前だって、武器ぐらい見たことあるだろう?」

「ございますが、てっきり狩りのための物かと。何故わざわざあんな物で人を殺すのですか?」

「何故? 何故、か。天下泰平のため、己の欲得のため、親兄弟の敵討ちのため。色々だな」

「はぁ、よくわかりません。自分も死ぬかもしれないし、一族の数も減りますよね」

「数? まぁ、そうだな。それより義なり孝なりを重んじたり、欲に目がくらんだりするんだろう。私は戦から逃げてきた人間だがね。あれは、人の世の悪が詰まったものだ」

 悪、そして善。

 東春が、書物を読んでもよく理解できない物の一つだった。

「その善悪がまたわからないのですよ、宋大人たいじん。自分達が増えるのは善いこと、死んで減るのは悪いことではないのですか。私は論語を読んでいますが、どうもそれがはっきりとしないのです」

「それはまた難しいことを。それにしても、何故論語を?」

「漢の役人になりたいのですよ。そのための基礎です」

「なるほど、官吏に。身の栄達を望むのか?」

「いえ、我々も同じ人だとわかって欲しいのです。川向うの漢人は私達の胸の穴を見て、人の心が無い、残虐な連中だと言うものですから。それこそ私達は無益に人を殺めたりもしませんのに」

 そう訥々と話す東春を見て、盛徳は少し考え込むような素振りを見せた。そして、福九の方へ向き直って、本当に戦を知らんのか? と聞いた。

「知らないなぁ。俺達は食い物は皆で分け合うし、身分の上下も漢人みたいに厳格には分けないんだよ。本当はあんたみたいな官吏には、東春みたいに喋るんだろうけどさ」

「ふむ。戦はせぬ、身分も分けぬ、か。罪人はどうだ。ここしばらくで、どんな奴がいた?」

「罪人ってどんな奴だ」

「なんだと? 法に触れた奴のことだ。例えば物を盗んだり、人を殺したりした奴だよ」

「なんでわざわざそんなことをするんだ?」

「それは、そいつが悪に染まっているからだろうが。人の本性が善か悪かは議論が分かれるが、いずれにしても悪しき輩と交わったり、貧苦に喘いだりすれば悪心が生まれやすくなる。だから有徳の者が天を治め、人が皆礼を知るようにせねばならんのだ」

「へぇ、悪心ねぇ。どうも胸が苦しくなりそうなもんだな」

 ゆったりと茶を飲みながらそんなことを口走る福九を見て、盛徳は難しい顔でため息をついた。

「お前らに人の心が欠けているというのは、間違いではないかもしれんぞ。お前らからは欲にまみれた悪心も、君子の如き徳も感じん。だが、そのお陰で平穏な世を造ったようにも見える」

 信じられないとばかりに首を横に振る盛徳は、異物との対話に疲れたか、青白い顔をしていた。

 いつの間にか日も沈みかけていて、粗末な屋敷の中では人や柱の影が長く長く伸びていた。

 夕日に照らされた室内はうっすら赤みを帯び、誰も彼もぼんやりとした輪郭を持つだけで、お互いの影同士が滲んでしまう。

 その中で、冠を被った盛徳の影だけは、はっきりとした形を示していた。

 福九の影の曖昧な輪郭は、ぼりぼりと頭をかいている。

「そんな面倒なこと考えてたこともないなぁ。あれ、なんだ、もう日が暮れるじゃないか。あんた逃げてるんだろ? この村にいてもいいぞ」

「そうか、ありがたい。東春よ、論語を学んでいるのであれば、私が講釈してやろう。お前の家に宿を貸りられないか」

「ぜひおもてなしさせてください」

 東春の返事を効いて、話は決まったとばかりに福九はパンッ、と手を叩く。

「よっし、決まりだ。東春は今日はもう畑はいいや。明日の朝皆に紹介してやろうなぁ」

「そうだな。では宋大人、私の家までご案内しましょう」

 そう促された盛徳は福九と東春に礼を述べ、その宿となる場所へ向かっていった。案内されたのは、しっかりとした造りだが、どこか飾り気や遊び、寛ぎのない家だった。

「こちらの部屋が空いておりますので、お使いください。申し訳ございませんが、少々お待ちを」

 客人を待たせた主は部屋を辞したかと思うと、すぐに本を手に戻ってきた。

「早速ですが論語の講釈を。灯明も限りがありますので、日が沈み切る前に少しでも」

 東春の恭しく書物を開く様子に、盛徳は思わず笑みを見せる。この村で本を読み、彼に対して敬意を見せるのは東春だけのように見えたのだ。

 気を良くした盛徳は、鷹揚な調子で東春の求めに応える。

「いいぞ! しかしあれだな、お前らの国は素晴らしいが、心に欠けがあると漢人を治めるのは難しいかもしれんな」

 何気なく発せられたその言葉に対して、東春は何故でしょうかと問い返した。その顔は怒るでもなく悲しむでもなく、至って平静な様子だった。

 ただ単に、論理の筋道がわからないといった様子で盛徳の顔を窺っている。

「宋大人のような方が仰るのであれば本当に欠けているのかもしれませんが、治めるのが難しいというのは何故ですか? 先程は、我々の国を理想的だと」

「お前らの国の平穏は、心に欠けがある故だからよ。民は必ず悪心を持つもの。水の流れる理を知らねば治水はできないだろう? 人を治めるのも同じことだ」

「そうですか。ではやはり、悪心というのを知る必要がございますな」




 その夜のことだった。

 暗闇の中身を起こした東春は、枕の下に忍ばせておいた包丁を手に取り、足音を殺して盛徳の部屋へ向かった。

 眠らずに体を横たえていただけだったから、目はすっかり暗闇に慣れていた。

 だからだろうか、東春の足取りに迷いはない。

 彼は静かに戸を開いて、忍び足で歩き、盛徳の枕元に膝をついた。

 そして、包丁で喉を突きその息の根を止めた。

 暗闇の中で盛徳は盛徳だった物に変わる。

 血溜まりが広がり、あんなにはっきりしていた輪郭をぼかすから、盛徳だった物は少しだけ暗闇に溶けてしまう。

 盛徳の輪郭がある内に、熱がある間に、完全に闇に溶ける前に――東春は屍に包丁を突き立てて手早く腹を開き、腹の膜を切り、手を突っ込んで心臓を取り出すと、黙ってそれを貪り食った。




 食い終わった東春が向かったのは、福九の屋敷だった。鍵のかからぬ扉を開けて、その寝室へと歩を進めていく。

 夜も明けぬ内のことで、家主は当然のように眠りこけていた。東春が枕元に座って声をかけると、目を開き、怪訝な顔で上体を起こした。

「東春か? なんだよぉこんな夜中に」

「福九、これを見ろ」

 東春が服を胸までまくり上げると、福九は驚いたように目を見開いた。

「穴が塞がってるなぁ。どうした?」

「盛徳の心の臓を食べた」

「殺しちゃったのか。なんでわざわざ」

「知りたかったんだ。盛徳の言う心の欠けが、どんなものか」

「そうかぁ。わかったのか?」

 朴訥とした問いかけに、東春もまた平板な調子で答える。声の調子は抑揚がないが、その目にはどことなく欲深い光が宿っていた。

「欲しい。なんだかよく分からんが、とにかく何かが欲しい。狩りで大して役に立ってない者が肉を食ってるのが気に入らん。それに、お前の妹が欲しい」

「妹ぉ? 今はだめだよ。ちょっと待ってから声をかければいいだろ」

「違う。俺の子だけを生んで欲しいんだ」

「なんでそんなこと考えるんだ? 変な奴だな」

「そうだな。だが、多分これが悪に繋がるんだろうよ」

 東春はゆっくりと立ち上がり、まくり上げていた服を直した。そして、食い物と武器になるものをくれと言った。

「戦を近くで見てみようと思うんだ。そうすれば、悪が何なのか分かるだろ。その反対は、善いことだ。漢人の考え方がわかるかもしれない。必要なら漢人の心臓を取ってきてもいい」

「それで何かいいことあるのか? わざわざ戦なんかするようになっても困るぞ」

「漢人は殺したり盗んだりしてるのに、俺達より数が多いだろ。善悪と欲がわかったら、皆で腹いっぱい食って、沢山子供を作れるんじゃないか」

 彼の出した答えを聞いて、福九はあまり考え込む様子もなく、行ってこいよと言葉を返した。

「本当に増えるんなら、ちょっとぐらい死んでも仕方ないかぁ。俺にも心臓持ってきてくれよ」




 数年の内に、彼らは急速に彼ら自身の組織化を進め、戦で疲弊した漢人を国境から追い払い、農地を拡大した。

 農業や治水に詳しい者が上に立ち、その命に従って作業をすることで、食料の余剰が生まれた。

 余剰は力のある者のもとに蓄えられ、蓄えを手にした者は多くの子を成すようになった。

 そのまま勢力を拡大するかに見えたのだが、彼らが国境を荒らして困るとの訴えがついに益州太守に届き、多くの兵が差し向けられた。

 大戦の合間のこと、戦慣れした漢人の兵に雪崩込まれれば、彼らに抗う力などなかった。

 長い時間をかけて作られた彼らの、少なくとも飢えや嫉妬の苦しみとは無縁だった楽園は、かつて彼らの心に欠けていた部分――欲と悪心によって失われたのだった。


〈了〉

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