船旅 Ⅱ



   船旅 Ⅱ



 戸を叩く音がする。男が、ショーの開幕を宣言する。私はいつの間にか劇場の客席に座っていた。一階席、前から十七列目。Q-18。真ん中から少し外れた位置に私は座っている。舞台に立つ男は相変わらずの大声で話をする。マイクや拡声器の類はなしだ。彼が演者の名前を叫ぶと、舞台の幕が上がる。が、そこには何もない。空虚な広がり。ただそれだけ。客は舞台をじっと見つめている。当然のことだ。客席は全て前を、舞台を向くよう配置されている。それが古くからの習しなのだから。前を向いた観客たちが突然笑う。ハハハ、と同じタイミングで、同じ長さで。ピタリと笑いは止む。沈黙が場を支配する。しかし、観客たちの頭の中では違うらしい。また笑いが起き、ピタリと止む。照明も動かず、オーケストラの登場も無い。突然、観客たちが皆一斉に、私の方を向く。ニコニコと、私を見ている。私は訳も分からず、膝に手を置いたまま固まって座っている。観客は次第に怪訝そうな表情へと変わってゆく。誰かが言った。「立ちなよ」。私は声に導かれるまま、ゆっくりと、恐る恐る席を立った。劇場中から喝采が起こった。彼らは私の体を腕で押し、私はみるみるうちに舞台の上へと導かれていった。どうやら「空虚」からのご指名らしい。舞台の上に立つと、私はくるりと観客席の方を向いて立ち尽くした。すると、肩の辺りに、グッと空気の重みを感じた。「いる」のは少なくとも感じられた。「それ」が見えないのが私だけであることも分かった。「それ」が私に問いかけた。どんな問なのか私には聞き取れなかった。ただそれが感じられた。私はどうすればいいのか分からない。皆はじっと私を見つめている。お前はこういうのを見るのが好きだっただろう、と私の趣味も、嗜好も、全て把握した上で、そんな訴えをしているかのようだった。私は口をつぐんでいた。すると、私の胸を何かが貫通した。呼吸の中混じる鉄の味が舌を掠めた。私の上衣は赤く染まった。もう、私の出番は済んだのだ。私はもう用済みであり、「空虚」にとって私の存在はもう無駄で、邪魔な存在でしかなかった。私はよろめいた。胸の激痛を和らげるため、胸に手を当てた。何かが胸に突き刺さり、肺を貫通している。が、それが何なのか依然私には分からない。舞台の上から突き落とされ、私は最前列の観客席に頭から突っ込んだ。その席の観客は、私の衝突に呻きを上げると、私の顔を蹴り飛ばした。私は床に突っ伏した。舞台では、別の観客が指名され、一人の少女がそこに立った。彼女は何かを大声で語った。私には意味が分からなかったが、筋が通っているようにも思えた。劇場中が立ち上がり、彼女に拍手を送った。私を気に掛ける人はいなかった。何とか地面を掴み、ふらふらと立ち上がると、劇場の出口へ急いだ。客席の勾配を上へ上へと昇っていくにつれて、肺の中に血が溜まり、息が詰まる。何度かの喀血を経験しつつ、私はようやく劇場の扉を両手で押し開いた。扉の向こうにあったのは例の三等船室だった。私は胸に突き刺さった「空虚」に手をかけた。ふぅーっと深く呼吸をし、一気に引き抜く。引き抜いた瞬間、私の手から「空虚」に触れていた感覚が消えた。傷もそっくり消えていた。いや、そもそもそんなものあったのか? 私は三頭船室の窓から外を見た。やはり、船は未だ湾内にあった。相変わらずの闇と前照灯。空が誕生へと逆行しつつある。疲れに襲われて、再び眠りにつく。また、荒野の夢を見た。ただ、仙人掌の花がもう無かったので、仙人掌を横目に見ながら荒野を過ぎるだけの夢になった。

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