第16話 青嵐(曹操軍)
握り締めていた手綱に力を籠め、
味方に減っている様子はない。完全な奇襲となって敵陣を混乱の只中に叩き込めた挙句に戦意を大いに削げたのだと実感する。
しかし、敵の戦意を大いに削ぐことが出来たとはいえ未だに敵の勢力の方が保持している戦力は雲泥の差だ。もう一押しするならば、先陣の手中になっている人物を討ち取る必要がある。
予断を許さない。張遼の耳目は、感は具に戦場の空気を察知する。
徐々に空気が重くなっている。包囲を受けていると判断するに十分だ。
「張遼殿」と後ろから進み出た李典もまた理解しているのだろう。滴る汗と赤らんだ顔が疲弊を物語っている。
「このまま突き進むのは無理があるでしょう。願わくば、敵方の支柱を砕きたいところ」
周囲を見渡し、地形を頭の中に思い浮かべる。今日に至るまでに細部まで突き詰めていた地図は身を逃すことが出来る場所を凡そ記してある。この近くならばと、張遼は思い浮かべた丘に顔を向けようとしたところで咄嗟に戟を振るった。鉄と鉄がぶつかる短くも甲高い音が空気を通った。
張遼の眼は、矢が飛んできた方角をしっかりと見定める。予想は正解だった。
丘の先端を睥睨する人影はこれまで目にしてきた者たちとは一線を画している。一言でいうのなら華美。旗を靡かせて騎上に座す姿は堂々としている。
矢筒に手を伸ばし、番えて解き放つ。空気の悲鳴が聞こえるほどの速度で矢は突き進んで、崖に刺さった。鎮まった空気を破ったのは崖の上に在る人物だ。
「見事な腕前である」
賛辞の言葉は、驚くほどに軽い。少なくとも張遼にとっては何も昂らせはしなかった。騎馬を僅かに進ませ、一歩二歩ほど前に進めた。結んだ唇から出る言葉を皆が待ち望んでいると分かるほどに視線は集中している。
「漢ならば、そこより降りよ」
低く、硬い声が張遼の口から零れた。上げた目はしっかりと丘の上を見据える。
「貴殿は何故にここに来た?」
「無論、この地を我らが足掛かりにするためだ」
堂々とした返しは嘘偽りはない。それが余計に張遼の神経を逆撫でにする。戟を握る手には必然と力が籠る。
「我らは赤壁の地にて貴殿たちの前に敗れた。だが、戦う前より背を向けるなどという無様を晒してはいない」
大きくはなくとも良く通る張遼の声は男の耳に届いているようで表情はさっきまでとは違って険しくなる。言葉が癪に触ったというのは違うと張遼は判断し、後ろにいる李典に目配せをした。気づいて足を前へ進めて来る。
「南東に穴を作るつもりのようです。そこを突破すると見せかけ、北西より切り抜けて城に戻りましょう」
合肥城は南東に位置している。城は否が応でも目立つ存在であるため逃げ道として用意するのは当然の運びだ。道中には逃げ出した軍を殲滅するための用意が今頃十分に揃えている頃合いだろう。
「確かに張遼殿の意見に反対はありませんが、北西から切り抜けるのは無理があるのではありませんか?」
「敵はこちらが寡兵であることを既に知っているはず。包囲をしているのが証拠。そこに付け入る隙があります」
ジリジリと肌を照り付ける圧力が増したような気がし、張遼は目を走らせる。包囲が狭まったような気がしたのは気のせいではないようで率いている兵士たちは不安を顔に貼りつけている。時間はあまり残されていないと悟った。このまま包囲が狭まれば圧迫に耐えられなくなった誰かが逃げ出し、それを呼び水に崩壊を招くことになる。
「時間はありません。一息に突破するとしましょう」
これ以上は言葉を交わしている暇はないと暗に示すと張遼は南東へと上体を動かし、腹に力を込めて声を張り上げる。
「これより包囲網を突破する‼死力を尽くせ‼」
その声に奮い立った兵士たちが声を張り上げる。どの顔にも怯えはなく自分が何のためにこの場所に足を運んだのか思い出したようだった。
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