第15話 青嵐(孫権軍)
蓋を開けてみれば実に大したことが無い話だった。孫権は眼前で包囲された曹操軍の姿を目の当たりにして既に勝ったつもりだった。
「ここまで深く切り込まれるとは思いもよらなかったが好都合だ。逃げることが叶うなどと思うてくれるなよ」
包囲網は徐々に厚くなっていく。十重二十重と厚みを増していく様子は中央からでも十分すぎるほどに理解できているだろう。それでもなお、つい先ほど矢を打ち返してきたあの男の顔は一向に焦りを浮かべていない。この絶望的な状況を、盤面をひっくり返すことが出来るほどの策が未だに存在しているのか。
千にも満たない寡兵での突撃を鑑みるにこの突撃に全てを託していると見るべき。籠城戦で応じたところで数を頼みとするのが戦であるからには撃ち破るのは難しくない。実際に籠城戦も想定して本隊には攻城兵器を可能な限り積み込んでいた。
互いの動きを探りながらも状況は刻一刻と変化を続けている。
「あの男をへし折らなければこの戦の勝利はないかもしれないな」
完成した包囲網の只中に閉じ込められた曹操軍を一捻りにすれば支柱を失うことになる。あとはじっくりと圧殺していくだけで事は済む。勿論、包囲網の一部には穴が作ってある。精神的に追い詰められれば自らあの穴に飛び込んで、自ら首を絞めることを選ぶ。
しかし、この狂気の沙汰である突撃を仕掛けてきただけの男だ。並みの人間を基準に考えるなど愚考にも等しいことをまざまざと教えられることになる。
男が戟を孫権とは逆方向へと翳す。用意していた穴の方向だ。
「呆気ないな」
そんなあっさりと勝負が終わってしまう可能性が高いのかと思うと溜飲が下がる思いだった。
思い返せば、この突撃による被害は想像以上の酷さだった。深く切り込まれたことへの言い訳にもならない。
直後に戟を向けていた場所とは違う場所へと曹操軍は馬を進める。驚くべきことに曹操軍の士気はこの状況下であっても一向に衰える様子はない。寧ろ逆境に追い込まれれば追い込まれるほどに強くなっていくのか声に込められた熱量は増したようにすら思える。
包囲網の一角に食い込んだ曹操軍は苦も無くと言わんばかりの勢いで破って包囲網の外に出た。十万を号する大軍であるにしてもここに居るのは一握り。逃亡兵も数多といるだけに包囲網は張りぼてでしかなかったのだと思い知るほどの威力しかなかった。
しかし、数多と人が集まれば超人と凡人とで落差が生まれる。今まさに眼前で起きているのがこの状況だ。
「やはり、アレについていけるのはごく一握りのようだな」
包囲網をあっさり切り抜けることが出来るほどの突破力を発揮できたのはあの男が率いていた近くの軍団のみ。大半は未だ囲いの中に取り残されている。本命を仕留めることは叶わずとも寡兵で、しかも戦力の大半以上をすり潰すことが出来るのは大きな戦果だ。
「このまま残っている敵を…」
『潰す』と孫権が続けようとしたところで、包囲網を突破した軍が取って返す。人馬問わず慄く空気が丘の上に陣取っていた孫権の元にも伝わってきた。
進みゆく寡兵の敵に誰も手を出さない。道行く者たちが自分たちにとって仇なす者たちであると認識しているにもかかわらず動けないでいるのは、この序盤の戦いの結果を暗に物語っていた。
「あの男は…本当に『人』なのか?」
物の怪の類が気まぐれで人の姿を取ったと答えを与えられたほうが遥かにマシだった。
駆けて、駆けて、駆けて。
寡兵であるはずの敵は濁流のように孫権の先陣を呑み込んでいく。
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