4-2

「この度、瑞花様にお仕えすることになりました九垓と申します。よろしくお願いいたします」


 首の包帯が取れて早々、瑞花は一人の宦官からそんな挨拶をもらった。

 年齢は三十代ほどだろうか。見た目も声音も中性的なので判断がつかないが、落ち着いた雰囲気や笑みから自身よりも一回りは上であろうことは想像できた。


(確かこの人……桃花宮の窃盗事件の件で陛下と話したときに、そばにいた方だわ)


 つまり、雲奎の懐刀の一人、ということになる。

 これは、瑞花がそれだけの成果を上げたと喜ぶべきなのか、以前よりも目立ってしまうことに嘆けばいいのだろうか。


(まあ、陛下がこのような対策を取られなくても、私の知名度は上がってしまったわよね)


 それも、確実に悪いほうに、だ。

 というのも、貴妃を敵に回したからだ。


(これからのことを考えたら、貴妃様に媚を売っておくほうがよかったのかしら)


 しかし雲奎が愛しているのは、誰の目から見ても美羽蘭だけだ。そんな彼女の心象を損ねたくはないし、瑞花が今の生活を掴むことができたのは彼女のおかげだ。そのため、恩を仇で返すようなことはしたくなかった。


 といっても、美羽蘭はいずれ後宮を去って嫁ぐ身の上なので、この選択が瑞花にとって賢いものでないことくらいは把握している。

 だが彼女としてはどうしても、貴妃と仲良くなりたいとは思えなかったのだ。


(でもまあ、最悪殺されてしまったとしてもいいわよね)


 そもそも、今まで生きてこられたことが奇跡だ。だって瑞花は呪いそのものなのだから。

 だからそれがたとえ一時だったとしても、穏やかでまともな生活ができているだけで十分と言える。そのため、今後のことはあまり考えず、今が楽しければいいとそう考えていた。


 それに、父帝のことを考えれば、雲奎の対応はとてもまともだと言える。

 そのため、瑞花は九垓にぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございます、九垓さん。どうぞよろしくお願いいたしますね」

「……その、瑞花様。わたしは一介の宦官ですので、そのように頭を下げないでください」

「そうですか? ですが、私のためにわざわざ、お仕えしてくださっていらっしゃるのですし……」

「だとしても、です。瑞花様は妃嬪、わたしは宦官です。きちんと上の者としての態度を見せなければ、いずれ舐められてしまいますよ」

「そういうものなのですね……分かりました、以後気をつけます」

「はい。瑞花様の生活が少しでもよくなるよう、誠心誠意お仕えさせていただきますね」


 そう言う九垓は微かに笑みを浮かべて、頭を下げたのだった。






 そうして始まった新たな生活だったが、瑞花は驚いた。


(ものすごく、過ごしやすい……)


 というのも、九垓の配慮がとても行き届いているからだ。

 宮女や下女たちに対しての指示の出し方は的確だし、食べ物の好みが完全に把握されている。読みたい書物を伝えればすぐさま用意してくれるし、選書にも間違いがなかった。


(なるほど、これが優秀な人材というものなのね)


 一を聞いて十を知る、というやつだろうか。それを考えると、祖国の官僚たちの質はあまり高くなかったのだな、と感じる。

 どちらにせよ、九垓の存在は瑞花の生活の質を向上させるのに大いに役立ってくれたわけだ。皇帝の側近として働いていた理由が分かるというものである。


 また、先行虫除けが功を奏し、同じような下級妃に絡まれるようなことはなかった。


 が。

 それで本当に嫌がらせが怒らないかと言われたら、話は別だ。


 朝。

 裏口で何やら処理をしている九垓の後ろから、瑞花はひょっこり顔を出した。


「またですか、九垓」

「ず、瑞花様……どうしてこのような場所に……」

「ここは私の住まいです、私が状況を把握しておくことはいけないことですか?」

「……いいえ、失礼いたしました。そして仰る通り、また、です……」


 そう言う九垓の足元には、大量の毛虫が蠢いていた。

 きっと普通の妃であれば悲鳴の一つや二つ上げただろうが、祖国で劣悪な環境にいたことがある瑞花としては、こんなもの生ぬるい。なので「秋だから、そういう季節よね」と思うだけだった。


 しかしこんな幼稚な嫌がらせが、ここ数日続いているらしい。らしい、というのは瑞花が気づく前に九垓は処理してしまっているから、実際に何が起きたのか知らなかったからだ。


 だが、そういう嫌がらせが起きたことは知っている・・・・・

 ――瑞花は、自分への悪意に対してとても敏感だった。


(うーん、これ以上嫌がらせが続くなら……さすがに対策を練らないと)


 というのも、抵抗しなければ弱者だとみなされ、淘汰されてしまうからだ。


 瑞花は、別に死にたくない。いつ死んでも仕方のないことだとは思っているから、もしそのときがきたら抵抗はしないつもりだが、このようなことをそのまま見過ごすつもりはなかった。

 それに、今の瑞花は一人ではない。九垓だけでなく、少なからず身の回りの世話を焼いてくれる者たちがいるのだ。彼らに被害が向くのは本意ではない。


 そんなふうにつらつらと考えつつ、瑞花はいつも通り朝餉を口にした。


 しかし、咀嚼する前に停止し、口元に手巾を当ててそっと吐き出す。

 その様子を、九垓が驚いた顔で見つめていた。


「瑞花様、どうなさいましたか?」

「九垓……毒が入っています」

「……え」

「なので下げてください」


 そう告げると、九垓の顔がさあっと青くなる。そしてすぐさま、下女に医官を呼ぶように告げた。


(どうしたのかしら、そんなに慌てて)


 そう思い、首を傾げていると、九垓は瑞花を背負う。


「瑞花様、しっかりなさってください……!」

「九垓……私は大丈夫です」

「大丈夫? 口から血を吐いて、顔を真っ青にされている状態が大丈夫だと仰るのですか!?」


 それを聞いて、瑞花は自分が吐血していたことにようやく気づいた。

 だが同時に、思う。


(なんだ、そんなこと・・・・・だったのね・・・・・


 これくらいの毒で死んだことはない。もし死んでいたら、今瑞花はここにいないだろう。そんな環境だった。

 ただ、こういったときに大事なのは、必ず落とし前をつけることだ。


 でないと、手負いの獣はとどめを刺されてしまう――


(ああ、でも……眠たい)


 しかし報復はしないと。


 そう思いながら。

 瑞花の意識はふつりと切れ――かける前に。


『――――』


 別の何かが手を差し伸べて。




 変わった。

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