第六章(記憶)2

二.

G大学教授枝島一恵は市民の声を幾つか読み上げた。


1.W駅構内にいる人が炎に包まれ赤く燃えているように見えた。燃えているはずの当人も周りの人も気づいていなかった。どうしたらいいのか分からないまま見ていた。


2.在来線の改札を通ると、突然、真っ暗な空間になった。ホームには誰もいなかった。駅員もいなかった。音もなくホームに電車が入って来た。ドアが開いた。反対側のドアも開いた。その向こうに、本当のホームが見えた。慌てて、そこに行こうと電車に乗った瞬間、改札の前に戻っていた。


3.在来線のホームを改札に向かって歩いていると、後ろから走ってくる人の気配がした。頭から首まで包帯でぐるぐる巻きにしていた。身長や体格、黒のジャンパーにジーンズという服装から若い男だと感じた。ホームから線路に飛び込むのだが、またすぐに後ろから走ってくる。その繰り返しを何度か行った。


枝島一恵が、市民の声を読み上げる間に会場は静かになった。彼女の話に聞き入っていた。そして、三番目の事例を彼女が読み上げた時、市長の嶋山充が立ち上がった。

「それだ! 私はその包帯をぐるぐる巻きにした男に遭遇したんだ。五年前のことだった。夜の在来線のホームでその男に遭った。枝島教授の話は本当だ。何故なら、私も体験したからだ」

嶋山が関心を示していたのは、彼自身が、この奇怪な体験をしていたからだったのかと枝島一恵は納得した。

「枝島教授も嶋山市長も、何の話をしているんですか? この集まりはW駅と市民についての意見交換会です。オカルト趣味の集会ではありません!」

FT新聞副社長の小野山遼が注意した。


だが、先ほどまで静まり返っていた会場から声がした。

「私も、赤く燃えているように見える人を見たことがあります。怖くてずっと言えないままだったんですが」

女の声だった。

「頭から首まで包帯を巻いた男を僕も見たことがあります。夜の在来線のホームでした」

男の声だった。

その後、「実は私も」「実は僕も」と次々と会場から声が上がった。

「端村君。何とかしたまえ」

小野山が言った。

端村清一が立ち上がって舞台の中央まで行った。彼は会場に向かって言った。

「今から枝島教授と話し合いをしますので、しばらくお待ちください。今日は、あくまでもW駅と市民の関係についての意見交換会です。その点をご留意ください」

その時だった。前に出てきた端村の真下にいる信者の村勢が立ち上がって言った。

「僕も黙っていましたが、実は、奉仕活動の間に、何度も、在来線の改札を通ると、突然、真っ暗な空間になったことがあるんです。そこに見たこともない真っ黒な電車が入ってくるんです。そして、両側の扉が開きます。向こう側の扉の先に明るいホームが見えるんです。だから、慌てて、停まっている電車を通り抜けようと乗ると、その瞬間、また在来線の改札の前に戻っているんです。信者の仲間に話そうかと思ったのですが、みんなが怖がるといけないから、黙っていました」

真剣に語る村勢を見て端村も困った。

「皆さん。少しお待ちください」

端村は、論者の座るテーブルに向かった。会場スタッフも舞台に出てきた。瀬上芯次の父と母も出てきた。

瀬上は慌ててフードを被った。

「オカルトミーティングに変わっちまった」

ジョニー無界が言った。

「ジョニーさんも、今のような体験はありますか? W駅の造形作品を作ったぐらいだから」

「無い。俺は記憶の中にあるW駅を再現して作品にするんだ。だから、W駅には創作当時も通わなかった。通わなくてよかったぜ。俺、苦手なんだ。幽霊とか」

「やっぱり、幽霊ですよね……」


杉原と牧多は会場の声に驚いていた。

「みんな、そういう不思議な体験をしているんだ。だったら、噂になって広がっていそうなのに。俺なら、すぐ人に話すけど」

「僕も含めてこの街の人って、事なかれ主義だから。話したことで自分が他人から変な目で見られたら嫌だとか。あと、大騒ぎになったらどうしようとか。そういうことを考えて言わないんだと思う。もちろん、違う人だっているけどね」

牧多は杉原の分析は核心を突いていると思った。


壇上では話し合いが終わった。スタッフは舞台から消えた。論者は、皆、元の席についた。

端村清一が会場に向かって話した。

「お騒がせしました。W駅と市民についての意見交換会を再開します。先ほどの枝島一恵教授の報告に関心のある方は、会の終了後に枝島教授に直接お尋ねください」

会場からは不満の声が上がった。

「今の話も、W駅に関して市民が悩まされていることです。途中で終わらせてはいけない」

「今回の意見交換会は、どうすれば、W駅と市民ボランティアの継続的な関係を構築できるかというテーマです。時間も限られています。ここに絞って話を進めます」

端村清一がそう言って議論を再開しようとした。

すると、枝島一恵が言った。

「最後に一つだけ言わせてください。この不思議な現象が起こり始めた時期が特定されています。三十年前です。それより前はありません。どうして最も古い話が三十年前だと分かったかですが、その話をした人たちに共通した明確な記憶があるからです。それは、三十年前の秋にこの地域を襲った大きな台風です。ずっと決壊しないと言われてきた堤防が決壊し、河川が氾濫して広い地域で冠水被害がありました。市民は大きな衝撃を受けました。だから、皆の記憶にはっきりと残っています。そして、三十年前にW駅で不思議な現象に遭遇した人は、その記憶が台風被害のことと結びついて記憶されています。繰り返しになりますが、それより前にW駅で不思議な現象に遭ったという話はありません。私はこう推察します。三十年前に、W駅で何かがあった。その何かがきっかけで、以降、不思議な現象が起こるようになった。同時に、W駅のゴミの散乱、喧嘩、泥酔客、窃盗などの問題が急に増え始めました。但し、残念ながら、私には、三十年前に何があったのかまでは、まだ突き止められていません」

会場の人々は枝島一恵の話に惹きつけられていた。

「もういい! 枝島教授。その話は、ご自身の研究発表で行ってください。『オカルト現象と都市工学の融合』という演題で」

小野山が怒った。


水越賀矢が席から立ち上がった。舞台中央に置かれた『日常的風景 W駅プラットホーム』に向かった。作品の正面にある階段を上ってホームの上に立った。

会場の人々は、彼女を見上げた。危険なほど高かった。舞台の高さに作品の高さ、それに彼女の身長を加えると、五メートル近くあるように思われた。彼女の頭がとても高い所にあった。

「やっぱり、これは、サーカスショーだ。危ないぜ」

ジョニー無界は、友人として作者として心配した。

瀬上は、彼女を見上げた。彼には楽しんでいるように見えた。


作品のホームの上に乗った水越賀矢の目の前に広がる風景は爽快だった。高所からだと、会場の千五百人の人々が、よりはっきりと見えた。そして、目の前に海が広がっているように見えた。

「皆さん。『救済される魂たち』代表水越賀矢には分かります。枝島教授が、何故、市民の声を報告したのかが。科学的、非科学的というカテゴリーを超えたところで考えなければ……」

そこまで言ったところで、

「水越賀矢先生。この会は、ある意味では、あなたが主役です。それを自ら、テーマから逸脱していくことは、無責任と言わざるを得ません」

と、小野山遼が立ち上がって背後から言った。

水越賀矢は振り返らず、そのままの姿勢で小野山に言った。

「小野山さん。現実に、会場に同じ体験をした人が、これだけいるのです。しかも、誰にも明かせないまま今日まで来た。明かせる機会がなかったからです。更に、そのことが、もしかしたら、W駅の問題の根本原因なのかもしれないのです。枝島教授が、人前で神秘的な話をすることには支障があるとしても、私は宗教家です。神秘的な世界を取り扱う専門家とも言えます。私が話をするなら何も問題ないはずです。ですから、とにかく、話を聞いてください」

会場から拍手が起こった。


「それでは話を続けます。W駅の奉仕活動の目的は、二つあります。一つ目は若者の魂の救済。二つ目は無念を抱いたまま天に昇れず、W駅に棲みついてしまっている魂の救済です。二年前、私も炎に包まれ人が真っ赤に燃えて見える現象に遭遇しました。その時からです。W駅でもがき苦しんでいる魂の救済をしなければと考えるようになったのは……」


水越賀矢は、二年前の秋のことを話した。礼命会二代目代表として熱心に信者獲得のためにビラを配っていたあの日のことだった。夕方になり、W駅でその日のビラ配りを終え、帰ろうとした時だった。駅から出てくる人が真っ赤に燃えていた。いや、燃えているように見えた。彼女は燃えて見える人を通じて強いメッセージを受け取った。W駅と礼命会の関係だった。


「W駅と礼命会に何か関係があると、そこに私の考えが至った時、赤く燃えて見える人々が元に戻りました。もがき苦しむ魂が、私に理解されたことから、一時でも、安らぎを覚えたのだと思いました。私は憐れに思いました。その後、礼命会の教会で、私は、隠されていた手紙を見つけました。宗田功佐久氏から青沢礼命氏に宛てた手紙でした」


会場の人々が、一斉に青沢礼命を見た。鼻から酸素を入れて車椅子に座る宗田功佐久を見るのを避けた分、視線は青沢に集中した。青沢は黙っていた。

『彼女は、やはり、手紙を読んでいた。そうなると、手紙の追伸の箇所が問題になってくる』


水越賀矢は、手紙の追伸の部分を全て暗記していた。

そして、会場で誦じた。

「追伸 以前、告解で、先生にお話ししました通り、随分昔のことになりますが、W駅で私の一人息子竜景が命を落としたのは、列車への飛び込み自殺でした。青沢先生が、私の話を聞いて、憐憫の情を抱いて下さったことは分かります。けれども、竜景は、余りにも身勝手でした。妻の言うことにも一切耳を貸さず、私の言うことにも反抗するばかりでした。たった一人の私の後継者である自覚もなく、街の不良とつるんで悪いことばかりをし、警察の厄介になることもしばしばありました。私は宗田グループを任せられない竜景を自分の息子だとは認めていませんでした。しかも、竜景は自殺によって人生から逃げました。あいつは負け犬です。青沢先生。負け犬の墓場のW駅に寄付などしないでください。もし、寄附をされるなら、私は信者総代も礼命会の信者も辞めます。何卒ご理解ください」

それは、宗田功佐久に関する重大な曝露だった。身辺警護の笠沼が椅子から立ち上がろうとした。宗田は背後にその気配を感じた。そっと手で制した。笠沼は宗田に従った。


会場の真ん中にいる男が感想を言った。

「親子関係は当事者にしか分からない部分もあるけど、それにしても、負け犬というのはひどいんじゃないかなあ……」

そう言うと、舞台の上の宗田功佐久を見た。反応がないので、ほっとした。

宗田には反応がないことを確認した女が言った。

「枝島教授が、まだ突き止められていない三十年前の出来事は、宗田竜景さんの飛び込み自殺ということですね。だから、W駅のトラブルは、宗田功佐久さんに追い詰められて電車に飛び込み自殺をした竜景さんの地縛霊が原因だということですね?」

あまりにもはっきり女は言った。だが、その女同様に会場の人々も、もう宗田を何とも思わなくなっていた。


青沢は、健康を取り戻した宗田功佐久を見て、咄嗟に病人を装わせた。そのことが、現実には何を意味するのか。今、会場の人々の宗田への反応を見て理解した。手紙のことに限らず、宗田が非難されるべき点の多い人物であるとしても、人は酷薄だと彼は思った。


女の質問に水越賀矢が答えた。

「竜景さんの自殺は三十年前のことです」

「竜景さんが、地縛霊ということですね」

女は満足したように頷いた。


その時、端村清一が大きな声で言った。

「水越賀矢さん。ちょっとストップしてください。まず、青沢さん。手紙のことは内容も含めて水越賀矢さんの言う通りですか? 宗田功佐久さんの名誉に関わることですから確認します」

青沢は気づかれないように隣の宗田のほうを見た。後ろに控える笠沼が小さく頷いた。

それを見て、青沢礼命は、

「はい。事実です」

と答えた。

端村は続けて言った。

「手紙については事実であることが確認できました。宗田さんの御子息が命を落とされたのも、三十年前で間違いないでしょう。ただ、そのことが、W駅のトラブルの原因だということにはなりません。この点の説明が必要になります。本来、意見交換会のテーマを全く逸脱しているため認められませんが、宗田功佐久竜景父子の名誉に関わることです。この場で、説明してください」


端村清一は的確な司会進行をするという評判通りだ。私のためにお膳立てをしてくれた。内心、ほくそ笑みつつ、水越賀矢は返事をした。

「はい。そのつもりです」

彼女は、造形作品の在来線のホームの真ん中に立っていた。それを会場から向かって左端に移動した。

「今から実証実験を行います。細かな説明は予断を与えます。そのため、すぐに実験に入ります。後ほど感想をお訊きします。壇上の皆様も、近くまで見に来てください」

彼女に言われ、論者は立ち上がると造形作品のほうに向かった。青沢も作品のほうに向かった。彼は歩きながら、水越賀矢の独壇場だと思った。論者は舞台の正面を避けて作品の周りに立った。


実験ではなかった。彼女は、突然、何かを演じ始めた。


『最期の瞬間』


ホーム端の水越賀矢は振り返って叫んだ。

「父さん。追いかけてくるな!」

偶然なのか、その先には、車椅子に座った宗田功佐久がいた。

「俺は父さんのような金の亡者にはならない!」

次に、彼女は父親を演じた。

「竜景! 世の中で金が一番大事なんだ。金が無くては何もできない。お前も跡継ぎとして早く宗田グループに入るんだ。私が、お前の甘ったれた性根を叩き直してやる。この世は金が全てだ。私のようにお前も偉くなれ。誰もが媚びへつらう優越感を味わう時、自分が人生の勝者だと確信できる。そんな人間は世の中にはほとんどいない。世の中の大部分は、負け犬ばかりだ。貧乏が嫌なら努力して抜け出さなければならない。その努力をせずに泣き言ばかり言うのは負け犬だ。竜景。お前は勝者の血を引く生まれながらの勝者だ。街をうろつく貧乏人たちとは違う!」

壇上の人々にも、会場の人々にも、彼女が演じている父親は、三十年前の宗田功佐久だと分かった。そして、逃げている若者は、竜景という宗田功佐久の一人息子だと分かった。

「駅員さん。一緒に竜景をつかまえてください!」

宗田功佐久が叫んだ。否、宗田を演じる水越賀矢が叫んだ。

竜景が、父功佐久に向かって再び叫んだ。

「あんたは狂ってる。俺は父さんとは違う! だから、俺は逃げる。これで父さんに永遠に俺はつかまえられない」

竜景は父功佐久に言った。電車が在来線のホームに入って来た。激しく警笛が鳴った。そして、ホームに入ってきた電車に向かって宗田竜景が飛び込んだ。

「逃げ切った! ざまあみろ!」


宗田竜景『最期の瞬間』だった。


水越賀矢は、竜景の最期を演じ終えた。二年前、神が彼女に伝えた本来の『最期の瞬間』に、かなり脚色が加えられたものだった。本筋を捻じ曲げてはいない。誇張された箇所が多かった。いかにも宗田功佐久が言いそうなことをつけ加えた。それにより、竜景が、その父に反発する純粋な青年と印象づけられるよう巧妙に改竄されていた。その演出が奏功し会場の人々の心を打った。ホームの周りにいた論者は、聴衆の反応の大きさに何も言えなかった。


「この広い会場には、私のことをご存知の方もおられると思います。私は神がかりです。神の意志を直接人々に伝える役割を担っています。今の場面は、二年前に神がかりになった時に、神が私に見せた宗田竜景さんの最期の瞬間です。時間はかかりましたが、今日、ようやく神の意志に従い、皆様に見てもらうことができました」


会場から年老いた男の声がした。涙ぐんでいた。

「死の寸前まで、父親に負け犬になるな、勝者になれと言われ、死んでからは、彼が命を絶ったW駅を負け犬の墓場と言われる。竜景さんが死んでも死にきれないのは当然です。宗田功佐久さん。今、あなたに話しかけても聞こえないようです。でも、教えてください。竜景さんのことをあなたは愛していたのですか?」

その言葉に会場の人々は壇上の宗田功佐久を見た。冷たい視線だった。車椅子に座る宗田功佐久は、鼻から酸素を入れ、焦点の合わない目で虚空を見ているだけだった。


「祈りましょう。宗田功佐久さんの魂を救済するために。そして、今も苦しんでいる竜景さんの魂を救済するために。皆さん。必ず、祈りは神に通じます」

ホームの上から水越賀矢は神に祈りを捧げた。彼女は宗田父子のことは祈らなかった。自らの勝利を祈った。勝利とは礼命会の壊滅だった。

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