第六章(記憶)

一.

意見交換会の最初に、端村清一から、壇上にある『日常的風景 Wプラットホーム』の紹介があった。造形芸術家ジョニー無界の紹介もあった。来場しているはずだと端村は来賓席にその姿を探したが、彼はそこにいなかった。

「本当は来賓席に座れって言われてたんだけど、挨拶させられるのが嫌で、こっちに隠れて座ってるんだ」

ニット帽を目深に被ったジョニー無界が隣でそう言った。瀬上は、同じ隠れるにせよ、彼と自分では、その意味合いが大きく違うと思った。


杉原と牧多は、W駅の造形作品の向こうに見える宗田功佐久を見ていた。

「宗田さんの跡を継いでグループの代表になったのは誰だろう?」

「そういうことは銀行員のお前のほうが詳しいはずだろ? 俺が知り合いから聞いた話だと、宗田さんの甥らしいぜ」

「宗田さんの子どもじゃないんだ。そういえば、青沢先生も亡くなった奥さんの話はしたけど、子どもの話はしなかった」

「宗田さんには子どもがいないんだと思う」

「今は全くの独りか。気の毒だな。それにしても、いつから、あんなに体が悪くなったんだろう?」

そこで後ろの席から咳払いが聞こえた。

二人は話すのをやめた。


壇上では市長の嶋山充の話が始まっていた。

「この街は穏やかな街です。それが良さでもありますが、そのためでしょうか。市民運動のような積極的な活動が起こりにくい場所でもあります。だからこそ、この度の運動を一時的なものに終わらせてはいけないと思っています」

嶋山は六十を過ぎたばかりの男だった。

「我々も、そのことを課題に考えています」

笹脇教子が答えた。

彼女は、緑色のパーカーを着ていた。水越賀矢に感化されていた。白を着ると信者と重なるので、緑色を着ていた。他にも、青やオレンジ色のパーカーを着て清掃活動を行っている市民ボランティアがいる。皆、水越賀矢の影響を受けていた。近いうちに入信する予定だった。

水越賀矢も、「私も笹脇さんと同じ考えです」と言った。


嶋山充は、市長になって二期目になる。彼は、瀬上芯次の両親の先輩にあたる。元は市役所の職員だった。機転がきくこと。仕事の正確さなどが評価され、秘書課に配属された。その後、長く市長の補佐をした。彼が秘書課に在籍する間に市長が四人交代した。その中には、能力不足を否めない人物もいた。その場合、彼が市長に助言ー事実上の指示ーをすることもあった。四人目の市長の就任に際し、副市長に選ばれた。嶋山も周囲も順当な人選だと思った。その市長は優秀な人物だった。しかし、病気で倒れ辞任した。脳出血だった。急遽、市長選になった。嶋山も出馬することになった。無名の新人候補だったが、副市長を務めた実績と誠実な人柄が評価され当選した。嶋山は勉強家だった。市長に就任してからも市政についてよく勉強した。そのため、彼の市政は早くに軌道に乗った。以降、嶋山充は堅実な市政運営を行ってきた。


端村が小野山遼に訊いた。

「市民運動の継続について話が出ました。小野山さんは、どう考えますか?」

「当面は、水越賀矢さん、笹脇教子さんの強いリーダーシップで引っ張っていけるから大丈夫だと思います。ただ、お二人がずっとこの活動に携わっていられるかは分からない。気が早いかもしれませんが、お二人が抜けた時の体制を考えておくことを私は提言します」

端村は私鉄①社長宮浜真男に質問した。

「宮浜さん。今回のことについて、どう思われますか?」

「在来線、私鉄①②を代表して、水越賀矢様及び教団信者の皆様、笹脇教子様を代表とする市民ボランティアの皆様に、この場を借りて、改めて、お礼申し上げます。正直に言って、W駅の状況については諦めていました。だから、劇的に改善されたばかりの今、分析するのは難しいです。もう少し、冷静になってからしか……」


嶋山充は、テーブルの端に座り、自分の右側に並ぶ論者の話を聞いていた。つまらない話だと思った。まだ始まったばかりだから仕方がない。会場の人々もそのことは分かっている。でも、彼が、つまらないと思う理由は別にあった。そして、そのことを彼はこの会場で話すことはできなかった。


青沢礼命が挙手をして端村に質問をした。青沢は会場を見て自分と宗田への視線を感じた。強引に登壇したことを正当化するためにも、質問しなければと思った。

「端村さんが、清掃活動の現場の取材で一番強く感じたことは何でしょうか? それが記事を通して読者にも大きな共感を与えたと思うのですが?」

司会進行席に座る端村清一は頷いた。

「記事には直接は書きませんでしたが、水越賀矢さんの教団の若者信者二十人が、心に抱える空疎さです。それを埋めるために、清掃活動に打ち込んでいるように私には見えました。本人たちを前にして失礼かもしれませんが、埋めようもない心の空疎さを、それでも、埋めようと毎日清掃活動に打ち込む彼らの姿に、私は、現代的かつ普遍的な人間像を見ました。何回かの連載記事に通底する趣旨はそのことです。読者の大きな共感を得たとすれば、記事の中の彼らの姿に読者は自分の姿を見たからかもしれません」

「ありがとうございます」

青沢礼命は礼を言って質問を終えた。

会場から端村清一に向けて大きな拍手が起こった。


瀬上芯次は、端村清一はいつも笑顔で信者の話を聴き歩いているだけだと思っていた。それが、そんなことを考えていたのかと驚いた。そして、まさに自分のことを言われていると思った。


端村清一は、水越賀矢に言った。

「『救済される魂たち』の信者二十人に対して、私の勝手な解釈で記事を書き、話をしてしまいました。水越賀矢先生は、この清掃活動で彼らに何を望んでいますか?」

彼女は答えた。

「彼らには、自分が生きにくい状況に置かれているのかどうかを自分で判断できるようになって欲しいのです。そのために、今、清掃活動という修行の実践を通じて、快い毎日を体験してもらっています。今の自分が快なのか不快なのかを知ろうとしても、不快しか知らずに生きてきたのでは判断できないからです」


会場の人々は水越賀矢の言葉に驚いた。清掃活動にそんな深い意味が込められているのかと壇上の彼女を見た。来賓席の信者たちも、水越賀矢を見た。感動していた。しかし、瀬上は疑問に思った。清掃活動の初日に、彼女はW駅の前で、W駅の清掃活動は打倒礼命会のための秘策だと言った。秘策だから具体的には説明できないが、信じてくれと言った。その話はどこに行ったんだろう? 信者たちは、すぐに彼女の言うことを信じる。やはり、入信の経緯の違いが、こういうところに現れると彼は思った。


嶋山充は、青沢礼命と水越賀矢は意味のある発言をすると思った。そして、ひょっとしたら、青沢礼命と水越賀矢なら、自分の話を理解してくれるだろうかと思った。

「あの二人は頭がいい。それに何より、二人は宗教家だ」

嶋山は小さく呟いた。

彼は今日、極めて黒に近いグレーのスーツに同じ色のネクタイをしていた。喪服に見えた。出かける時、彼の妻に止められたが、何故か無視した。会場に来てからも、会う人ごとに怪訝な顔をされた。今になって、どうしてこんな色を選んだのだろう? まるで喪服だと自分でも思った。


五年前のことだった。彼が市長になって、まだ間もない頃だった。慣れない公務の間にも、彼は市政について勉強をしていた。その日は日曜日だった。久しぶりの休日だった。午後から地方行政に関連する書籍を借りに市の中央図書館に行った。W駅から在来線に乗った。街の図書館には蔵書がなかった。目的の本を借りたら、すぐに帰るつもりだった。だが、図書館で長い時間、本を読んだ。夕方になっていた。嶋山は帰ることにした。陽が暮れかけていた。季節は春だった。外は暖かかった。再び電車に乗ってW駅で降りた。彼は街の中心地に近い分譲マンションに住んでいた。W駅から歩いて十五分ぐらいのところにある。在来線のホームに降りると陽は暮れていた。駅のホームに灯がついていた。日曜日の夕方過ぎ。ホームに人はまばらだった。春物のジャンパーのポケットに手を入れて改札に向かって歩いた。突然、暖かい春の夜の空気が生ぬるくなった気がした。彼の後ろから誰かが走って来た。足音がしたわけではない。でも、彼にはそれが分かった。若い男だ。振り返って見たわけではない。でも、彼にはそれが分かった。彼の隣をその人物が走り抜けた。嶋山は困惑した。性別も年齢も分からなかった。何故なら、その人物は頭から首まで包帯でぐるぐる巻きにしていたからだった。顔も全て包帯が巻かれていた。前が見えているのか嶋山は疑問に思った。包帯は血が滲んで赤くなっていた。しかも、ホームにいる他の客は、この奇怪な容貌の人物に何の関心も示していない。まさか、他の客には、この人物が見えていないのかと彼は思った。


嶋山は、その人物の後ろ姿を見て、若い男だと判断した。背の高さ、骨格、そして、黒のジャンパーにジーンズ、スニーカーという服装から、そう判断した。同時に、全力で走っているはずなのに、前に進んでいるのかどうか、分からないことに気づいた。足踏みをしているのではなかった。男は懸命に走っている。だが、前に進んでいないようだった。嶋山は、恐怖を感じていた。だが、目が離せなかった。それでも男はホームを移動し、ある地点まで来ると、突然、仰向けに倒れた。それから、子どもが駄々をこねるように手足をバタバタさせた。嶋山は足がすくんで動けなかった。そのまま見ていると、男は立ち上がり、線路に飛び込んだ。

咄嗟に、嶋山は助けに行こうとした。だが、体が動かなかった。声も出せなかった。

彼は男が飛び込んだ辺りを見ていた。

すると、再び、後ろから男が走って来る気配がした。動けなくなっている嶋山の隣を走り抜けた。更に、仰向けに倒れて、手足をバタバタさせた。そして、線路に飛び込んだ。

嶋山は顔から血の気が引いていくのを感じた。貧血を起こして倒れそうになった。でも、倒れることもできなかった。体は直立を強いられていた。男が彼の隣を走り抜けた。手足をバタバタさせて、線路に飛び込んだ。この後、二度同じことが繰り返され、若い男は現れなくなった。

嶋山充は、合計五回、顔を包帯でぐるぐる巻きにした男の反復動作を見せられた。


体が動かなくなったのは、俺を見ろと強制されたのか、見て欲しいという切実な思いだったのか。どちらにせよ、何かを自分に伝えたかったのではないかと彼は思った。

「お客さん。大丈夫ですか?」

駅員の声に彼ははっとした。

「嶋山市長じゃないですか? どうしたんですか?」

駅員は彼の顔を見て気づいた。

「顔に包帯を巻いた若い男が……」

「顔に包帯を巻いた男? そんな男、ホームにはいませんよ。それより、ホームに動けなくなっている人がいるとお客さんから聞いたので来ました。市長。気分でも悪いんですか?」

「いや、大丈夫。何でもないんだ。ありがとう」


嶋山充は、その夜から三日間、40度の高熱を出して寝込んだ。医者は過労だと言った。四日目には無理をして仕事に復帰した。それ以降、W駅を利用しても、あの包帯を頭に巻いた男は現れなくなった。だが、嶋山充の中では、あの日の若い男ー幽霊と言うべきかーが、自分に必死で何かを訴えていた。そして、自分はそれを理解できなかったということが、ずっと心に引っかかっていた。今日のW駅と市民の関係の意見交換会に出席することが決まった日から、嶋山は、ずっと五年前のあの日の出来事を考えていた。それだけに、月並みな話を聞くと、過度につまらなく感じるのだった。そして、青沢礼命と水越賀矢の二人の宗教家に何かを期待してしまうのだった。


G大学都市工学科教授枝島一恵が、「W駅と市民の関係」を議論する意見交換会の論者に選ばれた理由は、彼女が、W駅の問題を長く研究しているからだった。市民ボランティアについては、彼女は詳しくない。論者を選ぶ際、彼女を推薦したのは、W駅の現場の人間と市役所の交通関連の部署の人間だった。枝島一恵の以前からの主張は、「W駅の問題の多くは利用者数過多が原因である。問題解決を図るためW駅の拡張工事が必要」であった。W駅の現場、市役所の現場だけでなく、市民からも多くの要望がある。にもかかわらず、工事費用の捻出が困難との理由で、鉄道三線も、歴代の市長も、取り合おうとしてこなかった。今日の意見交換会には、市長と私鉄①社長の宮浜真男が出席する。枝島一恵から、二人にW駅の拡張工事の必要性について直接説いてもらおうということで彼女は選ばれた。枝島一恵自身も、絶好の機会を得たと思っていた。


彼女は五十代前半で、青沢と水越賀矢より少し歳上だった。黒の細身のスーツを着て短い髪をしていた。彼女はこの街の人間ではない。G大学に進学してこの街に住むようになった。研究者として、G大学で都市工学の研究を続ける傍ら、W駅の問題に関心を持って調査を続けている。


一日利用者数が、W駅のキャパシティを越え始めたのは、何十年も前に遡る。理由は、この街が都市部のベッドタウン化したことによる。人口が増えた。その増加した人口のかなりの部分が、通勤に鉄道を利用する。特に街の中心にあるW駅に利用者は集中する傾向にあり、利用者数の増加は現在にまで至る。このことは、枝島一恵以外の研究者も調べている。市民全般にも把握されていることだった。それでも、市と鉄道三線が動かないのは、やはり、工事費用の問題だった。市には特別な産業があるわけでもなく、財政は常に苦しい。鉄道三線も、W駅の拡張工事を行う場合、かなり規模の大きな工事になるため、それだけの工事費用を捻出することは難しい。枝島一恵に限らず、W駅の拡張工事の必要性を主張する他の識者も、そのことを分かっているため、強くは言えないのだった。それでも、枝島一恵は、拡張工事を行政と鉄道会社に実施させるため、丹念な調査をしていた。市民の意見を集めることに力を入れた。学識者の声よりも多くの市民の声が行政を動かすと彼女は考えた。「市長は選挙で選ばれる。市民の声は無視できない」ということだった。彼女はW駅利用者及び駅周辺の住民の声から拾い始めた。そこで、彼女は戸惑った。非科学的な訴えが非常に多かったからだ。つまり、水越賀矢の「人が赤く燃えて見えた」や嶋山充の「顔に包帯を巻いた男」と同じような話が次々と出てきたのだ。しかも、話の内容が重複しているものが多いため、それは見間違いだと一蹴することもできなかった。そもそも、枝島一恵自身も、W駅の持つ奇妙な何かに惹かれて研究を始めたのだった。だから、彼女は市民の話を信じた。


だが、これらの市民の声を研究の結果として発表することはできなかった。発表すれば彼女は科学者として終わるかもしれない。そこまではならなくても、笑い者になる。彼女は収集したこれら市民の声を、ずっと公表せずにいた。しかし、彼女はこれらの市民の声は、必ず、公開しなければならないと考えていた。彼女自身が、これらの声を信じているから。そして、これらの中にある奇怪な現象は、誰かからの強いメッセージだと捉えていたからだ。「奇怪な現象を起こすのは、気づいて欲しいから。そして、伝えたいことがあるから」だと彼女は考えていた。そして、その誰かとは、もしかしたら、この世のものではないかもしれない。だとしても、この誰かがW駅にトラブルを起こしているのならば、そのメッセージに耳を傾けることが、W駅のトラブルを沈静化する可能性がある。逆に言えば、このメッセージに耳を傾けないまま、W駅の拡張工事を行っても、ゴミの散乱などの問題は改善しない危険がある。


そこで、今日の意見交換会で、市長の嶋山充と私鉄①社長の宮浜真男に、市民の声を直接、ぶつけようと覚悟して登壇した。

W駅の現場の人々、市の現場の人々の強い推薦に感謝しながら、彼女は手を挙げた。そして、何故かつまらなそうな顔をしている嶋山充に、市民の声をぶつけた。

「これから、市民の貴重な証言を幾つか報告します。まず、炎に包まれ人が赤く燃えて見える現象です。W駅の構内で度々、目撃されています。実際には、人は燃えていません。でも、炎に包まれ真っ赤に燃えて見えるのです」

会場がざわついた。

壇上でも疑問の声が上がった。

しかし、枝島一恵は水越賀矢が薄っすらと笑っているのを見逃さなかった。彼女はきっと何かを知っているのだと思った。そして、意外なことに、市長の嶋山充がテーブルの端からこちらを凝視していた。市長が関心を示しているのが明らかに分かった。枝島一恵は、嶋山が関心を示したことで勇気づけられた。笑い者になっても構わない。市民の声を伝える。彼女は再び報告を続けた。

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