第五章(舞台)3

三.

一時半に運転手が、ワゴン車を市民文化ホールの入り口に横づけした。そして、『救済される魂たち』の信者に降りるよう促した。瀬上芯次は驚いた。隣の円崎兼行も、「俺たち、スターじゃないんだから、迷惑なだけだよ」と呟きながら車を降りた。瀬上はロビーに入ると円崎に、「電話をしないといけないところがあった。先に行ってて」と言って信者たちから離れた。「遅れるなよ」という声を背中で聞きながら、瀬上はスマートフォンを手に徐々に入り口のほうに戻った。皆が、第一ホールに入ったのを確認すると、彼は外に出た。それから、しばらく駐車場の辺りを歩いた。電話をかけなければならないところなどなかった。ただ、こうやって意見交換会が始まるのを待っているだけだった。


瀬上は正面にある市民文化ホールの建物を見た。淡黄色に塗られた建物は曲線的なデザインだった。この街の公共建造物は傾向的に直線的、あるいは、鋭角的なものが多い。W駅も直線的なデザインだ。例外的に柔らかいデザインの市民文化ホールは、市民が集う場に相応しく柔らかさが感じられた。瀬上は駐車場から、建物を眺めながら、ある記憶が蘇ってきた。入信して奉仕活動を始めるまでの彼は、毎日、午後から散歩をしていた。冬でも、今日のように暖かく晴れた日は、必ず、散歩に出ていた。目的地など無かった。ただ歩き続けていた。今、みんなの幸せのためにという使命感を持って奉仕活動に打ち込んでいる。でも、この状況が永遠に続くことはない。いつか何かの形で終わりが来る。その時、自分はまた散歩の日々に戻るのだろうか? 瀬上は奉仕活動に打ち込む毎日には気づかなかったことが目の前に広がった。それは、茫漠とした不安だった。

「本当は何も変わっていないのかもしれない……」

瀬上は他の十九人の信者とは違った。悩み相談で水越賀矢に魅了されて入信した信者ではない。ダムドールのホームページの水越賀矢を見て魅了された。だから、彼女に惹かれたことは同じだ。でも、入信のきっかけは、水越賀矢から青沢礼命を守るためだった。信仰の始まりは複雑だった。そのため、生きがいを感じている今でさえ、一歩引いた自分がいた。牧多の依頼で引き受けた諜報係という役割も全てに距離を置かせている。

「いっそのこと何も考えずに夢中になれたら、どれだけ幸せだろう」

淡黄色の建物を見ながら、瀬上はそう呟いた。


その時、信者たちが、ロビーに再び出てきた。開演十分前になっていた。瀬上を探しに来たのだった。入り口から外も見回していた。瀬上は車の陰に隠れた。しばらくすると、皆、諦めて会場に戻った。それから、またしばらく待って、瀬上は会場に向かった。少しでも顔が隠れるようにと、ダッフルコートの襟元に首を埋めるようにして会場に入った。まだ客席の照明はついていた。信者用の席は前列右側の来賓席の中にあった。真っ白なパーカー姿の若者が並んで座っているのが見えた。あの場所に座らないために車の陰に隠れたのだ。一般の席は満席だった。空いている席がないか探していると、一つだけ見つかった。彼は急いで、その席に座った。一階の客席の中央にある席だった。舞台がよく見える良い場所だった。それだけに、席そのものもよく見える場所だった。つまり、両親に見つかりやすい場所だった。加えて、瀬上の席は、左側と目の前にある通路に近かった。左側の通路からも、目の前にある通路からも、二席しか離れていない。スタッフが頻繁に行き来する。瀬上は会場が早く暗くなることを願った。このままだと、両親に見つかるのも時間の問題だと思った。すると、父の肇が前の通路を通った。芯次は、咄嗟にダッフルコートの襟元に首を埋めた。でも、もうダメだ。こんなことをしても、特に意味はないと観念した。しかし、父は芯次が座っていることに気づかず通り過ぎた。次に、母の美素子も前を通った。母も芯次に気づかなかった。瀬上芯次は、新品のダッフルコートの効果を確認した。黄色っぽく変色したダウンジャケットから、紺色のダッフルコートに着替えたことで、両親は、自分の存在に気づかなかった。一応、変装が成功したということだと彼は思った。後は、照明が暗くなってくれれば大丈夫だと彼は天井を見上げた。しかし、照明はほんの少し暗くなっただけで、真っ暗にはならなかった。

「昨日の説明の時は、もう少し暗くなった気がしたが。これだと作品の輪郭がぼやけた感じに見える。まいったなあ。でも、今更、どうしようもできない。妥協するしかないか。水越賀矢さんのために」

瀬上の右隣からそんな声が聞こえてきた。

瀬上は右隣を見た。

黒いニット帽を被って革ジャンを着た大きな男が座っていた。

「会場は真っ暗になるんじゃないんですか?」

瀬上は男に訊いた。

「真っ暗にはならない。でも、もう少し暗くなるはずだったんだけど」

男はそう言った。

「水越賀矢先生……、と呼ばれている壇上のあの女性と知り合いですか?」

男は答えた。

「ああ。彼女がダムドールっていう服屋をやっていた頃からのつき合いだ」

男はそう言うと、壇上の水越賀矢を見た。瀬上も見た。

他の論者と並んでテーブルについていた。真っ白なパーカーを着ていた。特に緊張している風でもなかった。

男は自己紹介をした。

「俺はジョニー無界。芸術家の端くれだ。舞台の上のW駅のホームは俺が作ったんだ。今日はその確認に来た。君は賀矢さんの信者?」

「いえ。違います。W駅の問題に関心があって来ました。瀬上芯次と言います」

「そうか。感心な若者だ。よろしく」

ジョニー無界は笑った。邪気のない笑顔だった。


杉原和志と牧多賢治は、来賓席から少し後ろの席に座っていた。早くに会場に到着した彼らは、青沢礼命が到着するのを待っていた。その間に、壇上にいる水越賀矢に挨拶に行った。彼女は屈んで、二人を見るとこう言った。

「仮に牧多君と杉原君が、礼命会から『救済される魂たち』に移った場合、なんていうのかしら? 移籍? 宗旨替え? 改宗?」

彼女は真面目な顔をしていた。だから、杉原が真面目に答えた。

「改宗でしょうね。でも、突然、どうしたんですか?」

「ふと思いついただけ。特に意味はないわ」

彼女は立ち上がると、笑顔を見せて自分の席に戻って行った。

杉原と牧多も席に戻った。

「改宗のことって、ふと思いつくような話かな?」

「誰か、礼命会から『救済される魂たち』に移りたい人がいるのかな? 僕も思いつきで言った話じゃない気がする」

牧多と杉原はそんな話をした。

それから、来賓席にいる若者信者の中に瀬上の姿を探した。しかし、瀬上の姿はなかった。牧多がメールを送った。だが、返事はなかった。瀬上は、既に彼らより後ろの席に座っていた。瀬上の席から、杉原と牧多の後頭部が見えていた。しかし、メールに返信はしなかった。


瀬上は来賓席に青沢礼命がいないことに気づいた。杉原と牧多は、青沢が到着するのを待っていた。水越賀矢は平静を装っていたが、青沢礼命が現れるのを待っていた。

その時、舞台の上の端村のところにスタッフが駆け寄った。スタッフから話を聞いた端村は立ち上がり、論者のテーブルに駆け寄った。端村は論者に何かを説明していた。皆、じっと説明を聞いていた。最終的に嶋山充と小野山遼が頷いた。そこで、結論が出たようだった。会場からも、その様子が見えた。


端村清一がマイクを持って舞台の中央に立った。

「会場の皆様に、急遽、予定変更がありましたことをお伝えします。本日の意見交換会に、もうお一方、論者として登壇していただくことになりました。宗教法人礼命会代表青沢礼命様です。また、若干、開始時間が遅れますことをお詫び申し上げます」

途端に会場から疑問の声が上がった。

「礼命会は今回のW駅の奉仕活動には関係していないはずですが?」

端村が答えた。

「青沢様には、この街の発展に以前からご尽力していただいているため、この度の集まりにも、招待をさせていただきました。また、青沢様が、礼命会の信者である宗田功佐久様に、この意見交換会のことをお話しされたところ、宗田様が、是非、参加したいと申されたそうです」

「話がよく分からないんですが? 宗田さんという人は誰ですか?」

会場から再び疑問の声が上がった。

「失礼しました。宗田様は、宗田グループ前代表である宗田功佐久様です。宗田功佐久様と青沢礼命様が登壇し、青沢礼命様が論者として話をします」


宗田グループと聞いた瞬間、来場者は、端村の話の内容を聞かずとも理解した。好意的な理解ではなかった。

「市民運動の意見交換会に、大企業家が参加すること自体、どうなんでしょうか? しかも、開会直前に論者を増やせだなんて、私は、そういうのは嫌だな」

かなり前のほうの席の男が言った。

会場全体が彼の意見に同調した。

「それに、宗田氏は自分ではなく、青沢氏を代理の論者として話をさせるんですか?」

「今のことは、急に決まったんですよね。そのために、開始時間が遅れるなんて……」

会場から次々と批判の声が上がった。

嶋山と小野山は、渋い顔をしていた。

水越賀矢は、内心笑っていた。

『青沢は、宗田功佐久の長男の自殺のことを忘れていなかった。それを意見交換会当日に、ぶつけて来るとは考えたな。ただ、来場前に、これだけ聴衆に反感を持たれては、せっかくの演出も逆効果だ』


舞台のすぐ下の席に座る『救済される魂たち』の信者は、青沢礼命という名前を聞いた瞬間から、激しい敵意を抱いた。丘の上の教会から若者に向けて呪いの経典を読んでいる青沢礼命が現れるのである。敵意と恐怖心を抱いた。彼らは振り返って、会場の入り口を見た。


青沢礼命が現れた。勤務時の杉原和志と同じ濃紺のスーツに同系色のネクタイを締めていた。シャツは杉原とは違い白ではなく水色だった。もう一つ杉原とは違い青沢のスーツはフルオーダーだった。会場に入ってきた青沢は静かに来賓席に向かった。但し、彼は一人ではなかった。彼は車椅子を押していた。そして、彼の後ろには、白衣を着た男がいた。車椅子には、小柄な老人が座っていた。宗田功佐久だった。分厚いガウンに身を包んでいた。車椅子の後ろに酸素ボンベが載せられていた。鼻にチューブを入れて酸素を吸入していた。白衣を着た男はこの老人の主治医だと思われた。宗田が本当はこの場所に来られる状態ではないことが分かった。何故、青沢礼命が宗田の代わりに話をするのか、その意味を理解した。会場の皆は、感情的になったことを反省した。


若者信者たちも、青沢礼命が想像していた人物と違うことに戸惑った。悪魔のような男が現れると思っていた。だが、実際は、静かな男だった。しかも、病身の老人の車椅子を押していた。その姿を見て敵意が消えた。でも、水越賀矢が呪いの経典を読んでいる男だと言ったのだ。隠している闇の顔を持っているのかもしれない。若者信者たちは、そう思うようにして警戒心は解かなかった。


青沢が車椅子を押して、杉原と牧多の近くを通り過ぎた。

その瞬間、杉原と牧多は、宗田に頭を下げた。

二人は小さな声で言った。

「お久しぶりです」

杉原と牧多は、四年前、一度だけ宗田に会ったことがある。水越賀矢が、ペンダント売りの問題を起こした時に、青沢礼命に連れられて、宗田の邸に行った。その時に会った。二人の記憶している宗田功佐久は物静かだが、健康な老人だった。


会場の空気は一変した。皆、宗田功佐久と青沢礼命に同情的になった。青沢は舞台の近くまで行くと会場に向かって説明を始めた。静まり返った会場に青沢の声が響いた。

「礼命会代表青沢礼命です。到着が遅れ、大変申し訳ございません。また、急な登壇という無理なお願いにつきましてもお詫び申し上げます。実は、昼過ぎに、当教団の初代信者総代である宗田功佐久様のところに伺いました。宗田様は、体調がすぐれないため、ご自宅で療養されています。本日、W駅の意見交換会に参加することをお話しすると、宗田様も、どうしても、参加したいと仰いました。そのため、主治医の笠沼医師が付き添う形で来場しました。宗田功佐久様は、一代で宗田グループを作り上げた立志伝中の人です。宗田様は、この街の人々の愛情によって育まれたからこそ、厳しい人生を乗り越えられ、今の自分があるといつも感謝されています。W駅のことも常に気にかけて来られました。しかし、W駅の問題は改善しないままです。宗田様は、今回の運動に協力することが、最後のチャンスだと仰っています。私も宗田様の気持ちに応えられるよう話をする所存です。よろしくお願いします」


青沢礼命の話が終わると、会場には大きな拍手が起こった。

青沢は、車椅子を押して、スロープから舞台に上り、用意された席についた。枝島一恵の隣だった。名前幕も用意されていた。宗田功佐久は青沢の隣に。宗田の後ろに医師役の笠沼が待機した。


水越賀矢は、青沢礼命にしてやられたと思った。

『見事に会場の人々を味方につけた。ここまで計算した上での演出だった。私の計画が実行し難くなった。青沢は、やはり、侮れない』


青沢礼命は、無策で現れたわけではなかった。だが、複雑な策略を練る余裕はなかった。いつもの水越賀矢なら、宗田の“仮病″も簡単に見抜けたはずだ。見抜けなかったのは、彼女が慢心していたからだった。何もかもが上手くいきすぎていた。ジョニー無界に、ショルダーバッグの中の一千万円を突き出すようにして見せた。あの時、彼女には、倨傲さが感じられた。それが、ジョニー無界を不快にさせた。彼女は常に抑制的に振る舞っているつもりだった。でも、あの時の水越賀矢が、今の水越賀矢だった。


今日の昼過ぎ、青沢礼命は、書斎の机の中に隠した手紙のことを思い出した。教会の窓から晴れた空を眺めていた。その時、何故か、突然、頭の中に、あの手紙のことが浮かんだ。青沢は書斎に走った。引き出しの奥に隠してあった手紙を取り出した。宗田功佐久からの手紙と長男竜景の自殺の記事がコピーされた紙が入っていた。

「どうして、私はこんな大事なことを思い出さなかったんだ。水越賀矢が、何を企んでいるかは分からない。でも、礼命会とW駅が結びつくのは、このこと以外にない。思い出したくない過去だと思う。しかし、宗田さんのところに行って話すしかない」


青沢礼命は、手紙を持って書斎を出た。そして、教会のワゴン車のエンジンをかけると、丘を下りて、宗田功佐久の邸に向かった。邸についた青沢が中に入ると、広い畑を耕す宗田がいた。彼は妻が亡くなってから、大きな庭にあった樹々を取り払い、畑にした。そして、野菜を作っていた。青沢は彼を連れてすぐに市民文化ホールに向かうつもりだった。だが、宗田の姿を見て、まず、彼を連れて教会に戻ることにした。妻の死の悲しみから宗田は立ち直っていた。元気になった宗田を青沢は喜ばしく思った。だが、壮健な宗田功佐久をそのまま市民ホールに連れて行くことは、避けるべきだと彼は考えた。いつも宗田の身辺警護をしている笠沼も一緒に教会に連れて行くことにした。


青沢は宗田に言った。

「W駅に関して水越賀矢前代表が積極的に動いています。目的は礼命会を壊滅させることです。そして、宗田総代の御子息の三十年前の悲劇を利用するつもりです」

宗田は、「行きましょう。竜景のことは、ずっと私も区切りをつけたかった」と頷いた。

車中で、今回の件のあらましを説明した。


教会に到着すると、青沢は、すぐ教会の隅から車椅子と酸素ボンベを持ってきた。車椅子は常時利用できるように数台置いてある。酸素ボンベは高齢信者の中に酸素ボンベを装着している者がいるため、教会にも予備が置いてあった。持ってきた車椅子には、酸素ボンベを設置する架台がついていた。架台に酸素ボンベを設置した。

「宗田総代には、この車椅子に座って、チューブを鼻に当てた状態で、市民文化ホールに入ってもらいます」

「宗田グループの宗田功佐久が健康な姿で市民ホールに現れると支障がある。反発を感じる人もいれば、萎縮する人もいる。そういうことかね?」

「そうです。それと、水越賀矢前代表を油断させるためにも」

青沢の説明に宗田は頷いた。

笠沼には、青沢の白衣を渡した。

「笠沼さんには、宗田総代の主治医になってもらいます」

笠沼は上着を脱ぎ白衣を着た。目つきが鋭いことを除けば十分に医者に見えた。


テーブルについた青沢礼命は、舞台の中央にある大きな造形作品を見ていた。ジョニー無界の作品だと分かった。それは、彼が市立美術館で、この作品のオリジナルを見たことがあるからだった。彼は思った。会場に来るまでこの作品のことを全く知らなかったのは何故か? 瀬上からの連絡が途絶えたからだ。これほど特徴的な造形作品のことについて、彼が連絡をして来ないはずがない。何かあったのか? 青沢は信者席を見た。瀬上の姿だけない。会場を見渡したが、広い会場の中に彼の姿を見つけることはできなかった。


二時半になった。

「私の挨拶は省略しましょう。そして、少しでも多くの時間を議論に充てましょう」

短くも民主的な嶋山市長の言葉を挨拶として、W駅と市民についての意見交換会は始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る