第五章(舞台)
一.
年が明け、一月五日から予定通り、W駅の奉仕活動が再開された。昨年までは、水越賀矢の指揮の下に清掃活動を行なっていた市民ボランティアだったが、年明から、全てW駅の管轄下に入った。指揮は駅員が執ることになった。市民ボランティアの登録者数が多くなり体制を改めた。一月九日には、FT新聞に端村清一の記事が掲載された。連載三回目の記事のタイトルは、「行政はW駅をどう考えているか?」だった。内容の中心は、この街の市長へのインタビューだった。市長は嶋山充という真面目な人物で、インタビューにも誠実に答えた。掲載された記事も好評だった。
一月十二日。今日も、奉仕活動がW駅では行われている。だが、水越賀矢は、奉仕活動には参加せず、ある人物に会うため、郊外にある作業場に向かっていた。作業場とは芸術工房であり、ある人物とは造形芸術家だった。水越賀矢が奉仕活動を休んで、造形芸術家に会いに行くのは、彼女のプライベートな活動ではなかった。オリーブグリーンのミリタリーコートに身を包み、黒の大きなショルダーバッグを下げた彼女は、冷たい風の吹く中を歩いていた。牧多賢治の総菜工場が郊外にあるように、街の外縁を囲むようにして小さな工場が建ち並んでいた。食品加工工場が集まった場所もあれば、電化製品の部品工場が集まった場所もある。同じ業種の工場が集まって一つの工場街を形成している。それが幾つもの工場街として郊外に存在しているのが、この街の一つの特徴だった。水越賀矢は、教会の近くの駅からW駅とは反対方向に向かう電車に乗った。そして、電化製品の部品工場街の近くにある駅に降り、そこから徒歩で十分ほど歩いた。駅を降りると、住宅はまばらで、寂しい風景が広がっていた。この辺りは、杉原和志が言うところの貧困層住宅街だった。彼女はまばらに建ち並ぶ古い家々を見ないようにして歩いた。マナーというよりも、自分の子どもの頃を思い出しそうで嫌だった。すぐに工場街が見えてきた。目的の作業場は、工場街に入ってすぐにあった。彼女は、既に建物の見えている作業場に向かった。作業場は、周りにある工場とは違い平屋建ての簡単な造りの建物だった。物置き小屋を大きくした感じだった。
『ジョニー無界 造形工房』という大きな看板がかかっている。
ジョニー無界とは、水越賀矢が、パンクファッション専門店『ダムドール』を経営していた時代の常連客だった。ジョニー無界という名は、アーティストとしての名前だった。本名は誰も知らない。
彼女は建てつけの悪い引き戸を開けた。
広い作業場の向かって右側には、ジョニー無界の芸術作品が置かれていた。大きな球体の作品だった。金属で作られていた。表面は錆びていた。そこから、沢山の人間の人差し指が突き出ていた。指は石膏で作られていた。本当は突き出ているのではなく、表面に接着してあるのだが、指が球体の表面から突き出しているように見えた。精巧に作り上げられた人差し指の効果だった。
その隣で、ジョニー無界が別の作業をしていた。小さな木製のコマを作っていた。回して遊ぶコマだ。ジョニー無界ならではの独創性のある芸術作品ではなく、ごく普通のコマだった。彼は背の低い椅子に座り、木工ナイフを使って、木のブロックを削っていた。彼の手の中で、すぐにブロックはコマの形になった。
「ジョニーさん。ご無沙汰しています」
水越賀矢が声をかけると、コマ作りに集中していたジョニー無界が、彼女の存在に気づいた。
「店長。久しぶりだなあ。四年振りかな」
彼の声は大きな体に比例して大きい。威圧感を覚えるものもいる。彼はコマを作る手をとめると、水越賀矢をしばらく見ていた。彼女も彼を見ていた。ジョニー無界は、彼女が知る限り、ずっとスキンヘッドだ。そして、頭の真ん中に蛇の入れ墨がある。生まれつき眉が薄いため、入れ墨と相まって凄みのある顔をしている。体には肉がついている。そのためか、冬でも、Tシャツの上に革ジャンを羽織っているだけだった。今もそうだ。作業場には、彼の近くに電気ストーブが一台置いてあるだけだった。
「はい。店を閉めてから、もう四年になります」
ジョニー無界の顔には皺ひとつない。血色もいい。そのため、彼は年齢が分からなかった。五十前後というものもあれば、六十を過ぎているというものもある。彼はその血色のいい顔をニコッとさせた。
「今も、宗教家なのかね?」
「はい。最近、新しい教団を立ち上げました」
ジョニー無界は言った。
「偉いな。あれから、ずっと宗教家を続けているなんて。俺なんて、絵描きを目指していたのに、いつの間にか、造形芸術家に。そして、それじゃあ食えないから、内職で始めたコマ作りが、気づけば、本職みたいになっている。玩具メーカーから注文が多いんだ。仕上がりがいいからって。でも、俺、コマ職人になったつもりはないんだぜ」
そして、大声で笑った。
水越賀矢は言った。
「私は、ジョニーさんのように何でもできないから、宗教家のままなのかもしれません」
彼は頷いた。
「不器用なほうがいい。俺みたいに器用貧乏は良くないからさ」
水越賀矢は、四年前のことを思い出した。
四年前、彼女が神がかりになって、ダムドールを閉店することになった時、何故、突然、やめるのかと常連客から批判された。神がかりになったからとは言えなかった。頭がどうかしたとしか思われないからだった。そんな時、ジョニー無界が彼女を擁護してくれた。
「店長には、店をやめてでも、どうしてもやらなければならないことがあるんだ」
水越賀矢は、彼の言葉に感謝した。同時に、彼にも過去に何か同じような経験があったのではないかと尋ねた。
彼は答えた。美大で油絵を専攻していた彼は、具象画家として将来を有望視されていた。だが、彼は卒業間近に、どうしても造形芸術をやらなければならないと思った。彼は油絵の道を捨てた。そして、造形芸術に進んだ。そんな彼を大学は見放した。友人も失った。でも、彼は今日まで、造形芸術の道で生きている。ジョニー無界は、決して、器用貧乏などではない。ダムドールをやめて宗教家の道に進んだ自分と同じで、先の見えない道を必死で模索しながら生きてきた人だ。ジョニー無界は、彼女が尊敬する数少ない人物の一人だった。
水越賀矢は人差し指が沢山突き出ている大きな球体の作品の前に立った。
「この作品のテーマは地球はひとつですね。素晴らしい作品です」
ジョニー無界は低い椅子から立ち上がった。
「さすが、賀矢店長。分かってくれたのは、あんただけだよ。世界の愛と平和を祈って作ったんだ。でも、誰も理解してくれない。怖いって言われるよ」
彼は突き出した人差し指の一つを右手で握ってそう言った。
彼女は本題に入った。
「実は、今日、私は作品の製作を依頼に来ました。W駅の在来線のホームを作って欲しいんです。街の市民文化ホールの舞台に合わせたサイズで」
ジョニー無界は握っていた人差し指から手を離して尋ねた。
「W駅の在来線のホーム? 随分、具体的な指定だけど、店長。何をするつもりなんだ?」
水越賀矢は説明を始めた。
昨日十一日、W駅に記者の端村清一が現れた。記事の掲載された九日から彼は姿を見せていなかった。清掃作業をしている彼女のところに来て端村清一は言った。
「急な話ですが、二月の初めにFT新聞社の主催で、W駅についての市民シンポジウムを開くことになりました」
彼女は彼を見た。笑顔だった。
端村は自分が書いた記事を紙面で改めて読んで考えた。市長の嶋山のインタビューは、紙面の都合上、ほんの一部しか載せられなかった。つまり、大部分を捨てざるを得なかった。嶋山は勉強家だった。W駅の問題についても、意義のある話が多かった。にもかかわらず、読者の目に触れることなく終わってしまうことが残念だった。何よりも市民全体にとって良くないと彼は思った。次回は連載の最終回にあたる第四回だ。思い切って、市長も参加させてシンポジウムを開催し、シンポジウムの特集を連載の最終回とする。端村は社にこう提案した。すると、意外なほど簡単にOKが出た。実は、社のほうでも同じことを検討していたからだ。実際には、シンポジウムを開催するには準備期間が短いため、「W駅の奉仕活動について市長と関係者及び学識者の意見交換会」を開催することに決まった。
「そこで、昨年の十一月からW駅の清掃活動を開始した新教団の代表の私も論者として登壇することになりました。そして、ここからが重要な点なのですが、私は、W駅の問題を考える時、どうしても、在来線のホームが必要だと考えています。しかも、できるだけ忠実に再現されたホームを壇上に置きたいのです。あたかも、そこに在来線のホームがあるのかと見紛うほどの作品を。そして、それができるのは、ジョニーさん。あなたしかいません」
水越賀矢は力説した。
そこまで話を聞いたジョニー無界は、彼女を奥にあるテーブルのほうに連れて行った。そして、向かい合って座ると尋ねた。
「三週間ぐらいしかないけど、その短期間で作れるのも俺しかいないってこと?」
「はい。そのことも含まれています。はっきり言いますが、美術館に展示されている『日常的風景 Wプラットホーム』の簡易版を作って欲しいのです」
彼女の言っているのは、街の中心にある市立美術館の玄関のフロアーに展示されているジョニー無界の作品のことだった。ある日、W駅の前を歩いていた彼が、そこにある変わらない日常に触発されて作った造形作品だった。彼にしては珍しく奇抜さの無い作品だった。
「簡易版って言われると、廉価版みたいだな」
彼は笑った。そして、
「簡易版にせよ、廉価版にせよ、三週間は厳しいよ。それにあの作品は、特殊な材料を使っているから、製作費がかかってる。市民ホールの壇上に置く場合、あの作品よりサイズが大きくなるはずだ。ということは費用が、もっとかかる。そういう意味からも、厳しいと思う」
ジョニー無界は難色を示した。
「ジョニーさん。ここに一千万あります。これで足りなければ、すぐに追加を用意します」
水越賀矢はテーブルの上のショルダーバッグを開けると、突きつけるように中身を見せた。札束がどっさりと入っていた。
「店長。札束をこれ見よがしに見せるもんじゃない。仕舞いなよ」
ジョニー無界は、あの作品を製作するには費用がかかると言っただけだった。彼は金のために芸術作品を創作しているわけではない。それだけに、水越賀矢の振る舞いを不快に感じた。同時に、以前の彼女は、こんな風に金のあることを誇示する人間ではなかったと、彼は疑問に思った。
彼女は彼の疑問に気づかず話を続けた。
「私は、壇上にW駅を模した造形作品を置いて実証実験をやるつもりです。その際に、造形作品の上に私が乗る可能性もあります。それに耐えうる剛性の高い作品を作れるのは、やはり、ジョニーさんしかいないと思ってお願いに来ました」
彼は驚いた。そして訊いた。
「意見交換会だよな? 店長。あんた、会場のみんなが見ている前で、俺が作ったミニチュアのホームの上に乗るつもりなのか? 一体何の実証実験をするんだ? 波乗りの新しい乗り方とか?」
「申し訳ありません。それはお答えできません」
彼女は頭を下げた。
「興味深い話だ。よく分かんないところも、あんたらしい。ただ、あんたが何をしたいのか? 作り物の駅のホームの上で波乗りをやってみせる理由は何なのか? それを聞かないとどうしても、俺はこの仕事は引き受けられない。俺は作品のコンセプトとメッセージを何よりも重視する造形作家だから」
すると、水越賀矢が言った。
「私の宗教家としての人生最大の勝負になります。ジョニーさん。どうか力を貸してください」
「あんたが真剣だということは十分に伝わっている。だから、具体的に教えてくれ」
水越賀矢はようやく話した。
ジョニー無界には、宗田功佐久と長男竜景の悲劇について彼女が体験したそのままを話した。歪曲はしなかった。
「人が燃えて見えた? 凄い光景だっただろうな? でも、それより宗田グループの会長と自殺した長男の話なんか、シンポジウムで話してどうするんだよ? W駅の奉仕活動と関係ないじゃないか?」
ジョニー無界が言った。
「神がかりである宗教家水越賀矢には、その関係がはっきりと分かります。これは、意見交換会で市民に伝えなければなりません。ジョニーさん。そのために、W駅のホームの造形作品を作ってください」
水越賀矢は、ジョニー無界に頭を下げた。
「店長が宗教家としての命をかけて勝負に出るんだ。引き受けないわけにはいかねえな。シンポジウムはいつだ?」
「二月四日です」
「タイトなスケジュールだ。これから、早速、市民文化ホールの舞台を見に行こう。作品のサイズを決めなくちゃならない」
二人はすぐに工房を出た。
瀬上芯次は、その日も、W駅で清掃活動をしていた。彼が高校に行かずに、ほぼ毎日、駅で清掃活動をしていることに両親は気づいていない。彼が隠し事をするのが巧いからではなかった。彼の両親が、彼のことに無関心だからだった。父は瀬上肇、母は美素子といった。今、肇と美素子は、意見交換会の開催に向け、市役所側のスタッフとして準備に参加していた。肇は現在、市民課に配属されている関係上、こういう場合、必然的に、会場の準備スタッフになった。美素子の場合は、人員不足のため、保険年金課から借り出されていた。肇は、FT新聞社、そして、W駅側のスタッフとともに市役所の会議室で、意見交換会で登壇する人物の確認を行っていた。主催はFT新聞だが、市長のインタビューがきっかけで実現する意見交換会ということもあり、市が積極的に動いていた。論者は、市長の嶋山充、FT新聞副社長の小野山遼、奉仕活動を始めた水越賀矢、市民ボランティア代表の笹脇教子。W駅からは私鉄①の社長宮浜真男が論者として登壇する。三線を代表して私鉄①の宮浜が出席する理由は、彼がこの街の出身だからだった。そこに、G大学の都市工学科教授の枝島一恵も加わる予定になっていた。
「水越賀矢という人は、ついこの前まで、礼命会の代表を務めていただけあって、さすがだ。独立して、いきなりこれだけ大きな運動を起こすんだから」
「礼命会といえば、青沢礼命代表は意見交換会に来場するだろうか? 色んな意味で、あの人には来て欲しい」
FT新聞とW駅のスタッフが話していた。
すると、瀬上肇が言った。
「水越賀矢先生は、既に会場の準備に動いておられます。ご自身で用意したいものがあるそうです。青沢礼命先生には、たった今、招待状を送付しました」
瀬上肇は、長男の芯次が、自殺しようとしたところを青沢礼命に助けられたことを知らない。それどころか、今、水越賀矢の教団『救済される魂たち』の信者として、W駅の清掃活動をしているということも全く知らない。彼は、自らの事務処理能力を誇るように、水越賀矢の動向と青沢礼命に招待状を送付したことを話した。
瀬上芯次の母美素子は、市民文化ホールで会場のチェックをして、市役所に戻るため玄関前のフロアを歩いていた。駐車場に停めてある市役所の車に乗って、早く役所に戻ろうと急ぎ足で歩いていた。その時だった。玄関から男女が並んで入ってきた。男はスキンヘッドの頭に蛇の入れ墨を入れていた。大きな体だった。太っているためなのか、変に肌にツヤがあった。美素子は目を合わさないように歩いた。隣の女は、深い緑色のコートを着ていた。顔立ちも悪くない。長い髪も綺麗だ。ただ、何故か並んで歩いている男より異様な雰囲気がした。美素子は二人とすれ違った。そっと振り返ると、二人は、先ほど美素子がいた第一ホールの入り口の辺りに立っていた。市民文化ホールの職員が近づくと男が話をした。すると、職員は笑顔で頷いて、二人と一緒にホールの中に入っていった。彼女は市民文化ホールを出て駐車場に停めてある車に乗った。あの二人は誰だろうと考えながらエンジンをかけた。その時、彼女は思い出した。
『あの女は、確か有名な服屋の店長だ。彼女自身も人気があった。市の広報課でも、彼女の店を取り上げたことがあったはずだ。男は初めて見る顔だ。でも、彼女は、確かにそうだ』
瀬上美素子は、水越賀矢の名前までは思い出せなかったが、それだけの記憶を蘇らせることのできた自分に満足した。しかし、肇と同じく、まさか芯次が、水越賀矢の教団の信者であるとは夢にも思わなかった。美素子の運転する車は、車の多い通りを避け、抜け道を使って市役所に向かった。途中、車はB高校の前を通った。美素子は、芯次が、今、教室で授業を受けているという事実を疑うことは一切なかった。瀬上美素子と肇の人生計画の中に息子の不登校という項目は無かった。芯次は毎日学校に行っている。彼らにとって、それが紛うことなき事実だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。