第四章(実践)4
四.
FT新聞の記者が初めてW駅の奉仕活動を取材に訪れた夜、水越賀矢は、座敷の畳の上に寝転んで考えていた。
それは、よく晴れた秋の日のことだった。当時、礼命会代表を務めていた水越賀矢は、午後からビラを配りに街に出た。信者獲得のため、彼女は時間があると街に出ていた。この日は、街の中で比較的大きい駅を幾つか回った。特に街の中心にあるW駅で長い時間、ビラ配りをした。彼女はキャプテンビーフハートのTシャツの上に黒の薄手のコートを羽織っていた。夕方の帰宅ラッシュの時間になった。気温が下がり、寒くなってきた。またラッシュ時は、人は多いものの、皆、急いでいるため、ビラを配っても受け取る人は少ない。そのため、彼女はそろそろ切り上げて、丘の上の教会に帰ろうと思った。夕暮れ時だった。空が赤くなっていた。彼女はしばらく空を眺めた。そして、何気なく駅を見た。沢山の人が改札から出て来ていたのだが、その中に、炎に包まれて真っ赤に燃えている人がいた。彼女は仰天した。だが、周囲の人は誰も驚いていなかった。そこで、彼女は最初、自分の目がおかしくなったのだと思った。でも、何度見ても、炎に包まれ赤く燃えている人がいた。そこで、彼女は、神がかりの力が発揮されていることに気づいた。人が赤く燃えて見える現象を通して、神が彼女に何かを伝えているのだった。彼女は赤く燃えて見える人々を観察した。共通点が見つかった。ある者は改札を出てすぐ駅員に暴言を吐いた。言われた駅員はぽかんとしていた。構内禁煙なのに煙草に火をつけて、すぐ煙草を捨てる者もいた。ゴミ箱に弁当の空箱を五つ詰め込む者もいた。ビニール袋に入れた空のペットボトル十本をゴミ箱に捻じ込む者もいた。
水越賀矢は気づいた。
『赤く燃えて見える人々は、怒り、あるいは、苛立ちを感じているのだ。それが、私には、炎に包まれ赤く燃えて見える。そして、駅を荒らす行動として現れているのだ。でも、神はそのことを私に伝えて何をせよと言われるのか? W駅のように問題化はしていなくても、どの駅にも、苛立ちを感じている人はいる。しかし、今日、勧誘活動をした他の駅では、この現象は見られなかった』
彼女は更に考えた。
『怒りや苛立ちを感じている人は、どこの駅にもいるのに、神はW駅の利用客を、あえて炎に包まれ赤く燃えて見えるようにした。それは、W駅そのものに何かがあることを私に伝えるためか? だとすると、こう考えられる。W駅にある何かが、利用客をより苛立たせているのだ。それが、この駅がいつも荒れている原因にも繋がっている。そして、その何かが私に関係があるということか?』
彼女の考えが、ここまで到達した時だった。
炎に包まれ赤く燃えて見える人々が、突然、元に戻った。誰が燃えているように見えていたのかも、分からなくなった。皆、疲れて家路を急ぐ、いつも通りの混雑したW駅の風景に戻った。
彼女の推理は正しかった。次に何をすればいいのか? 水越賀矢とW駅には特別な接点はない。だとすれば、今、彼女が代表を務めている礼命会とW駅に関わりがあると考えるのが妥当だった。彼女は丘の上の教会に戻ることにした。
彼女が寝起きしている書斎は教会の奥にあった。暗い廊下を歩いて行くとようやく書斎に辿り着く。教会が完成した後に、青沢が改築して継ぎ足した部屋だ。部屋には趣味の良いアンティークの机と椅子、それに、ベッドとソファーがあった。右側の壁には作りつけの本棚があり、多くの蔵書があった。小さなキッチンにシャワーとトイレもあり、一人で暮らすには十分な部屋だ。特にダムドールの二階の狭い部屋に、十五年住んでいた彼女には申し分のない部屋だった。
彼女は書斎の真ん中に立って考えた。神が私に伝えようとしている何かが、形としてこの教団施設にあるのなら、この部屋しかない。教会には『握り手様』の絵しかない。あの絵は、青沢礼命の個人的な体験に由来しているものだ。W駅とは関係ない。面談室にはテーブルと椅子以外何もない。そう考えると、この書斎しかない。彼女は書斎を見まわした。本棚が目にとまった。しかし、しばらく本棚を調べて彼女は気づいた。青沢礼命の本棚は、大部分が医学書と宗教関係の本だった。W駅と関係のある本はない。あったとしても、その本をそのまま本棚に並べておくとは考え難い。人が燃えて見えるほどの神がかりが起きたのだ。それだけ深刻なことだと捉えるべきだ。青沢は隠すに違いない。
本棚を離れ、彼女は、アンティークの机の傍に立った。彼女は、四つある引き出しを一番上から順に全て引き抜いた。そして、引き出しが引き抜かれて、空間になった部分に右手を入れた。奥の板に右手を当て、少し力を加え左右に動かした。一段目と二段目の引き出しの板には何の変化もなかった。三段目の引き出しの奥の板を左右に動かすと板が外れた。体を屈めて覗くと、貴重品を隠しておくための狭い収納スペースがあった。手を入れて隠してあるものを取り出した。歳月を経て変色した白い封筒だった。
水越賀矢は椅子に座って改めて封筒を見た。宛名は青沢礼命だった。封筒を裏返すと、宗田功佐久とあった。礼命会富裕層信者の中で、最も力のある人物だった。初代の信者総代であり、礼命会の立ち上げの時には、教会の建設費の半分を宗田が一人で出した。そういう人物だった。数年前、ともに信者だった妻が病気で亡くなって以降、あまり教会に訪れなくなっていた。水越賀矢は、代表に就任してから、宗田に数回しか会ったことがなかった。
彼女は封筒から手紙を取り出し読み始めた。
「この度のW駅の改修工事への寄附について……」
水越賀矢は、宗田の手紙の書き出しに一瞬、困惑した。彼女がこの手紙を読んだ二年前、W駅は、改修工事はしていなかった。また、彼女の中に、改修工事をしているW駅の記憶はなかった。この手紙は、いつ書かれたものなのかと彼女は手紙の最後を見た。日付けが書かれていた。この時から、九年前であり、礼命会を設立して三年目に書かれた手紙だった。
彼女は、九年前にW駅の改修工事が行われていたかどうかなど覚えていなかった。自分の人生を生きることだけで精一杯だった。
手紙は、近年、老朽化が指摘されているW駅の工事の必要性については、私も同意見である。だから、工事そのものには賛成である。耐震性や頻発する自然災害への対策の面からも必要だと考える。街の玄関口という視点からも改修工事は必要だと考える。というように改修工事に賛成する趣旨の意見が繰り返し書かれていた。我慢して読み進めた。すると、その繰り返しのまま手紙が終わってしまった。改修工事への賛意が繰り返されただけの手紙だった。
「隠す隠さない以前に、この手紙は一体何なんだ?」
水越賀矢は思わず呟いた。
彼女は、追伸を読んだ。
「追伸 以前、告解で、先生にお話ししました通り、随分昔のことになりますが、W駅で私の一人息子竜景が命を落としたのは、列車への飛び込み自殺でした。青沢先生が、私の話を聞いて、憐憫の情を抱いて下さったことは分かります。けれども、竜景は、余りにも身勝手でした。妻の言うことにも一切耳を貸さず、私の言うことにも反抗するばかりでした。たった一人の私の後継者である自覚もなく、街の不良とつるんで悪いことばかりをし、警察の厄介になることもしばしばありました。私は宗田グループを任せられない竜景を自分の息子だとは認めていませんでした。しかも、竜景は自殺によって人生から逃げました。あいつは負け犬です。青沢先生。負け犬の墓場のW駅に寄付などしないでください。もし、寄附をされるなら、私は信者総代も礼命会の信者も辞めます。何卒ご理解ください。」
便箋の余白に「宗田総代に寄附を中止した旨伝える」と青沢の字で小さく書かれていた。
「長男の自殺……。この追伸が宗田の手紙の全てだ。青沢礼命も、この追伸を隠すために引き出しの奥に手紙を入れたんだ」
それから、封筒の中にあるもう一枚の紙を取り出した。先ほどとは違い便箋ではなかった。白いコピー用紙だった。開いてみると、新聞記事の切り抜きがコピーされていた。「大学生 W駅で飛び込み自殺」という記事だった。宗田が、長男の自殺が事実であることの証拠として添えたのだ。三十年前の記事だった。
「大学生の宗田竜景さん(21)が、3月20日午後7時頃、W駅在来線ホームに入ってきた電車にはねられ死亡。宗田さんが自ら電車に飛び込んだという目撃証言複数あり。自殺とみられる」
たったこれだけの記事だった。だが、宗田の話を裏づけるには十分だった。水越賀矢は記事を読み終えた。その時だった。彼女の頭の中に鮮烈な映像が流れ出した。彼女の想像力が生み出したものではなかった。神の力によるものだった。
夜の駅のホームを青年が走っていた。
それを男が追いかけていた。
青年は振り返って叫んだ。
「俺は父さんのような金の亡者にはならない!」
青年は宗田竜景だった。
「金が世の中で一番大事なんだ。金が無くては何もできない。竜景。宗田グループに入るんだ。お前の性根を叩き直す。この世は金が全てだ!」
男は宗田功佐久だった。今よりもずっと若い。
夜の駅に人は少ない。しかし、皆がホームを走る二人を見ていた。
駅員も、二人を追いかけていた。
宗田竜景は父功佐久に向かって再び叫んだ。
「あんたは狂ってる。だから、俺は逃げる。これで永遠に俺はつかまえられない。ざまあみろ!」
竜景は宗田功佐久に吐き捨てるように言った。電車が在来線のホームに入ってくるのが見えた。激しく警笛が鳴った。そして、ホームに入ってきた電車に向かって宗田竜景が飛び込もうとしたその瞬間、水越賀矢は、書斎を飛び出した。
頭の中を流れる映像は途切れた。
彼女は、そのまま教会まで走った。
彼女は暗い教会の中、『握り手様』の前に立っていた。
「神がかりなんて、不自由なことばかりだ。神は、突然、顕れて、ああしろ、こうしろと言う」
そう呟く彼女は、何故、この神がかりが起こったかを理解していた。
神の意志は宗田功佐久に救いの手を差し伸べろと言っているのだった。彼女の神は、礼命会の神ではない。だが、彼女が礼命会の教祖であるのなら、信者を助けるのは当然だということだった。でも、彼女はそれを拒否した。自分の神と宗田の信じる神が違うからということではなかった。青沢礼命から代表を引き継ぐ時、宗田功佐久について、少しだが話を聞いた。青沢も詳しくは知らなかった。
宗田功佐久は、今、八十歳だ。妻を亡くし、気落ちしていることもあり、静かな老人だ。しかし、彼は一代で財を成した人物だ。彼に限らず、徒手空拳で事業を始め、大成した実業家を考える時、晩年は往々にしておおらかで優しい。でも、過去を振り返ると、そのほとんどが激しい人物だ。宗田功佐久も、その例に漏れず、激しい人物であった。W駅における悲劇は、そんな宗田の人間性が生み出したものかもしれない。長男竜景は宗田功佐久の激しさから逃げるために死を選んだのではないだろうか? そして、遠い昔の悲劇でも、宗田の中では、歳を重ねるにつれ、かえって、大きくなっているのかもしれない、と彼女は考えた。
神は宗田のその苦悩を和らげることを彼女に求めている。それほど、深い苦悩なのだろう。だからこそ、彼女は、何もするべきではないと考えた。孤独な余生を送る宗田に、わざわざ、過去の悲劇を掘り起こさせて、その検証をさせることにどれほどの意味があるだろう。それにより、宗田が納得する答えが導き出せるとも思わない。それより、そっとしておくことが大切である。神は時に、人の弱さを忘れる。彼女は、宗田功佐久の手紙を読んだという事実を封印し、このことを忘れることにした。
二年前、手紙を読んだ事実を封印したことは、水越賀矢なりの優しさだった。理性的で妥当な判断だったといえる。しかし、二年経った今、彼女は自らの手で封印した事実を明らかにしようとしている。しかも、彼女は宗田の悲劇を歪曲した形で世間に曝露するつもりでいた。彼女は、ある時期から礼命会を壊滅させることにしか自分の未来はないと思うようになり始めていた。彼女は先鋭化している。
あの夜、礼命会の教会を杉原と牧多とともに訪れた水越賀矢は、青沢礼命に新教団を立ち上げたいと訴えた。青沢礼命は断固反対した。青沢は、ダムドールの時代には、店の“経営”が、彼女の重しになり、礼命会代表の時代には周囲の厳しい目が重しになって、彼女に抑制的な振る舞いを強いていたと分析した。そして、抑える重しがなくなった時、四年前の彼女に戻る可能性が高いことを危惧した。そのため、新教団設立に反対した。今、彼女は、青沢の危惧した状態に近づいている。重しがなくなり、タガが外れた。それが、今の水越賀矢だった。また、神がかりになることから、水越賀矢が狂暴化するという青沢の推察も否定された。彼女は、既に神がかりではない。だが、彼女は良くない方向に向かっている。彼女は弱者だった。今も意識の上では弱者だ。その彼女が生きるために選んだのが常に攻撃的であることだった。そして、攻撃的である彼女から重しが取れた時、それがエスカレートして狂暴化するのかもしれなかった。青沢には分かり得ないことだった。それは仕方のないことだった。水越賀矢も青沢礼命のことをほとんど何も知らない。青沢礼命も死んだ父のことを何も知らない。優秀な企業人、円満な家庭人のまま命を絶ってしまった。努力のいかんに関わらず、人が人を理解することには、畢竟、限界があるということだった。
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